【メッセージ】証しと命

2021年6月27日

(ヨハネ一5:6-15)

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。(ヨハネ一5:11)
 
「聖書」を英語でいうと「Bible」。これは古く紙のように扱われ、事実「紙」という語の由来となったという「パピルス」に基づいているといいます。何の分野でも、権威となる書物については「○○のバイブル」のように用いられることは、歓迎してよいのか、眉をひそめるべきなのか、私はよく分かりません。パピルスはもちろん、葦のような植物(カヤツリグサ科、むしろ筆記するペンが葦)の繊維を組み合わせてつくる技術はいまに伝えられており、イスラエル旅行に行った方がお土産にくださったということもありました。
 
しかし、私の救いの基となった、国際ギデオン協会の「新約聖書」の目次には、「The New Testament」の文字があります。「聖書」の部分に「Testament」が使われています。こちらは、「遺言」という意味でも使われますが、一般に「聖書」を意味することができます。また「証し」という訳語もありえます。
 
聖書は証しである。この言葉を、今回ヨハネの手紙を読んだその締め括りとして、受け止めていきたいと考えています。
 
「証し」とは日常的にいまひとつピンとこない言葉であるかもしれません。ただ、この言葉は十年前に、日本で大きな感動をもって受け止められた言葉のひとつでした。「証」、それはfumpoolというバンドが生んだ名曲でした。
 
息子の中学の合唱コンクールで選ばれたときに心揺さぶられ自覚したのですが、この曲は、2011年に生まれたものでした。そう、東日本大震災から生まれた楽曲だったのです。
 
「証」は、その年のNHK全国学校音楽コンクールの、中学校の部の課題曲となりました。また、「みんなのうた」でも夏から秋に繰り返し放送されました。それはもちろん、震災を歌ったわけではありません。けれども歌い出しからしてまず、「前を向きなよ 振り返ってちゃ 上手く歩けない」と、聞きようによっては辛く聞こえる人もいるでしょうけれども、「あたりまえの温もり 失くして 初めて気づく」というふうに流れていき、「君の指差すその未来(さき)に 希望があるはずさ」と声をかけます。「君」を失った自分には確かに君との事実があったことを噛みしめて、生きていくのだと自分に言い聞かせるのです。
 
肝腎の「証」という言葉は、ただ一度しか登場しません。
 
溢れだす涙が 君を遮(さえぎ)るまえに
せめて笑顔で“またいつか”
傷つけ合っては 何度も許し合えたこと
代わりなき僕らの証になるだろう
 
という最初のサビだけです。どんなふうに解釈したらよいのでしょう。きっと当事者にはひとつの核、ひとつの支えになるのではないでしょうか。揺るがない確かな「証」であるはずだという、誓いのような言葉に、すがりたくなるような気もします。
 
確かな「証」は、自分で信じるための「証拠」として、否定されない真実を感じます。私たちがもし聖書をこの「Testament」として受け止めるなら、神の言葉としてそれを確かなものだと心に据えていくというあり方を感じさせるのかもしれません。
 
けれどもまた、ヨハネの手紙で使われていた「証し」の原語「marturia」は、本来法律用語であったと思われます。つまり「裁判の証言」ということです。この関連語の「martus」は「証人」という意味を表すほかに、黙示録などでは「殉教者」をも表すということで知られています。この語は英語にも受け継がれており、「martyr」はまさに「殉教者」という意味を表します。信仰の証人となることが、歴史上しばしば殉教に至ったという事情を含んでいるのだと思います。
 
信仰を告白することが、命を奪われることとなった。今では考えられないことのようですが、まさに今の時代でも、国や地域によっては、これは現実に起こっていることです。「イスラム国」で幾多の人が殺されたのは、信仰だけではなかったに違いありませんが、無関係ではないと思われます。東南アジアのイスラム文化圏では、キリスト教徒が命を狙われることは実際起こっており、都会的な付き合いのできないような地域ではますますその危険が迫ることも考えられます。キリスト教が被害側であるとは限りません。過去に遡れば、異教徒を殺戮した歴史が数限りなくありますし、世界の文明を滅亡させることも神の正義として実行していたのも事実です。今となっては黒歴史と言いたいところですが、果たして私たちが今そうした黒歴史を自ら刻んでいないか、それは自分では分からないものです。過去のこうした加害行為も、その時の人々にとっては、当然の正義であり、神の意志を実現するための英雄的行為だったわけです。
 
いったい、旧約聖書でも、たとえばカナンの地に入る頃に、神の命令が、原住民を滅ぼすよう命じて殺戮が繰り返される様子が描かれていますし、ダビデが自分の立場を守るために村を次々と全滅させるようなことについて、私たちは何の心の痛みも感じないような読み方をしていることを、省みる必要があるのではないか、と私は常々思っています。
 
もう少し柔らかな気持ちに戻りましょうか。この「証し」ということが教会で日常的に口にされるとき、それは、自分の神体験の話を聞かせることを意味します。自分にこのようなすばらしい出来事があった、神さまありがとう、というような体験談を人々の前で話します。仲間内でこれを話すと、互いに励まされ、信仰を強くする効果があると思われます。
 
それは他の宗教でもしばしば行われているのではないかと思います。そういう印刷物が投げ込まれることがありましたが、早起きして掃除をしたら気持ちよく云々、といったレベルから、神秘体験を語るものもあれば、自分たちが如何に正義の団体であるかを延々と述べるタイプのものもありました。私は、エホバの証人はもちろんのこと、統一協会や創価学会などの人との話の経験も妙に豊かで、宗教者というものがどのように見られているかについて、少し突き放した視点もいくらか理解できるつもりです。
 
去年久しぶりに見た映画は「星の子」でした。芦田愛菜ちゃんが主演で、新興宗教にはまった親の子としての悩みと決断などが描かれていました。架空の新興宗教でしたが、年に一度か、総会のように全国からツアーで集まる会合があり、そのシーンでは、まさにこの「証し」が繰り広げられていたのでした。これはキリスト教会での集まりも、世間から見たらこんなふうに思われているのだろうなと思わせるに十分なものだったと感じました。
 
それはともかく、キリスト教で「証し」というとき、しばしばそれは、自分の救いの証しのことを意味します。つまり、自分がキリストを信じるようになったその最初の出来事、ストーリーを人々の前で発表するのです。もちろん、黙っておきたい人もいることでしょうが、概してそれは明らかにされます。というのは、それを話さないと教会員になれないようなシステムが概ねあるせいでもあるし、聖書の中でもたとえば、厳しい状況ですが、マタイによる福音書の中で次のようにイエスが命じているところがあるからでしょうか。
 
10:18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
 
ともかく、自分がどのようにして信仰をもつに至ったか、それは何らかの形で明らかにすることが望ましいとされます。それは、まだ信じていない人に対しても、そうした体験談を話すということが、キリスト教を伝える上でも大きな意味があると考えられているからでもあるでしょう。しかし話すのは苦手、話すのは恥ずかしい、というような人も多々います。それで教会の中には、ひとつの「訓練」として、まず教会の中で話す機会をもつようにする、という考えをとっているところもあるわけです。教会の礼拝の中で、たとえば第二日曜日は信仰の体験談を語るプログラムを用意し、そのときに新しい人を教会に誘いやすくする、といった試みです。なかなかよく考えられた企画だと思います。
 
私もまた、そうした証しがあります。いまここでそれを話すとまた長くなりますので控えますが、確かにイエスと出会ったあの体験については、誰がどう否定しようが、間違いのない事実として、何度でもお話しすることができます。私にとりそれは否定しようのないことですし、いま現にこうしている私は、あの体験がなければありえなかったということも確かです。人の証しは、どこか偽りがあるかもしれないと思われる虞があるにせよ、私自身に取っては、揺るぎない確かな事実なのです。
 
ヨハネの手紙では、こうした人の証しよりも神の証しのほうが必ず大きく強いということが書かれていました。イエス・キリストという方が、かけがえのないことをしてくださった、それはもちろん人も証しするのでしょうが、何よりも神の側からの証しがあるのだ、それは間違いないではないか、とするのです。
 
