病院を支えよう

2021年6月8日

病院というところは、逆説的な機関である。その目的を達成すると、客は来なくなる。仕事をすればするほど、仕事がなくなるのだ。
 
もちろんそれを「客」と呼ぶことは不適切なのだろうが、ここでは便宜上その言葉を使わせて戴くことにする。問題を解決すれば、客が来なくなるというのは、医療機関に限ったものではないかもしれない。カウンセラーなど人を助ける仕事には、どうしてもそういう側面が伴うものであろう。
 
となれば、病院のような機関は、客からだけの収入ではなく、社会がその働きを十分保証するというシステムがあってもよいのではないか、という考えが生じてくることになる。
 
警察や消防も、その仕事がない方が平和である、という一面をもつ(それだけじゃないが)。だからこちらは公務として税金で賄われているのだろうと言えるが、病院関係も、そうした一面をもって運営できないのだろうか。もちろん財源が云々という現実的な問題はいまはあるだろうが、原理的なことをここでは考えたいと思う。
 
保健所が多いのは無駄だから減らせ。そうしたら疫病が流行り、保健所が足りないなどという。いざというときに頼りになる機関は、通例は無駄であってもよいのかもしれない。そこに社会的コストをかけることに、目くじらを立てる必要がないという覚悟を市民が負えば、有事にも対応可能になるかもしれない。
 
自分さえよければ、の富が巷にはごろごろしている。福利に役立つものを削らせ、私腹を肥やすことの不条理を、「そんなものさ」と嘯いている場合ではないのではないか。抜本的に、原理から、つまりラディカルに(この語は「根」の語に由来し、本来そういう意味なのであって、過激にというふうにのみ捉えてはいけない)考えていく道が拓かれて然るべきなのだとつくづく思う。
 
まして、医療従事者を差別したり、似非正義感から精神的ダメージを与えたり、重荷を増し加えることを平気でしたりするなど、本来論外なのであるが、それらが横行しているのが現実社会であるというのが、たいへん悲しい。そうではなくて、支える気持ちからどうにかしたいとは思わないだろうか。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります