信頼関係

2021年7月4日

入社試験というのは、その学習塾の場合、入試問題を解かされるものだった。2科目と言われたが、算数と数学でもよいらしい。配られたのは、学校名は明らかにされていなかったと思うが、特別な難関校ではない中堅どころの私立中学の算数の入試問題と、福岡県の公立高校の数学の入試問題だった。
 
途中で順に、面接に呼ばれた。私はすでに京都でしばしこうした職に就いていたし、特別若いわけではなかった。が、その経歴が目を惹いたのかもしれない。社長が直接目の前に現れたが、採用のつもりだ、と言われてほっとした。京都から福岡にUターンという私にとり、福岡での仕事はまだ全くあてもなかったのだ。
 
しかし、それが内定だったとしても、解答が酷いものであってはならない。解答用紙に再び向かうと、残りの問題を解き始めた。
 
終わった。すべて解いた。悪くない手応えだ。しかし、ここからが勝負である。見直しをする。計算ミスを、別の計算方法で確認する。こればかりはなかなかなくせないことを知っているからだ。特になさそうであった。が、「これでもか」という思いが精神を支配した。「もうこれでいい」という台詞は、時間がまだ与えられている限り、吐いてはいけないと考えていた。それは日頃生徒にも教えている通りである。
 
そのとき私は何か気持ち悪さを覚えていた。理屈ではない。何か、気持ち悪いのだ。計算そのものに誤りはなかったと思うが、問題の読み違えや、解法の勘違いはないか、また見直しを始めた。どうもこの辺りが気持ち悪い。それは動物的勘みたいなものだった。まるで、金属探知機が反応したかのように、私の目はそこに留まった。
 
あった。間違いだ。問題を誤解していた。記憶はないが、確か2で割るか何かの作業が欠けていたのではなかったかと思う。直した。これで万全だと思った。
 
後から聞いて知ったことだが、2科目満点は、その会場で私だけだったという。
 
自慢に聞こえるかもしれないが、そんなつもりで言っているのではない。この経験は、生徒に対して、見直しが必要であることを、確信をもって語らせてくれる。それを伝えたいのである。日頃教えていることは、自ら実践しなければならない。自ら体験したことは、確かなこととして熱く話すこともできる。そこに説得力もあるし、人を動かす力も生まれてくる。
 
塾教師と牧師とでは、格が違うだろう。人の魂に責任をもつことと、受験合格を目的とすることとでは、扱う外延も、深みも全く違う。だが、小手先の解法などを私は教えているつもりはさらさらない。大学で扱うような事柄ではなく、義務教育で扱う問題である。いわゆる教育的配慮がないはずがない。たとえば、国語は、この時期の子どもたちにとっては道徳でもある。中学で決して源氏物語を読ませないのは当然のことだ。同じ教えるなら、学習塾であろうと、人生を語るつもりで向き合わないと、子どもは真剣な眼差しを向けてはくれない。問題の解き方を教えてくれる先生、だからこそその口からこぼれる生き方や考え方にも、心を傾けるものなのだ。そして、そこにいつもある笑顔と救いを与えるものがあればいい。それは愛想笑いではない。時には厳しく叱る。小学校ではやらないであろうような厳しい叱り方をすることもある。だが、信頼関係があれば、それを受け止めてくれる。信頼関係があって、受け止めてくれると思わなければ、叱らない。
 
神と人との間にあるべきもの、求めるべきものは、この信頼関係であろうと思われる。西欧語でも、新約聖書の原語でも、「信頼」と「信仰」は同じである。ダビデ王は、人間としては、特に王位に就いてからはちゃらんぽらんだった。姦淫と殺人は有名だが、子育ても失敗している。しかし、ダビデは神と向き合っている点では、全くブレがなかった。神に対して嘘はつかなかった。神との関係がそこにあった。切りたくても切れない、絆というものがあった。それこそが、イスラエルの王家が続き、イエス・キリストにつながった背景である。
 
信頼を裏切るものは、「嘘」である。人間的な欠点や失敗ではない。カントの道徳哲学が最も嫌ったのは、「嘘」であった。すべての信頼関係を破壊するからである。子どもたちに、授業で嘘を教えてしまうことも正直、ある。怪しければ後ででも調べる。そして間違ったことを話していたら、次の機会ででも必ず訂正する。子どもたちに謝り、正しく覚えてくれと念を押す。先生の失敗は、こうして謝ることで、子どもたちも信頼を強くしてくれるのがありがたい。
 
教育、それは教会の中でもパラレルになりうる場面である。尤も、「呼び集められた者」のような意味をもつ語を「教会」と訳したのは、拙かったのではないか、というのが概ねの評価であるから、「教」という文字の故に、偉そうに教えてやるといったことを言っているのではないことは、お分かり戴けるのではないか、と信じている。嘘が平気で言え、言いっぱなしにするならば、信頼関係を自ら破壊するようなこととなってしまうに違いない。



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