5:7 証しするのは三者で、
5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
 
ヨハネによる福音書では、イエスが十字架上で息を引き取った直後のことが、次のように描写されています。
 
19:34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19:35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
 
ヨハネの手紙の著者が、ヨハネによる福音書の著者(これも複数想定されるなど複雑な事情があるようだが)と同定できるかどうかは分からないけれども、強い影響の内にあるだろうことは認められているようです。このように、この福音書とこの手紙とは、リンクしているところが多々あるのです。理解の助けとして、互いに開いてみるのもよいかと思います。
 
三者の「証し」が置かれました。この背景にあるのは、たとえば申命記から拾うと、次のような規定があるからかと思われます。
 
19:15 いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。
 
新約聖書でも、兄弟が罪を犯したときに、忠告しても聞いてくれないときには、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(マタイ18:16)というようにこの規定が生きていました。パウロもまた、手を焼くコリントの教会の厄介者のために、もう三度もそちらに行くことになるが、「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです」(コリント二13:1)と、やはり重視されるべき律法が強調されていました。
 
これは証言の信頼性を確保するためでしたが、これを悪用するようなことが、たとえばステファノの有罪を捏造するために、論敵が「人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせた」(使徒6:11)とあるなど、人数を揃えようとすることもありました。イエスを死刑にしようとするためには、なんと「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」(マタイ26:59)とまで書いていますから、証人の規定には表裏両面があるように感じます。
 
偽証というのは、重い罪です。それどころか、もはやイスラエル民族とは認められえないような仕業となります。というのは、イスラエルの根幹である「十戒」にずばり宣言されているからです。
 
隣人に関して偽証してはならない。(出エジプト20:16,申命記5:20)
 
尤も、レビ記であると、少しクッションが置かれているようにも聞こえます。
 
19:16 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。
 
いやいや、だから「生命にかかわらないなら偽証してもよい」などとは考えないほうが賢明でしょう。やはり十戒は十戒なのです。但し、そこには「隣人に関して」とありました。サマリア人の譬えではありませんが、「では、わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)のようにとぼけたような質問が来ないとも限りません。聖書の言葉は、必ずしもすべてが明晰ではなく、議論の余地があること、だからまた、私たち人間がその都度、その環境で、情況で、受け止めて常に考えていかなければならないことを覚えます。
 
さて、「証し」の問題に戻りましょう。ヨハネの手紙が「証し」を繰り返すのは、先の「霊・水・血」という三者の「証し」に始まって、次のような言及です。
 
5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り 者にしてしまっています。
5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
 
人間の証言を私たちは無視することはありません。だったら当然、神の証しというものを受け容れないのはありえないことです。神が何を証言したのか、というと、御子というものでした。イエスは癒しによりその人の人生を変え、社会復帰をさせて人間らしく生きていくことができるようにしました。水はそのとき、生まれ変わるひとつの象徴でありアイテムでした。
 
ヨハネによる福音書の中で、イエスはニコデモに対して、このような発言をしています。
 
3:5 はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
 
また、サマリアの女に対しては、同じヨハネによる福音書の中でこのように言いました。
 
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
 
祭りの終わりの日にイエスが宣言したときの言葉も、またヨハネによる福音書です。
 
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
 
以上、ヨハネによる福音書を通じて、イエスにとっての「水」について振り返ってみました。次は「血」ですが、これは枚挙に暇がないので一つひとつ挙げることは略します。イエスが十字架の上で流した血について、考えの及ばないキリスト者はいませんし、おそらく聖書に親しんでいらっしゃらない方も、十字架というものについては一定の理解をなさっていることと考えます。
 
ただ、このヨハネの手紙に関わるものとして参考になるであろうイエスの言葉を、やはりヨハネによる福音書から引用はしておきましょう。
 
6:53 はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
 
最後になりましたが、「霊」についても、これまた多すぎますが、ヨハネによる福音書では先ほどのニコデモへの言葉をもう一度引くと、ここにもありました。
 
3:5 はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
 
しかし注目しておいてよいのは、イエスが去った後に送る助け主、あるいは聖霊と呼んでもよいでしょうが、そういう霊がこの後弟子たちを助けることになるというところに、実は「証し」という言葉も含まれていた、その言葉です。これもヨハネによる福音書です。
 
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
 
霊の証言を指摘していましたから、ヨハネの手紙を読むにあたり、このように、随所でヨハネによる福音書を参照して重ねて考えていこうとすることは、益々大切な務めであるということになるでしょう。
 
これらが神の証しです。これが私たちの内にあるならば、私たちは神の子を信じていると言うことができます。信じないなどと言えば、せっかくのこの神の証言を台なしにし、無視してしまうことになるというふうに手紙の筆者は告げます。そして、繰り返して読みたいと思いますが、この「証し」の結論は、このようになっていました。
 
5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
 
神は何を証言してくださったのか。神は偽証しませんから、これは真実だと言っていることになります。神は「永遠の命をわたしたちに与えた」のでした。もうすでに与えてしまっていたのでした。
 
御子イエスの内にその命がある、それはよしとしましょう。しかしわたしたちにもうすでに与えたのだということを、わたしたちはどう受け止めたらよいでしょうか。ここで本来ならば、「永遠」という考え方について、よくよく考え抜いていく必要があると思います。しかしそれについて語ろうとするには、あまりにもう時間を使いすぎました。「時間を使った」? 永遠ということは、その時間に関係があるでしょう。しかし、いま1秒、2秒、と刻むこの時間めいたものの行く先に、永遠があるようには思い難いものがあります。日本文化で聞く「不老不死」というのとはだいぶ違うように見えるのです。むしろ、ここに組み合わさせた2つの言葉、つまり「永遠」と「命」、この関係をどう受け止めるか、そこに一つのヒントがあるような気がしてなりません。
 
何が言いたいか。形容詞で「永遠の」と修飾された名詞の「命」ですが、「命」には永遠なものと永遠でないものとがあって、だからこのように特別に「永遠の」という修飾が付くのであるように私たちは捉えがちですが、どうもそうではないのではないか、と感じるということです。「栄光の主」は、栄光のない主を想定しているケースではないでしょう。むしろ「主は栄光である」という内容が前提になっているのでしょう。「慈しみ深いイエス」は、慈しまないイエスと比較しているのではないでしょう。むしろ「イエスは慈しみ深い」という内容が前提になっています。「命」は固有名詞ではありませんが、「凡そ命と呼ぶものならば、それは永遠なのである」ということが前提になっているのではないでしょうか。そもそも「命」と聖書が言うときには、生物学的な命と霊的な命とを何か区別して置いているのではなくて、命と言えば命、と神が与える最高の贈り物、恵みそのものしかそこにはない、と見ては如何でしょうか。
 
願い事云々というところに目を奪われますが、この「証し」から「命」への流れに続いて、ヨハネの手紙は、大切なメッセージを伝えています。
 
5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
 
いま命を、つまり永遠を、あなたがたはもっているではないか。気づきなさい。知るのです。まだ気づいていないのならば、見ていないと言いたげであるのならば、信じればよいではありませんか。神の証しを、信じればよいではありませんか。御子がいるのです。あなたのために死を味わった、イエス・キリストがいるのです。あなたは命を受けているのです。それは永遠なのです。滅びないのです。その神の証言、神が保証しているこの命は、まさに神が命懸けで、真実を尽くして、血にまみれて、水で清め、霊が教え、信じるように働きかけて、あなたの懐に押し込んだものなのです。
 
5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
 
訳語に難があるように思います。「御子をもっている者は命をもつ。御子をもっていない者は命をもっていない」と書かれてあります。これは13節も同じ「もつ」という動詞で、「あなたがたが永遠の命をもっていること」とつながっていきます。間違いなくあなたがた、つまり私たちは、命を、つまり永遠を、もっていることになります。御子をもつならば、御子を心に迎えて、内に神の証しを受け容れるならば。
 
聖書の記者の指さすその先には、希望があります。それはこれから与えられる希望ではありません。もうすでに、その命が、あなたに、私たちに、与えられているのです。――これを、信じますか。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります