【メッセージ】誰もが立ち語り聞くために

2021年8月1日

(エゼキエル2:1-10)

人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。(エゼキエル2:8)
 
見出しのある聖書ですと、ここにはよく「エゼキエルの召命」と書かれてあります。「召命」とは恐る恐る発音して読むような言葉でしょう。独特のキリスト教用語です。「呼び出すこと」を意味する語に由来します。神が人を呼び出すのです。それは、神の言葉を伝える者としての職務を与えるということを意味しました。エゼキエルは祭司でした。これもキリスト教用語です。
 
1:3 カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。
 
神殿祭儀に携わる地位というのがイスラエルにはありました。それが「祭司」です。「レビ人」という立場もあって、そちらは助手のような立場ですから、「祭司」ということは地位がしっかりしていたようにイメージしてよいかと思いす。エゼキエルの家は、代々仕える家系だったと思われます。私たちの社会で言えば、代々のお寺の息子が寺を継ぐという、よくある風景に近い者を感じます。ですが、ここでわざわざ「エゼキエルの召命」と見なすのは、ある意味で不思議です。どうせ後継ぎになるのですから、その職務を与えるように呼びかける必要など、ないようにも思われるからです。
 
この「召命」というのは、牧師や伝道者になる人にとり、どうしても必要なひとつの過程だと考えられます。何の気なしに牧師になった、という人は、理論上一人もいないはずです。ただ、実のところそういう人もいますから、世の中は広いというか、牧師という肩書きだけで、全人生を委ねるほどに信頼するようなことは控えたほうがよろしいかと思います。
 
神のしもべとして仕える決心、それは勇気の要ることでしょう。なにしろ儲かる仕事ではないようです。アメリカだとこうした職の地位が尊敬されるものとして社会に根付いていることや、中にはずいぶん事業的に成功しているような教会団体もありますから、良いビジネスである場合もあるかもしれませんが、日本ではそうでもないでしょう。かつて『キリスト教のリアル』という新書が、牧師や神父の給料を発言した様子を出版していましたが、特にプロテスタント教会の多くは貧困状態であることは別の統計上で明らかになっています。
 
金銭的なものだけではありません。ある意味で社会から一線を画する生活や立場になります。生活の中で自由にできないことが多くなるでしょうし、なにぶんそうした職務に就くことは、「この世的なすべてを棄てる」というふうに、象徴的かもしれませんが規定されますから、職業の一つに就く、というようなあり方をすることは、キリスト教世界的には許されないことです。
 
「召命」を受けて自分を神に献げる、という段階を踏んで、学びを始めます。この段階を「献身」と言います。将来の牧師や伝道者を育成する学校を「神学校」などといいますが、そこに入るには、はっきりとした「召命感」、つまり自分は神に呼ばれたという体験と、「献身」の誓いのようなものが必要になります。
 
しかし先ほど申しましたように、近年これが怪しくなっています。神学校に入るときに限らず、牧師として別の教会に移るとか、何か新しいことを始めるとかいうときには、十分祈り、神からの声を聞くことが必要であるはずなのに、何もそうしたものがなく行動する人も現実にいます。神からの声を聞くというのは、空間から音声を聞くということに限らず、たとえば聖書の言葉が強く語りかけてくる、というのが一般的です。どうしてもその言葉が、自分に対して語りかけているように思えて仕方がないこと、心の中でリフレインされて離れないこと、そして自分の中にもそれに応える信仰があること、こうしたことで、「召命」があり、「献身」の思いが生まれてくる、というわけです。
 
こんな話を延々としていると、多くの人の興味を失いかねません。何故って、多くの人は、このような神の声を聞くことがないからです。あるいは、牧師になる人は偉いね、特別に選ばれた人なんだね、でも自分は関係ないよ、という構えの人が大部分であるように思われます。確かに、職業として牧師になる人は一握りの数なのでしょう。けれども、職業は別として、神に呼ばれ、ある意味で「召命」を受けるということは、キリスト教の信徒であるならば、万人にありうることだ、という前提を、私たちはもつ必要があります。ルターは「万人祭司」をひとつのスローガンに掲げましたが、だとしたら、ますますすべての人が「祭司」、つまり牧師であるということであって構わないことになりませんか。
 
