おどろかされる

2021年6月10日

I was surprised. 「私は驚いた」と訳す。これを受動態だからと言って、「私は驚かされた」と訳すことは普通しないだろうと思う。もちろん翻訳調でこのように訳することで効果を出すテクニックもあるが、通常の英語のテストではするものではない。
 
「驚かされる」など変だよね、と最初は思った。けれども、これがなかなか理に適っているということを、後に知る。私が驚くというのは、何か対象があって、その対象によって驚いているに違いないのだ。他のものが何もない中で、自分の内心だけで「驚いた」というのは不合理である。何かあるものが、私を驚かせた、という無生物主語のほうが、理屈には合っているのではないか。
 
「驚く」のは、自分ひとりだけでは無理なのである。ひとりで勝手に驚くというありかたはありえない。とすれば、自動詞としての「驚く」ではなく、他動詞としての「驚かされる」のほうが理屈に合っていると考えられよう。英語では、動詞はAがBに作用を及ぼすという構造からもたらされるために、基本は「驚かす」である。この辺りも、基本語が日本語とはまた異なることを示しているようにも見える。
 
しかし、これはsurpriseと驚くとが等しい概念であると思い込んだ私たちの錯覚である。「おどろく」として古語の中にヒントを求めると、これが違ってくる。古来日本人は「おどろく」を、「はっと気づく」というときに使ったのである。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」という藤原敏行朝臣の和歌を例にとれば、思い出される方もいるだろう。ただ、すでに源氏物語でも、「びっくりする」意味でこの語を使った場合があるといい、言葉というものは整然と理解整理ができるものではないことが分かる。
 
中学生に質問された。「excitingとexcitedは、物と人間とで使い分けるのですか」と。確かに例文はそのような使い分けで説明できるようなものが並んでいる。だがこれは、能動態と受動態の問題であって、「わくわくさせる」と「わくわくさせられる」の感覚で使い分けて然るべき場面であろう。これも、自分ひとりで勝手にわくわくしていて完結していたら、少し気味が悪いような気がする。
 
私たちは、自分だけで想定した通りに物事が運ばないと、苛々したり、不安になったりするものだ。だが、自分が思ってもいなかったこと、予想だにしなかったこと、おもっいたことを遙かに超えたことに出会うとき、大いにそれに驚かされることだろう。悪い出来事も、確かにある。だからそれを心配し、恐れてしまうという心も、人間は持ち合わせるものだろう。だが他方、良い出来事により驚かされるのならば、それは歓迎するものとなるであろう。
 
自分が想定した通りのことになったときには、それほど驚かされないかもしれない。想定した通りにならなかったなら、失望したり悲しんだりするだろう。だとすれば、「自分が想定する」ということが、損な作戦であるとは思えないか。「想定」ではなく「希望」だったらどうだろう。自分の思い込みで期待する像だけを掲げるのではなく、自分の思い描くということよりも、約束を信頼して愉しみにして待っていることを、ひとつ基本に構えていたらどうだろう。あくまでも、自分が思い込んで決めたことではない、として。



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