【メッセージ】知恵はどこから

2021年7月18日

(ヤコブ3:13-18)

上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。(ヤコブ3:17)
 
自分の中には、善いものがきっとあるに違いない。道徳でも、芸術でも、何かしらの才能が与えられていて、それを発揮すべく具えられているに違いない。
 
ひとに対して、そのように励ますことは、正直あります。子どもにも、希望をもってもらうために、こんなふうなことは、言わないではおれないことがあります。そして、自分自身に対しても、こんなふうに考えていたことは、確かにあったような気がします。もうずいぶん以前のことではありますが。
 
自分自身には、こんなことは厚かましいというか、あまりに嘘だと気づかされたというか、とてもじゃないけれども、言えないことが分かったのが、あのときでした。神の前に頭を垂れて、それまでの自分に死んだ、あのとき。
 
私が捻くれているから、そんなふうに感じているのでしょうか。けれども、キリスト者を名乗っておきながら、そして知識も才能もないことは傍から見て明らかにであるのに、ひたすら自分可愛さばかりが先だって、自分の考えはすべて正しいとでも言わんばかりのような人が現実に存在するとなると、やはり私とは全然違う世界にいる人なのだとしか思えないでいます。その人の考えている神は、私の神とは全く違うのだろうということで、最近は悩まないことにしています。
 
自分の中から、才能が溢れて溢れて仕方がない。いえ、人によっては、そうした豊かな才能をお持ちの方はいらっしゃるだろうことは認めます。私のような者にはその天才の発想というものは到底分からないでしょう。神から才能を与えられている本物の人に対して、とやかく言うつもりはありません。天才の代表として、モーツァルトに登場して戴くことにすると、頭に浮かんだ曲を書き留めていくその手が、浮かぶ曲に間に合わないだとか、書きながら次の曲が頭に浮かんでいたとか、伝説があったように思います。曲がりなりにも作曲のイロハくらいは囓っている私ですから、曲が自分の外から降ってくるような感覚を、理解できないわけではないのですが、それにしてもモーツァルトの伝説は、まさに人間業ではありません。人間は努力によりそうした才能を開花させるとも言います。単に天才という言葉でごまかすことなく、その人の努力や切実さというものにも、想像を巡らしたほうがよいかもしれません。最近では、将棋の藤井聡太九段がよく話題をもたらしてくれます。まさに天才なのでしょうが、それよりもその努力というものは、やっぱり並々ならぬものだろうと推測されます。それにしても、どんな頭脳をしているのか、驚異としか言いようがないのですけれど。
 
さて、聖書のテクストに入りましょう。読み進んで参りましたヤコブの手紙は、手紙というよりも、説教原稿のように見えて仕方がないのですが、実は今日お開きした箇所の直前に、有名な部分があります。人間の舌がいかに失敗をしでかすか、ということです。今回取り上げませんが、ご存じない方は、いえご存じの方も、ぜひお読み戴きたいものです。私も自分の口先を信用しておりませんので、口からこぼれ出る言葉がどんなに恐ろしいものなのか、震撼するものです。それに続いて、オープニングは、やはり行動の重要さでした。
 
3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
 
立派な生き方をすること、あるいはよい振舞いによって、知恵をやわらかな性格と結びつけ、実際の行動によって表すようにと求められているように見受けられますが、実はこの後このまとまりでは、「知恵」というものがヤコブの主張をリードしていきます。「知恵」が原理となって、善い行いを導いていくので、ここからは「知恵」という言葉に焦点を当ててお話を進めたいと思います。
 
私たちが「知恵」という言葉を聞く時、どんなイメージをもつでしょうか。今の子は縁遠いかもしれませんが、「知恵の輪」というのがありましたね。力任せではなく、ある決まった「ひねり」によって、わずかな針金の隙間が一致して、ちゃらりと輪が外れる。あれは、知恵もですが、手先の動きや体ごと動かす感覚が、まことに「知恵」を育てる、よいおもちゃであったような気がします。
 
親になったらきっと心配するのが、「知恵熱」でしょうか。一歳になる前あたりで、原因不明の熱が赤ちゃんを襲うのです。それが、「知恵づき」のの頃に出るために、昔から「知恵熱」と呼び習わしてきました。近年、その多くが突発性発疹と診断されており、基本的に大きな心配はいりませんが、感染症でもあり、発熱の情況をよく見ておく必要があるとされます。
 
「知恵」という言葉とよく比較されるものに「知識」があります。外国語で区別されないことがあるかもしれませんが、日本語だと、たぶん別のものだとして理解されることが一般的でしょう。つまり、「知識」は知っているデータのようなものを指すのに対し、「知恵」のほうは、判断や処理能力のほうに注目するのが普通です。「知識がある」というのは、いわゆる「物知り」のことでしょう。それに対して、「知恵がある」というのは、知識量というよりも、その使い方のほうに重点があるものと思われます。日本にはその知恵の権現のような存在として、一休禅師がよく知られています。テレビアニメの「一休さん」は、ご存じの方は、非常にインパクトがあったと思いますが、その元になった「一休(とんち)ばなし」というのは、アニメ以前から実は有名でした。「とんち」と漢字で書けますか。「頓知」で普通よいでしょう。別の言葉で言うと「機知」となるでしょうか。とっさの折に即座に発揮される知恵のことです。そんなに簡単には比較できませんが、近年の教育改革には、「知識」よりも「知恵」を育てようとする意図があるような気がしてならないのですが、どうでしょうか。
 
この「知恵」もまた、キリスト教の世界で威張って使っていたにしても、元来は仏教の言葉を借りて訳しているものに過ぎません。仏教的な解説は責任をもってすることができませんが、昔は「智慧」と書きました。行動をも含めて気づくものだと思いますが、真理を悟る心のようなものでしょうか。いくつかの使われる場面により、差異があるようです。
 
そもそもがサンスクリット語を元にしていますので、考えていくと非常に深く広い探究になるかと思いますが、本来「智」と「慧」ともまた区別されて捉えられるのが普通のようです。日本人には最も知られている経といえば「般若心経」でしょうが、この「般若」と書かれているものが、概ねこの「智慧」にあたるものと見て大きく間違いではないものと思われます。
 
それではこちらの側、聖書では、「知恵」はどのように見なされていたのでしょうか。ギリシア語でいう「ソフィア」だと、あまりにギリシア哲学系の話になってしまいますので、旧約聖書の「ハカム」あるいは「ホクマー」に注目することにします。前者は、技術的な業をもっているような場合に多く使われるようですが、神の礼拝や神殿のために用いられる技術については、立派な務めとして認められるものだったと思われます。
 
後者は、箴言やコヘレトの言葉に多く用いられる「知恵」で、特に箴言では、このヤコブ書にあるような「知恵」と「分別」のセットが全部で10カ所あります。
 
主を畏れることは知恵の初め
聖なる方を知ることは分別の初め。(箴言9:10)
 
真理を得よ、
知恵も諭しも分別も手放すな。(箴言23:23)
 
こうした伝統の中で、ヤコブ書はメッセージを送っているのだろうと想像できます。しかし「分別」を抜きにしてみると、それはもう箴言だけでたくさんあるのですが、その中で、知恵が擬人的に描かれている箇所がいくつかあります。
 
知恵が呼びかけ
英知が声をあげているではないか。(箴言8:1)
 
わたしは知恵。熟慮と共に住まい
知識と慎重さを備えている。(箴言8:12)
 
こうした描き方は、この「知恵」が、イエス・キリストの姿ではないか、と考える人も出てくるわけで、キリスト者として、聖書から教えを受けるときに、そのように読むことは役立つ場合があることは確かです。ただ、旧約聖書が書いているこの「知恵」はイエス・キリストのことです、とひとに語ることは控えなければなりません。そうした受け止め方は、その人なりの聖書との出会い方の中にある事柄なのであって、語る者が決めつけることではないからです。旧約聖書を記した人は、これがイエス・キリストだ、などとは努々考えてなどいないからです。
 
旧約聖書の「知恵」の概念を検討していけば、それだけで大部の書物ができるでしょう。私たちはほんの少し気にして眺めるほかありません。確認したことは、ヤコブはこの「知恵」を旧約の世界で非常に大切にされた、何か「知性的な」ものと重ねているらしいことでした。
 
ではそのヤコブが、ここで大切にしているものについて、もう少し詳しく見てみましょう。とは言っても、文の並びのまま辿っても芸がありませんから、ここではヤコブが明らかに二分法で区別していることに合わせて、ヤコブがよいものとして考えている知恵のサイドに属する事柄と、そうでなく退けられるものとに分けて、整理してみることにしました。経の短い箇所から、それらの言葉を拾い上げていきます。
 
まず知恵の反対のもの、退けられるべきもの、私たちがしてはならないこと、その悪いほうから並べてみましょう。
 
「内心ねたみ深く利己的」「自慢」「うそ」(14)、
「地上のもの」「この世のもの」「悪魔から出たもの」(15)
「ねたみや利己心」「混乱」「悪い行い」(16)
「偏見」「偽善的」(17)
 
なんと醜いものが並んでいることでしょう。しかも、私の中にどんどん見つかるものではありませんか。続いて、今度は知恵の側、神の目から見てよいものの法です。
 
「知恵」「分別」「柔和な行い」「立派な生き方」(13)
「上から出たもの」(15)
「上から出た知恵」「純真」「温和」「優しく」「従順」「憐れみ」「良い実」(17)
「平和を実現する人たち」(18)
 
見た目の現象として、よろしくないものが先ほど並べられていましたが、今回は気持ちがよいですね。その見かけに目を奪われることなく、悪しきものと決定的に対照的なものに注目しますと、こちらが「上から出た知恵」であるのに対して、悪いほうは「悪魔から出たもの」とされていたところです。
 
今日初めに、自分の中に善いものがあるかどうか、考えてみました。皆さんはお持ちかもしれませんが、私はとてもとても、そんなものを覚えません。言えば嘘だということが分かっていますし、自分の長所などというものを言わされるのは苦痛です。昨今、入学試験や入社試験でも、自分の長所をアピールしないと良い結果が出ないからと、売り込みに熱心であることが美徳とされています。欧米社会も、概ねそうだろうと思います。でも私はどうしてもできないのです。
 
よしんば私にもし良いところがあったとしても、それは私の中から起こったこと、私のものではないだろう、というふうにしかどうしても思えません。いえ、もしもあったら、の話ですが。
 
それで、「上から出た知恵」という表現は、私にはやけにしっくりくるわけです。もっと言えば、私にとり新改訳聖書で聞き慣れている表現は「上からの知恵」です。また、聖書協会共同訳も、このように戻されています。おそらくギリシア語そのものの語感からすると、こちらの方が近いはずです。「上」というのは、当然神の領域を指すと考えられますから、「上からの」という内実は「神からの」ということです。
 
知恵は、どこから来るのか。その問いかけを今日の説教題としましたが、もう答えは出ています。知恵は「上から」来るのです。「神から」の知恵が必要だということです。
 
でも待ってください。それは、どのように来るのでしょうか。ネット空間の盛り上がりでも、「神が降臨した」というのは、常識的な発言となっています。誰かが素晴らしい発言をしたり、見事な技を見せてくれたりしたら、神降臨なのです。まさかそういうものと聖霊やイエスの業を同じに見る必要はないかと思いますが、それでも、端からそうしたものを軽蔑するのは、あまり良いことではない、と私は最近考えるようになりました。この世の知恵に原理を見いだす必要は確かにないのですが、この世の知恵にヒントを与えられることは大いにあってよいのではないか、と。
 
モーツァルトの例を出しました。映画「アマデウス」は、俗説を用いてモーツァルトの死を描いていたものの、下品な手紙を書き散らしたモーツァルトの一面はさもありなんと思えましたし、何かに取り憑かれたように音楽に没頭する姿などは、鬼気迫るものがありました。
 
シューベルトは33歳、滝廉太郎に至っては23歳で没しているわけですが、モーツァルトにしても35歳の生涯でした。いくら5歳から作曲を始めた神童であったとしても、900を超える数の曲を作るにあたり、下書きもないほどに次々と書き上げたというのは、物理的にも本当であったとしか考えられません。専ら生計のために曲を書いていたとも言われますが、どうであれそれらの曲は素晴らしいですね。まるで天使が生んだ曲のようだと称されるのも肯けます。このようなとき、モーツァルトの曲は、殆ど神が降臨したとしか言いようがないもののように感じるのですが、問題発言でしょうか。
 
人の心の中にある思いは、自分の意志や考えによって明確に出自が分かっているものばかりではないと言われています。哲学などでは、人は外界を認識することと、自分の中から思惟が生じることと、はっきりメカニズムが分かっているかのように説明されることがありますが、そんなに人の心の構造が分かっているとは私には思えません。プラトンがソクラテスに語らせたところによると、人間の魂は理知・気概・欲望の三つからできているそうです。この「理知」というのは「ロゴス」です。ギリシア思想には、近代人が口にする「意志」というものはなかったとされています。近代的には、要素としては感情・思考・行動という領域が考えられますが、インド思想に由来するのか、無意識の世界というものが現代では大きく取り上げられるようになりました。
 
言葉において、この無意識に理解しているもの、自らは説明できない自分の中の言語活動の部分を、「スキーマ」と呼ぶことがあります。それまでの経験から形成された、一定の図式のことです。どうして自分がそのように考えるのか、ということは、自分のこれまでの経験が様々に影響して作り上げたものですから、単純に、犬に噛まれたから犬が怖くなった、という説明で完了するものではないだろうと思われるわけです。どうして自分がそのような考え方をするのか、そのように理解しているのか、その理由が一つひとつ明晰に説明できるわけではない、ということです。
 
聖書の文化の中の人々も、人間の中のそのような不思議さに気づいていたのだろうと思います。「不思議な業」がイエスのしたことであったことが何度か言われていますし、ルカなどは、福音書のほうではそのような言い方をしないのに、使徒言行録のほうでは、特に弟子たちを通じて「不思議な業」が行われたことに幾度も言及しています。
 
面白いのは、ただ一度だけですが、サムソンの母マノアが不妊だったときに現れた主の御使いが、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」(士師13:18)と名乗ったことです。「不思議」そのものが名だというのです。ご存じの通り、「名」は、その存在者の体を表します。本質そのものが、名を以て示され、名を知ることは相手の本質を知ることだと見なされることがあります。そこでここでは、主の業は「不思議」であるのだ、と言っているようなものです。
 
「上からの知恵」は、神からの知恵に違いありません。しかし、それがどのように来るのか、人にはどうしても「不思議」でたまらないのです。それは逆に、自分の中で理詰めで説明しようとする自分の考え、自分の信仰というものは、上からのものではない可能性がある、ということになります。私たちは自己弁護をします。弁明をします。いかにも理屈が通るように、あれこれはこうだと相手に説明し、説得しようとします。あるいは、自分の非を隠そうとします。
 
そこに、「嘘」が混じります。
 
イエスの昇天の後、弟子たちは信徒を多く従え、共同生活をするようになりました。原始共産制などと言って、私有財産はもたずに共同で財を管理していたような書き方がなされています。この共同体、あるいは教会に、献金をするというのが当たり前だったのですが、アナニアという男とその妻サフィラは、土地を売った代金の全部ではなく、一部だけをペトロのところに持ってきました。そして、それが全部だと「嘘」をつきました。ペトロの前にそれはごまかせず、二人とも不審な死を迎えることになります。こうした話が使徒言行録に載っているとなると、キリストの弟子の仲間に入ることは、完全に正直でなければならないということを心底分からせることができたことでしょう。怖い話です。
 
ヤコブが対比させた、あの悪いほうに、ねたみや利己心が大きなウェイトをもつような見え方がしますが、そこに「真理に逆らってうそを」つくことが戒められていました。「真理」はこのヤコブ書では、イエスや神のことを指しますから、神に逆らって「嘘」をつくのが、「悪魔から出たもの」だと指摘しているのです。
 
「嘘」は、哲学者カントが最も嫌った行為でした。それは人間の間の信頼感を裏切るため、互いに信頼する関係を破壊してしまうというのです。これに関して誤解を招くような理論を展開しているのですが、いまここではそれは控えておきましょう。
 
ともかくヤコブは、この「嘘」に、「偏見」と「偽善」とがつながってくるような言い方をしているように見えます。どれも、たんなる悪をなすという行為の問題ではなく、心に巣くう、より根源的で根強い人間の悪質なところであると言えます。そういうもののないところに、良い行いが実現するのだ、と考えている様子が窺えます。それをパウロのように「良い実」と称するのですが、最後の節では、それが「義の実」と呼ばれています。
 
3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
 
「義」というのは正しいという語に違いありませんが、しばしば新約聖書では、神との間に相応しい関係が成立していることを意味します。それで時に、「義」という言葉を「救い」と読み替えることができるとされています。神との適切な関係の内にいる者が行いによってもたらすもの、それが「義の実」だと言えます。麗しい世界だと思いますが、この箇所の結びに、突然のように「平和」が登場します。
 
聖書の「平和」概念もまた、研究すれば何時間も話すことが見つかる、大切な考えではあるのですが、もちろんいまそれをするつもりはありません。聖書の「平和」は、何事もなく平穏無事であるというような、桃源郷のような風景を示すのではないと言われています。大きな動きがあり、戦いすらあり、犠牲を払いながらも勝ち取ることができた、そういう勝利の中にもたらされた落ち着きのようなものを想定している語ではないかと言われています。
 
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
 
有名な山上の説教の始めのところにある、「幸いである」の一つなのですが、ここに「平和を実現する」という同じような言葉が出てきます。マタイ伝のほうは二つの語を組み合わせて「平和をつくる者」の一語にしたものですが、ヤコブはそれを分けた形で「平和を」「つくる者」と表現しています。しかしどちらも同じ言葉から成っているということはできると思います。
 
ヤコブは、「上からの知恵」により人は立派な生き方ができるものと励まし、それからそこに平和をつくることができることをまとめてみた期待しています。それはどのようなシステムにより、どんな理由から可能なのか、そんなことを問題にはしていないと思います。ただ、人間の中から構築したものではないこと、神から及ぶものだということだけ念を押し、その実践の先には、平和がもたらされるのだという希望を、力強く告げているように感じられます。
 
私たちは、自分の中から出てくる才能や愛といったものに溺れないようにしたいものです。いつでも、神からのもの、上からの知恵を求めたいと思います。しかし、求めるのは、その先に平和という目的があることも、弁えておきたいものだと思います。その実現は、人の力によっては困難です。だからまた、上からの知恵を求めるのです。常に、自分の心の内ではなく、上からの知恵を求めるよう祈りつつ、いまという時を生きていきたいと願うばかりです。



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