この場面に至るまで、エゼキエルは不思議な体験をしています。バビロン捕囚の一員であったのか、異国の地で突如幻を見ます。湖畔でそれを見たとまで分かっています。その光景たるや、異様な体験だとして語り継がれています。たとえば、こうです。
 
1:5 またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。
1:6 それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。
1:7 脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。
 
この後も延々とこうした描写が続きます。いったい何を見せられたのでしょう。写真にでも撮ってもらえればよかったのですが、それは無理です。イラストで遺っていてもよかったかもしれませんが、あいにく言葉だけです。このような場合、言葉だけしか伝達方法がないというのは不便です。
 
私たちは、北斎の富岳三十六景の絵を自分だけが手にしているとき、それを電話だけで相手に伝えることができるでしょうか。また、伝えられた相手は、元の絵と同じ者を封じる想像できるでしょうか。言葉は実に非力です。
 
考えてみれば、聖書をいま私たちが手にしていますが、すべては言葉です。神の言葉として受け止めているかどうかは人様々であるにしても、とにかく聖書は言葉からできています。私たちは、その言葉から、筆記した人の体験や出来事の情景を、どのように理解しているか、省みる必要があろうかと思います。まず体験したその人が見たこと、感じたことを言葉にする段階で不正確なものになります。その不正確な文章表現を、時間空間を超えて別の文化的拝啓をもつ私たちが翻訳で理解したとき、元の人の見たことや感じたことを、正確に想像できるのかどうか、考えてみるだけで、到底無理なことであると分かります。伝言ゲームどころではないのです。
 
エゼキエルの見た幻は、不思議なものと言わざるを得ません。当人は至って通常のものを見たつもりでも、それを私たちが言葉を介して聞くとき、元の様子を再現することは限りなく不可能だと言えましょう。でもそれにしても、こういうのはどうでしょうか。
 
1:15 わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。
1:16 それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
 
現代の研究者の中には、エゼキエルは精神疾患の患者であったのではないか、という人もいます。もし現代、このようなことを見たと真顔で言い続ける人がいたら、やはり私たちは、精神科の受診を勧めるのではないでしょうか。尤も、だから異常だ、というような決めつけはするべきではありません。芸術家は、こうしたものを見て、感じて、作品にすることがあります。ですから、どうか偏見のために私の話を用いることがありませんように、お願いしたいところです。たとえば私たちが、スマホの機能を古代人に言葉だけで話して聞かせたとしたら、こいつは奇妙なことを話す、と距離を置かれることでしょう。文化が違うというのは、そのようなものです。
 
エゼキエルの遺したものは、このような、いま私たちがそれを文章で読むと摩訶不思議としか言い様のない表現の数々でした。が、ともかく神は、これらの幻を、エゼキエルに見せました。神がこれから導く計画や、神の力などを何らかの形で見せたのかもしれません。また、これから神の言葉を語る生活を始める若いエゼキエルに、神の言葉を語るために何か必要な経験をさせる目的であったのかもしれません。いいだけ不思議な光景を見せておいて、それから神は「そこで」と言わんばかりに、幻を一度切って、エゼキエルに向き合うようにして、語りかけ始めます。それが、今回開いたエゼキエル書の2章の始めの部分なのです。私たちはここから、神がエゼキエルに対して直に命じたこと、指示したことを聞きましょう。できれば、私たち自身も、この言葉を聞くような気持ちになって戴ければ幸いです。
 
さて、今からテクストに従って、神がエゼキエルに向けて告げたことを、3点ご紹介します。こうすると、ついにおまえもスリーポインツ説教がしたくなったか、と言いたくなる方がいらっしゃるかもしれません。全くその気はありません。ただ事実ここには3つのことが言われている、というだけのことです。どんな聖書のテクストからでも、とにかく3つの柱をなんとか作り出して分かりやすく説明しよう、という、昔流行ったようですが、もはや説教者の意図的な臭いのほか何も感じないような構成の仕方を、スリーポインツ説教と呼ぶことにしますが、当然説教は、説教者の思いや考えによりまとめられ、特定の言葉に注目しようとします。その意味では、人間の意図が混じらないことはありません。けれども、私もそうですが、自分がこのような方向で綴ろうと思ったにしても、聖書を読んでいくうちに、どんどん違った方向に流されることが多々あります。なんだ神様、そちらへ導こうとしていたのですね、と後から頭を掻くようなこともしばしばです。自分から、「今日の箇所から学ぶことは3つあります」式の考えをとることは、私に限っていえば全くありません。
 
テクストをごにょごにょ読んでいると要点以外のところに目を奪われますので、ここはざっくりと3つ取り上げます。しかもA・B・Cと記号で扱います。
 A 立て
 B 遣わされたら語れ
 C 聞け=食べよ
 
まずAです。「自分の足で立て」と主は私エゼキエルに命じると、霊が私の中に入り、立たせました。自分の足で立てと言ったのに、神の霊が立たせるのですから、ここは神との共同作業のような趣が感じられます。もしこれが現代の召命であったとしたら、立ち上がれというだけのことではありません。聖書ではしばしば、「立て」というのは、「行動を起こせ」ということを表します。イエスも弟子たちに「立て」と告げたことがあります。召命を受けたならば、あれこれ考えるよりも、行動し、歩み始めよ、というように聞くことは十分可能ではないかと思います。
 
次にBです。主はしきりに、エゼキエルに「遣わす」と言います。相手はなんと「反逆の家」。これは、神の言葉を聞かず信じない、イスラエル民族の人々のことです。かつては主の民であったはずのイスラエル民族は、いま主への信仰を失っている。だからそこに思い起こさせ、主に立ち返るように、イスラエル本来の信仰の言葉を語り告げるのだ。エゼキエルはそういう命令を受けるのです。これはなかなか勇気の要ることですが、それよりもまず、主の言葉を語ること、これが命じられていることに目を落としましょう。召命を受けた現代のエゼキエルにしても、そのする仕事は、神の言葉を語ること、聖書の言葉を伝えることです。牧師は、ボランティア活動をするために立てられたのではありません。ボランティア活動も大切ですが、なんといっても、神の言葉を伝えることが第一であるようにここから知ることができると思うのです。
 
最後にCです。主がエゼキエルに言うことを聞け、と言います。反逆の家のように、主に背を向けてはなりません。口を開き、主が与えるものを食べよ、と言うのです。聞くことと食べることとは普通に聞くと別のことのようですが、ここでは巻物を食べるということになります。この箇所の直後に、主は次のようにエゼキエルに命じます。
 
3:1 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」
 
先に挙げておきますが、この箇所は新約聖書の黙示録の一場面に使われています。もちろん登場するのはエゼキエルではなくて、ヨハネです。
 
10:9 そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」
10:10 わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。
 
こうして3つの点を挙げました。これで今日の箇所は終わりです。なるほど、召命というのには、このような姿勢が必要なのだな、とさらりと通り過ぎてしまいそうですが、私はどうにも引っかかるものがありました。待てよ。私たちが普通に考える順序は、A→B→Cではないのではないか。CからBへ移る、つまりまず神の言葉を聞いてから、次に神の言葉を語る、というのが当たり前ではないのでしょうか。
 
それは先ほどの3:1にもありましたように、「目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と、語るのが最後になっています。それどころか、「立て」が行動であり「行く」ことだとすると、この3:1では、順序はC→A→Bとなっています。
 
これは、私たちの伝道に対する考え方にも沿っているように思われます。私たちは、まず神の言葉を聞く。考え、また調べる。それから、誰かのところに行く、あるいはツイートするのでもよいですが、伝えるための行動を起こす。それから、そこで神の言葉、自分が学んだこと、良い知らせを実際に語り、伝える。この順番は、極めて常識的で、自然であるように思います。エゼキエル書の2章は、このような順序に関係なく、ただ思いつくままに3つ並べただけなのでしょうか。神がエゼキエルに向き合って話すとき、行動の順序とは関係なく、闇雲に、これからなすべきことを思いつくがままに並べたのでしょうか。
 
私の救いのときのことを、少し語ります。大学院で哲学を研究しているときでした。それ以前の私の経歴云々は省略します。私はそのとき、自分がひとを愛せない人間だということを思い知らされていました。ひとを傷つけ、生きている価値などないのだと下を向くだけの日々でした。あるとき、友人が勧めてくれた本の中に、聖書の言葉が引用されていました。ふと気づきました。西洋哲学を研究していながら、聖書を通読したこともなかったということに。国際ギデオン協会の新約聖書を、故郷から何故かもってきていました。同級生にキリストを信じる女子生徒がいて、ギデオン協会に働きかけて配付したものでした。
 
マタイによる福音書の初めから読み始めました。美しい教えに心が洗われるような気がしました。でも、それで私は主と出会ったのではありません。打ちのめされたのです。これがおまえの姿だ、と思い知らされました。頭をハンマーで殴られたようなショックを受けて、私は這いずり回りながら、神の前にひれ伏していました。そのとき、当然のことですが、神の前に呼び出されたという感覚を知りました。
 
イエス・キリストの十字架と復活を経験しました。自分の中の疑念や迷いが、聖書の言葉で次々と解決され、清められていきました。最後に私がこだわっていた、神でも変更することのできない運命についても、聖書の中の言葉が、すでに二千年前に解決していたことを知りました。その言葉が、直接私に投げかけられてきて、私を新しい命に導きました。それまでの私は死に、復活した新しい人生が始まりました。私はうれしくなって、人にこのことを話しました。聖書はこんな本だよ、聖書で自分は変わったんだ。見境なく喋ったのではありませんが、話す機会が与えられた人には語りました。
 
でも、まだまだ聖書のことがいろいろ分かっていた訳ではありませんでした。なにしろ時間が浅いのですから、知識が十分にはありません。不思議なもので、救われたとなると、聖書の言葉はどの言葉であっても、救いの論理の中に収まっていき、つながっていくものですが、それでも、これだけの長い話、分厚い書物ですから、適切な理解をしていたとはまだとても思えない状態でした。でも、私は語ることに喜びがありました。それは、どなたでも聖書について十分知っているとは言えなくても、ひとを教会に誘ったり、聖書を勧めたりしたことがあるならば、分かって戴けるだろうと思います。拾い読みのような形でも、ひとは救われます。思い込みのような読み方でも、よいのです。その人が聖書の中で、神の言葉としてそれを受け止め、神と向き合って対話をしたならば、そして神からの言葉で生きることになるのであれば、聖書について博士になっておく必要はないわけです。
 
ただ、毎週の礼拝説教から学び知ることもありますし、自ら聖書を通読したり本で調べたりする中で、日々聖書についての知識を増やすことはできます。すると、自分の知ったことが、さらにつながって納得できていくということも起こります。さらに新しい恵みに触れて、神の愛の大きさを体験していくことにもなるでしょう。通読プログラムに沿ってですが、私は曲がりなりにも、1年に一度聖書に全部目を通します。その年にどの訳を読むか、ひとつに決めていますから、口語訳に始まり、新改訳、文語訳、現代訳、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳2017、聖書協会共同訳というように、新旧訳もっているものは悉く読んでいます。旧約聖書続編も大いに参考になるので、そこだけは、新共同訳と聖書協会共同訳とフランシスコ会訳しかありませんから、こちらを持ち出すことになります。新訳だけなら、岩波訳や田川訳、永井訳やバルバロ訳、ギャロット訳、共同訳そして詳訳聖書あたりがありますから、これらも通読の一部に使ったこともあっただろうと思います。読めば読むほど、自分の無知を思い知らされ、ますますもっと知りたい、聞きたい、と思うのが、聖書の魅力であるように感じています。
 
この私のささやかな歩みの体験を、今回エゼキエル書の2章を読んでいるときに、「あぁそうだなぁ」と思わされました。お気づきだろうと思いますが、これは「立て」「語れ」「聞け」の順、すなわちA→B→Cで体験をしていたのです。エゼキエル自身は、3:1にあるように、巻物なる神の言葉たる聖書を食べて、それから実際に、逆らうイスラエルの民のところに行き、語ることになります。その順序を、否定するつもりはありません。それでよいのです。ただ、神がエゼキエルに告げた順序にも、ひとつのプロセスがありうるのだということを実感したこと、従って聖書の何気ない書き方や出てきた順序にも、私たちの人生経験に重なるものがあってもよいのだ、ということを、証ししたいと思いました。
 
この直後、エゼキエルが実際に語ることになる場面では、有名な語りの責任問題にも触れられています。少し長くなりますが、引用します。
 
3:17 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。
3:18 わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。
3:19 しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。
3:20 また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに問う。
3:21 しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」
 
今日はここから神の言葉を聞く予定ではありませんので、詳細には検討しませんが、どうかするとその問題は自分には関係がないとか、自分がしなくても影響はないだろうとか、「逃げ」に入りやすい私たちのために、しっかりと釘を刺されているように私は思います。私が言わなければ、神の言葉を聞く機会を失ったというその人については、言わなかった私に責任が伴うものである。そのような現代の倫理からして極めて当然のことが、エゼキエル書には言われていたのです。それも、エゼキエルが召命を受けて直ちになのです。語る者の心構えの第一、というところでしょうか。語る責任を覚えます。見て見ぬ振りをすることの責任を覚えます。
 
場繋ぎばかりで不条理な結果をもたらす政策のためにコロナ禍の中で喘ぐ人々に、なんとか手助けができないかと思うこの頃です。医療従事者のように危険と疲弊と精神的重圧の中で働き続けている方々もいれば、罵声を浴びて精神的にも傷ついている保健師などの公務の方々、どこに危険があるか知れないままにやたら増えた業務をこなしている配達業の方々、無防備ではないにしろ、できるだけ人との接触を継続しなければならない福祉や教育の現場の方々など、もっともっと支援する必要のある方々が、多々あります。でも、教会はそのような方々のために対する祈りを、しばしば忘れています。神の言葉を語りもせず、神のしもべのように働き続ける方々のことに無関心であるような自分の姿には、気づかないものです。そしてそれは私の姿です。表向き、いい顔をしておきながら、裏では全然違う顔をもっている、人間とはそんな存在ですし、私などは典型的にそうでありましょう。口先ではいくらでも、かっこいいことが言えるのです。ひとは、何をどのようにしても、咎められるような具合しかないのかもしれません。それでも、なお信頼したい。あの日、打ちのめされぼろぼろになった私の前に、血に染む両手を広げていたイエスの愛を。常にそこに還っていくしかないにしても、それしかないのではないか、と思います。
 
2:9 わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。
2:10 彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
 
キリストの手が私に広げられていましたし、復活のイエスはこの手を見よと差し伸べて示しましたが、エゼキエルにも、手が差し伸べられていました。そこには神の言葉を綴った巻物がありました。それには、表だけではなく、裏にも文字が記されていました。神の言葉には、裏も表もありません。表も裏も、神の言葉でぎっしりと埋められています。哀歌や呻きや嘆きの言葉がそこにはありました。それは人の罪の故に受けるべきものであったかもしれませんが、人の飾ることのない現実が厳しく記されていたものと思われます。人の見に聞こえのよいお世辞や社交辞令を語るのが、福音を語ることではありません。もちろん、むやみにけんかを売るのが得策だとは思えませんが、然りは然り、否は否、真実を真摯に語るならば、むしろ信頼してくれる人はいるし、またそうでなければ、福音を語ることにはなりません。それは、職業として教会の壇上でいつしかスポットライトを浴びる快感とともに語り、「先生、先生」という声に舞い上がっていくような中で毎週のお勤めを果たすような「語り」とは違います。そのような「語り」は「騙り」にもなります。そうではなく、共に集い、聖書の言葉によりつながる、神と人の関係として成立している「教会」の一人ひとりが、立って行動し、語ること、ただし聖書からよく聞くこと、それがいま私たち一人ひとりに確かに呼びかけられていることを、今日の糧として戴けたならば、幸いです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります