言葉の背後に隠れた心があること

2021年6月20日

あまり具体的に書くべきではないことを含むので、少しぼかした表現を使うことをお許し戴きたい。何かよい発言をしたり、よい振る舞いをしたりした人を見て、クリスチャンなのかな、と思うことがないだろうか。この辺り、判断基準は難しい。その言葉の中に聖書の言葉や考え方が、かなりはっきりと出ている場合は、クリスチャンかな、と思う可能性はあるかもしれない。ここで言っているのは、そういうことではない。聖書とは全く関係がないようなあり方で、好印象を与えるような言動のことである。
 
たとえば、ある言動Aをとった人を見たとき、クリスチャンかと思った。そうしたことがあるだろうか。背筋をひときわぴんと伸ばして歩いている姿を見て、あの人はクリスチャンだろうか、という具合である。言うまでもなく、内心そのように思うことは自由である。だが、これを言葉として公表することについては、少しだけブレーキをかける必要があるだろう。
 
こうしたことをひとつの命題として受け止めたときに、論理的にひとを不愉快にさせる言明となってしまう虞があるからである。たとえば「笑顔がきれいな人はクリスチャンである」と思ったとしよう。この場合この言葉を受けとった人にとっては一般に、「思った」は捨象される。「笑顔がきれいな人はクリスチャンである」という命題が提示される。この命題の真偽を問おうとしているのではない。この命題は論理的に、「対偶」という意味で、次の言明と同値である。「クリスチャンでない人は、笑顔がきれいではない」ということであり、無意識の内にであっても、他の人にはこの情報が伝わって然るべきである。それは、発言した人の心の内に、潜在的に居座っている、ものの見方ではないか、というのが今回の提言である。
 
命題としてはそれだけのことだが、さらに具合の悪い問題は、これを「誰が言ったか」ということである。同じ言葉でも、誰が発言したかにより、意味内容が全く異なってしまうということは、私がしばしば言うことである。いまその主張を追うことはしないとして、先の命題「笑顔がきれいな人はクリスチャンである」を言ったのが、クリスチャンだとすると、問題であるということは、お分かり戴けるかと思う。
 
クリスチャンがこのような意味内容を発言したのだ。「クリスチャンでない人は、笑顔がきれいではない」のだ、と。私は、こういうところに、愛のなさというものをつくづく感じる。そんなつもりで言っているのではない、ときっとお怒りだろう。だがそれでも敢えて言う。心の中にそういうものが本当に欠片もないのだろうか。密かに染みついたものがあるからこそ、そのようなものの言い方をしたのではないだろうか。その問いかけについてはもう私は介入しないので、キリスト者であれば、神と対話をなさってほしい。ヨブのように潔白を言い続けることができるなら、それはまたその人である。私はそんなことは言えない、という点だけはこっそり告白しておくけれども。
 
だからもちろん私は、自身このような高慢な態度をとったことがない、などとは口が裂けても言わない。特にまだ若い頃には、そんなふうなことを言っていたと思う。しかし、その後だんだんこうした醜い精神が自分の中にあることに改めて気づかされる経験を重ねていくうちに、いまは時折他人の発言の中にも気づくようになった。そして不愉快な気持ちになる。そう聞いて不愉快に思われた方もいらっしゃるだろうと思うが、どうか誤解のままで読むのを終えないで戴きたい。私は、それを言った人を責めているつもりはないし、中には心の弱い人や自分の言動が主観的な思い込みの領域からなかなか出られない人もいるのだ。いちいち咎めるような真似はしないつもりだが、SNS関係を見ていると、クリスチャン仲間だけで会話をしているかのような錯覚に陥ることもあるのか、誰もが見ることができる状態になっているにも拘わらず、クリスチャンでない人が見た場合に不愉快を覚える可能性が高い今回のような発言に遭遇し、瞬時に小さな憤りが、あるいは悲しみが生じるということがある。さらに、その発言に同調あるいは共感を示すクリスチャンの数が示されると、そもそも多くのクリスチャンがこうした精神をもっているのかと驚かされる。あるいは、自分の中の独り善がりな優越感に気づかないという、人間の底知れぬ誤りを思い知らされる。それはまた、間違いなく私自身のことなのだ、とも。自分には愛などないということを神の前に告白し、少しでも愛するということができることを願った私である。愛のない言動は、当然の前提でしかない。
 
発言というものは難しい。何かしら自己顕示欲も働くし、気をつけているようでいて、なかなか特定の立場の人の気持ちを想像できないでいることもある。万人が受け容れる発言ということになると、何の意味もない当たり障りのない挨拶くらいしか言えなくなってしまうかもしれない。私たちは、完璧な言明を常にできるような生活環境にはないであろう。だが、自分の中にそうした発言をさせる原因があって、それに気づかないでいるということは、怖いことである。ひとを見下す精神がその人を支配していると、自分では気づかないうちに、そのような言葉遣いや発言を、ずっと明らかにしているということが起こり得る。そして気づかないままに、自分は何も間違っていない、との根拠のない信念を貫き、拙いことへと突っ走っていくことになる可能性がある。そして、その最たるものがこの私だ。なにしろこういうのは、自己認識が不全であるのが人間というものなのだから、たぶん、自分はそんなことがない、と言った瞬間、白々しい嘘となってしまうのである。
 
自分で自分の姿が見えないように、自分の中のこのような高慢な精神は、自分では分からない。他山の石ではないが、ひとの発言に何かひっかかりを感じたら、その本質を考え、自分もそのようなことをしていたのではないか、と思い直すことは有意義であろう。いやはや、それでも結局なお、分からないのが自分というものである。開き直るのもおかしいが、それも赦されてなお、今日もかなりの毒を吐くことしか、私にはできないようである。愛したいからこそ、そうするのであるが、それを言うとまた弁解と自己正当化でしかなくなりそうだ。それでも、黙っていることのできない、それが私の使命だといまは自分を説得するようにしている。



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