犠牲

2021年8月1日

『ナルニア国物語』は、キリスト者として、あるいは伝道者として、作家活動を続けたC.S.ルイス(イギリス)の最も有名なファンタジー物語のシリーズである。私もファンタジーものに熱中した時期があり、全巻読んだ。瀬田貞二さんの訳だったが、児童文学に長けた方の選ぶ言葉は、読みやすかった。『指輪物語』の訳もこの方で、やはり抵抗なく読み続けることができた。
 
映画化は不可能と言われていたこの『ナルニア国物語』の「ライオンと魔女」が映画化された時、アメリカを初め世界は大いに沸いた。が、日本における反応は、そうでもなかったような気がした。ファンタジーのファンはときめいただろうが、一般にはそれほどの受け止め方をしていたようには見えなかった。
 
主人公は、4人のきょうだいが動いている面ではそうだと言えるが、ナルニア国の王であるアスラン(トルコ語で「ライオン」)が全シリーズの中心にいることは間違いない。「ライオンと魔女」では、裏切ったエドマンドを救うためにアスランが犠牲になるシーンがある。だが、アスランは復活する。物語をご存じない方もお分かりであろう。これはキリストを表している。物語は、聖書を下敷きとしてつくられ、展開していくのである。
 
聖書にパラレルであるから、日本では盛り上がらなかった。もう少し深く見てみよう。この話が欧米で大歓迎された背景は、人を救うために誰かが犠牲になる、という図式がある。これが、聖書の文化を土台にして生活している人々にとっては、心の琴線に触れるのである。何か新しいことが始まるためには、あるいは誰かが救いを与えられるためには、何者かの犠牲があることが必然となる。洋画ファンならば思い当たることだろう。あまりにも多いので、私は例をすら挙げないことにするが、感動的な物語には、誰か犠牲になる人がいたはずである。単純にみんな幸せ、めでたしめでたし、という映画は名作とされていないのではないか。
 
しかし、その「犠牲」というのは、日本人には実はいまひとつピンとこない文化なのである。
 
コロナ禍において、医療従事者のために、決まった時刻に拍手をする、ということが一時流行った。海外での話を聞いて、日本でも真似するかのように一部でなされたことがあった。キリスト教会関係の人も、それを熱心に伝えている人がいた。2020年の春から初夏の頃である。
 
最近はどうであろう。一向に聞かない。もちろん、報道のほうでそれが珍しくなくなったからというのもあるが、たぶんもうないのだろうと思う。それどころか、すでに2020年には、学校で子どもたちに拍手をと教えていたら「感謝の強制はおかしい」とクレームが飛び交った例もあった。
 
その辺りから、医療従事者はだんだん忘れられていった。教会でも、祈ってくれるところが激減していまに至る。
 
この医療従事者のための拍手、日本では「感謝」の言葉しか出てこなかった。しかし「感謝」は長続きはしない。それは世の常だ。
 
果たしてイギリスであの拍手が始まったとき、それは「感謝」だけだったのだろうか。私は思う。医療従事者は、まだ正体が十分判明していなかった新型コロナウイルスで倒れる人々を見捨てることなく、立ち向かう勇者だった。そして、医療従事者の中にも、感染して亡くなる人が多く現れた。イタリアの悲惨な情況はまさか忘れたことはないだろう。彼らは、逃げることなく立ち向かう、犠牲の精神により闘った勇者なのだった。自らを犠牲にして働き続け、時に命を落とす。これは、西欧文化に根付く「犠牲」の精神の現れ以外の何ものであるだろう。感動的な映画の、あの英雄たちの姿がそこにあると見ていたのではないだろうか。
 
「感謝」はして見せることができる。だが、「犠牲」への思いは簡単には消えない。日本でも最近はジョージ・フロイドさんの名が刻み込まれたし、大坂なおみ選手がそのような犠牲者たちの名をマスクで示したことも大きく取り上げられた。その犠牲は、次の運動になって生き、次の世代、次の世界のためになんとかしなければならないという、切実な声として響かせ続ける人が絶えない。残念ながら、この「犠牲」の文化のない日本では、やがて水に流れて消えてしまうだけなのだろうと私は思う。差別がないからではない。日本にも差別は当然のものとしてそこらにある。だが「犠牲」を次の新しい世界につなごうという発想がまるで亡い。事故や犯罪の犠牲者の家族が、「このような犠牲者がもう現れないように」と涙で訴えても、殆どの場合それは無意味にかき消されてしまう。わずかに福岡では飲酒運転について改善が見られるかもしれないが、もう若い世代にはあの事故のことも知らない者が多くなっているし、知っていても飲酒運転の犠牲者が毎度毎度報道されるのは、ご存じの通りである。そうなのだ。実際、そうだと思う。「ああ、そんな事件もあったな」で終わるのである。
 
日本文化では、忠臣蔵でも、このような「犠牲」という言葉は関与しない。信長でも秀吉でも「犠牲」という概念は全く近づいてこない。近松の心中ものでも、犠牲は無駄死にでしかない。犠牲が称えられる、あるいは犠牲が実を結ぶという発想が、ないのである。
 
ここへ、キリストの十字架の物語がどう響くか、問題はさらにそこへ向かう。キリストはあなたの代わりに十字架に架かった……罪を赦すために……これがどう聞こえるものか、私たちの次の問題は、そこなのである。後はお考え戴きたい。
 
それから、医療従事者や保健関係、その他危険の可能性の中で働きづめの方々のための、これまでと違った「感謝」の祈りを、お願いしたい。



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