変化する言葉とその力

2021年8月11日

エクシード英和辞典というのがあって、使う人の好みによるだろうが、私にとっては重宝した。中古品が格安で出回っているのは、人気がないということなのだろうが、スポルジョンを読むために役立つ英和辞典でコンパクトなものは、これのほかは知らない。
 
スポルジョンは、19世紀イギリスの説教者である。と、このようなことを説明しなければならないほど、時代は変わったのだろう。かつては知らない人はいなかった。二日にひとつは説教をしたというような数字が残っているが、その説教は、直ちに文字化され、イギリス全体で読まれていたという。高い教育は受けておらず、18歳で牧師に就任し、その説教で、信徒は1年で何十倍にも増えたという。例示が豊かで福音に富み、また分厚い説教論も有名である。この説教論は一部が邦訳されており、近年新版も出ている。劇的な出来事として、説教中に起きた火災で犠牲社が出たことが、終生その心から離れなかったと伝えられている。
 
日本語でも彼の書物は出ているが、とにかく語ったものが悉く文字になっているので、英語が読めたらそれらが読めるのに、という思いであった。その英語というのが、19世紀の英語である。シェイクスピアほどにはならないが、普通の辞書に載っていない古語が多い。そこで、いろいろ苦労している時に、このエクシード英和辞典で間に合うことが分かったのだ。
 
聖書の訳語も変わっていく。日本では、約30年というのが一つの区切りとなっているようだ。そして近年、いくつかの聖書が改訂された。また、その改訂理由や背景というものを公開するのも、最近の流行である。日本聖書協会のほうも、新改訳の側も、そうした本を出版している。
 
その中に、「つぶやく」という言葉の改訂の背景が記されているものがあった。出エジプトの場面で、イスラエルの民がモーセに不平を漏らすわけだが、それをかつての聖書は「つぶやく」と訳していた。もちろん、それでよかった。だが、ツイッター以来だと思うが、「つぶやく」に、そのような不満を述べる意味ではない、もっと肯定的な意味が第一のものとなりつつにつれ、出エジプトの場面に「つぶやく」と記すのは相応しくなくなってきたのだという。
 
そういう民の性質について、「うなじのこわい」と訳したものもあった。最近の小中学生は「うなじ」がまず分からない。数学で「項」が出てきたときにお決まりの質問をするのだが、この漢字が「うなじ」と読めないのはまだ分かるが、「うなじ」と聞いても概ねぽかんとしている。これだから「こわい」と耳で聞くと、恐怖しか感じないのも仕方がない。もちろんそれは漢字では「強い」と書く。「こわばる」「おこわ」という言葉でイメージしてもらうとよいだろう。
 
「ナウい」が死語となって久しいが、それを冗談で伝えようにも、「ナウ」すらへたをするとピンとこない。小学生の英語教室では「now」を「ノウ」と読むのが普通だし、「ナウ」って言うよね、という説明も通じない。言葉の感覚というものは、情況をよく知らないと完全にギャップの遠方に若い人たちが見えなくなってしまうだろう。
 
若者言葉の流行語も、ワイドショーで紹介された時点で、もう古いというのが常識である。「イマでしょ!」などと口にしても、もはや知らない子どもたちが普通である。どうかすると、どこで聞いたのか、面白がって「チョベリバ」がウケる場合もあるが、気紛れな程度に過ぎない。
 
人は、言葉によって思考する。私たちが何かを「考える」というのは、必ず言葉を用いる。言葉にできない感覚や感性も大切なのだが、それを「考える」とは称さない。考えるための媒体であるのか、あるいは道具なのか、その辺りについては定めないにしても、とにかく言葉は思考と一体である。
 
人の考えを合わせたり、ぶつけ合ったりする場面では、必ず言葉が用いられ、また誤解も言葉の誤解というレベルが非常に多い。哲学的な問題が言語の論理の誤解から起こるものであることを指摘した哲学者がいた。多くの日常的な議論の噛み合わなさも、多分にそういうところだろう。
 
人は言葉で考える。言葉を大切にしないということは、考えることを大切にしないということだ。そうしていながら、肝腎のところではその言葉を使って、人を傷つけて止めない。それは誰も例外がない。私もまた、大きな犯罪を犯した人と結局同じ存在なのだということを、常々痛感している。人間とはそういう者なのだ、というその人間の中に、確実に自分を含めて考えられるかどうか、そこに今後の世界の成り行きがかかっていると私は考えている。



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