【メッセージ】現場の労苦に気づいて

2021年5月30日

(使徒16:25-40)

さあ、牢から出て、安心して行きなさい。(使徒16:36)
 
神に行く手を阻まれた末、マケドニア人の幻がパウロに現れて、ギリシアの土地に向かうことになったところ、そこで信じる者が現れたという、ちょっとめでたい話を先週致しました。今日はその続きです。
 
リディアというたぶん裕福な女性とその家族がイエスを信仰するに至り、これまたたぶん、その出会いとなった祈りの場所なるところに、パウロと一行は向かいます。するとそこでトラブルに遭います。ある奴隷の女、たぶん巫女のような者だと思いますが、その女から悪霊を追い出したところ、その悪霊による占いのために金儲けをしていた主人たちが、怒り狂ったのです。いま「主人たち」と言いました。一人の巫女に、何人もがつながって、金儲けをしていたのですね。昔テレビで、有名な女占い師が霊感者とかでもてはやされたりしたような気がしますが、あれも、出版社だのテレビ局だのが、よってたかって儲かる素材としていたわけですから、似たようなことはいつの世にもあるものです。
 
それはそうと、首謀者と見られたパウロとシラスは、逮捕されてしまいました。制度が違うので単純に比較できませんが、警官が捕まえて、引き渡した先は知事級の人物のようです。ここでは「高官」と呼んでいます。パウロとシラスは、ローマとは異なる風習を宣伝しているとして訴えられました。どういうわけか一般群衆も騒ぎ立てています。それで、裁判権もあるのか、その高官は直ちに二人の服を剥ぎ取り、鞭打ちの刑を命じます。そして牢に入れました。全く言いがかりもいいところですが、この類のことは今でもありうることで、人間のやることはいつの世もこれまた同じということでしょうか。
 
ここで注目しておきたいのが、「看守」という人です。牢の番をする係ですが、厳重に見張るようにと命じられます。それはまあ分かりますが、パウロとシラスには仲間がいて、襲うかもしれないという懸念があったのかもしれません。感謝は、二人を念のため牢の一番奥に収監します。足には木の足枷。原語は「木」だけなので、十字架とまではいきませんが、木の柱か格子かに、縛り付けたというふうではないかとも思われます。特に要注意の囚人だということで、看守も念入りに縛り付けたことでしょう。
 
さて、ここでお詫びがあります。私はこの「看守」について調べたいと思いました。しかし、どうにもその正体が分からないのです。キリスト教会の説教も探しましたが、「看守」が何者であるのかについて考察した人が見当たりません。もっと神学書や解釈書をしらみつぶしに探せば見つかるかもしれませんが、非力でした。ご存じの方がありましたら、お知らせ願いたいと思います。
 
たとえば中世だと、この「看守」は一癖も二癖もある存在で、囚人から金を巻き上げて待遇を差別したり、どうかすると大金を受けたら釈放してやるようなこともあったそうです。ちょうど、新約聖書で収税人というのがとんでもない嫌われ者であったのと比較できるかもしれません。さて、このローマ帝国の看守がそうであったのかどうかは分かりませんが、私はあまりあくどい存在とは見なさず、命懸けで職務に臨んでいた割には、社会的にも特別に恵まれたものではないような立場の公務員のように捉えておくことにします。しばらくその仮定の上でお付き合い下さい。
 
こうして、ようやく本日お開きしました聖書箇所の内容に入ります。しかし、すでにお読み戴きましたので、その解説を試みるよりは、粗筋を押さえた上で、私たちもその現場に立ち入ってみることにしたいと思います。
 
身動き取れなかったであろうパウロとシラスは、真夜中に歌を歌っていました。周囲の囚人はさぞや迷惑だったことと思いきや、ルカの筆は、それに聞き入っていた、などと呑気なことを書いています。突っ込みは入れませんね。
 
そこへ突然の大地震。牢の戸が壊れ、囚人の鎖も外れたというのは、ちゃちなつくりだという気がしないでもありませんが、これも突っ込みません。これに看守は目を覚まします。さすがの看守も夜中は眠るのか、仮眠なのか分かりません。住み込みではないのでしょうが、厳しく高官に言われたので、夜も責任上その場に付き添っていたのかもしれません。
 
このとき、看守は人生が変わります。地震という天災による瑕疵は、看守の責任ではないはずですが、それは現代の論理なのでしょう。厳重に見張れというのが指令であった以上、牢の戸が開き鎖が外れた情況を知るや否や、これはもうこの世の最後だという絶望感しか懐けなくなりました。もうだめだ。死ぬしかない。そう思ったのも、当時ならば無理がないのかもしれません。制度的に、地位的にどうなのか、私には分かりませんが、囚人を逃がすというのは、国家的には危機を招くことになりますから、重罪だとされていたことは予想されます。
 
剣を抜いて死のうとするまでに、果たしてどのくらいの時間があったのか、それも私たちには知る術もありません。そして囚人たちが実際に逃げようとしたのか、その場はどうなっていたのか、何もかもここでは捨象されています。
 
パウロは、誰も逃げていないのだから死ぬなと看守の行動を止めます。調べてみると、どうやらその通りだったようです。これも不思議。ですが恐らくパウロとシラスが囚人たちを宥めたのではないかと推測されます。看守がこの二人の前にひれ伏して感謝しているからです。
 
こうして、この情況を細かく見ようとすると、分からないことだらけなのです。この後、有名な「救われるためにはどうすべきでしょうか」も、何からどのように救われるのか、私にはピンときません。囚人が逃げていないのであれば救われるであろうし、逃げたのならば救われないでしょう。これに対して二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と、私たちにとり、大きな慰めになる言葉を告げます。私たちは、この言葉に、家族の救いという切なる願いをどれほど重ね、希望をもち、祈ってきたことでしょうか。この言葉が本当であれば、私の救いは、家族の救いとなるはずです。そのことがすでに、大きな喜びではありませんか。その上でなお、親や子どもに、信じるようにと迫るような勢いを、どうしてもキリスト者はぶつけてしまうのですが、さて、こんな信じ方は、邪道かもしれませんね。
 
看守とその家族に主の言葉を語るというシチュエーションも謎です。すでにその場に看守の家族がいるのです。その後に、看守は二人を自分の家に案内しているからです。そして真夜中に食事を提供しています。全く以て、私たちの常識を打ち砕くような叙述ばかりです。
 
すみません、ここでも私の疑問に答えてくれるような説教には、なかなか出会えませんでした。どうかこうした謎だらけの叙述を、納得できるように説明できる方がいらしたら、またそういう解説をご存じでしたら、教えてください。殆どの説教は、こうした疑問を何も感じず、なんだか「霊的な」意味で救いの奥義とかなんとかに走り、家族が救われてよかったですねというところに行ってしまって終わりなのです。
 
朝になります。囚人のパウロとシラスは夜中にずっと看守の家にいました。他の囚人はどうなったのでしょう。また繋がれていたのでしょうか。逃げたのでしょうか。逃げたにしては、翌朝の高官たちの対応にその件が触れられないのはおかしいし、繋がれていたのなら、どのようにして大地震から一瞬のうちに修復したのか、そしてパウロとシラスだけが特別扱いされたのは何故か、やはり分からないことばかりです。やはりこの二人が、他の囚人たちに対して支配的な働きをしたとしか説明ができないのですが、それにしても、よく分かりません。
 
朝、高官たちが下役たちを使って、パウロとシラスを釈放せよという命令を看守にもたらします。尤も、田川建三氏によれば、これは「下役」という語から感じるような立場ではなくて、「副官」に相当すると言いますから、そうなるとかなりのお偉いさんが来たことになります。しかし何故急に釈放になったのか、これも謎です。看守はパウロにこの言葉を伝えます。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」え? いつパウロは牢に入ったのですか。看守の家での食事までしか聞いていませんけど。もう、ルカさん、もう少し分かるように書いて戴けませんでしょうか。
 
パウロはこの言葉を看守が伝えたのに、高官が派遣した者に対して言います。ほんとうに何がなんだか分かりません。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」
 
相手は知事級の高官です。えらく大きな態度ではないでしょうか。それほどに「ローマ帝国の市民権」というものは偉大だったのでしょうか。そんなことを黙っておとなしく鞭打たれたというのも、何かよく分からないし、何の証拠があってこうした口での説明を信用して高官を連れてこいと言えるのか、私たちの常識ではもはやついていけません。水戸黄門の印籠でもないと、こんなことはないでしょう。尤も、その印籠も、偽造すればなんとでもできたかもしれないことを思うと、人間のアイデンティティとは何なのだろうと思わされます。
 
高官にこのことが伝えられると、高官たちがやってきました。おやおや、これだけのパウロの主張で、知事級の立場の者が直に謝りにきましたよ。市民権を持っているぞという一言だけで恐れたのだそうです。「わび」を言ったというのがどの程度であるのかも分かりませんが、パウロが納得しているので、それなりのものだったのでしょうか。ただ町からは出て行けというので、これも何故かはよく分かりませんが、町をこれ以上騒がせないようにということなのか、ともかくパウロとシラスは牢からようやく正式に出ました。牢から出るについても、こうしたけじめが要求されたのだし、パウロもそれでよしとしたようです。
 
二人は、紫布商人のリディアの家に行きます。住まわせてもらっていたのかもしれません。そしてまた旅に出ます。
 
このように、シチュエーションがまるで分からないままに、心に残る言葉だけが響いて、それを握り締めることが信仰だ、というふうに思いがちな自分たちの姿を少し顧みる機会となったかと思います。聖書を、ピンときた一言だけを取り上げて、そこから想像を逞しくし、あるいは思い込んだ意味をこめて理解して拡大していくことが、果たして適切なのかどうか、改めて考えてみるのもどうかと思い、やや大袈裟にもお伝えしてきました。
 
しかし、これは説教です。私たちの姿を問わなければなりません。私たちはこの物語から、いまここで何を感じ、何を神からの声として聞くとよいのか、取り次ぎを致しましょう。
 
このローマ側の役職の対照的なところに、注目してみましょう。
 
とはいえ、お断りしたように、歴史上の彼らの地位や立場などについて、適切な史料を得られませんでしたので、思い切ってもっと現代的な職業の立場と重ねながら、想像を多くしながら捉えてみようと思います。学問的には何の価値もありませんが、私たちが少しでも共感するのには十分だと考えます。そして、それこそが、神から「いま」聖書の言葉を受けるという意味に近いものだと理解するのです。
 
高官は「看守に厳重に見張るように命じた」(23)故に、看守はとにかくこの指令を至上命令として受け止めます。二人を特別につないだ様子からそれが分かります。そして天災であれ、つまり現代ならやむなき事情により、その指令が果たせなくなったとき、人生を自ら終えようとしています。
 
その後、詳しい事情はルカがちゃんと描いていないのでよく分からないのですが、死なずに済むようにしてくれたパウロとシラスを前にして、宗旨替えまでして、家族全員にもそれを信じろと動かします。この辺り、最大級の喜びです。
 
どのような背景や工作があったのか、全く分かりませんが、パウロとシラスが釈放される指示が高官の部下によりもたらされると、看守は、二人が牢から出ることになったことを、心から喜んでいます。「安心して行きなさい」(36)とは、イエスが、癒した相手に投げかけるような言葉です。特にルカは、複数と単数の違いはありますが、イエスが言ったのと同じ語をここで使っています(7:50,8:48)。この看守を通して、神の意志が現れたというように聞こえるような気がします。
 
それに対して、この看守に死ぬほどのプレッシャーをかけていた高官は、何の事情かはともかくとして、パウロとシラスを釈放するときにも、権威からの命令という言葉ひとつですべてを動かそうとしていました。パウロはこれに怒り、直にやってこいと凄んだわけですが、この脅しめいたものに対して慌てて出向いて来て、「わびを言い」(39)などと訳されていますが、これだと「謝った」かのように私たちは錯覚します。次の節で二人が、リディアの家に言って仲間たちを「励ましてから出発した」(40)とありますが、この「励まして」と「わびを言い」が、同じ語なのです。つまりこの語自体は、「勧める」「慰め励ます」のような使われ方をする語であるわけです。
 
要するに高官は、私たちがいま見るような、「政治的発言」をしていたようなのです。「善処します」「検討します」には、やる気がないわけではないがあなたの期待するとおりにはできませんよ、という意味なのでしょう。「記憶にありません」は、知っているが言えません、というわけでしょう。ローマ市民たるパウロに失策をやらかしたのですが、もし訴えられれば自分の経歴に傷がつくかもしれません。直に出向いて来たという異例の姿勢は、とにかく現場に顔を見せておかないと、より大きな責任を負わされるという危機を回避したのではないかと考えられます。被災地に一度は足を運んでおかなければ、無視したことになりかねないと、半ば義理のように訪れる政治家もいます。そこで本音をつい現して叩かれた人もいたようですが。
 
お偉い高官は、看守が責任をとって危うく自殺しようとしたことなど痛くも痒くも感じていません。現場でやりくりする看守が、必ずしも自分の責任ではない事態に命懸けで立ち向かっていることも、命令ひとつでひとを動かす立場にある地位の人には、まるで実感がないのです。自分のメンツのために「とにかくなんとかしろ」と発破をかけることはしても、現場の人の苦労を思いやるような気持ちはさらさらないのです。そうでないと、大きな組織を保つための指示ができない、とでも言いたげです。
 
2020年初めから、ということにしておきますが、新型コロナウイルス感染症が社会を変えました。世界を変えました。疫病そのものは、人類の歴史の中で度々あったことですし、ヨーロッパではかつてのペストというとんでもない破滅の世界を経験しているはずであり、百年前にもスペイン風邪と呼ばれる感染症でたくさんの犠牲者が出ました。近年も恐るべき病気を前にしばしば緊張が世界を走りましたが、比較的地域が制限されていました。それが今回、全世界に感染が及び、世界中をこの病気の恐怖が包んでしまったわけです。
 
最初の中国の反応が過度のように報道され、まだ欧米も日本も、恐れつつも他人事のように見ていたところがあったかもしれません。ヨーロッパを襲った猛威は、医療崩壊を起こし、都市封鎖など経済を殺しかねないような措置が実施されました。やがて、アメリカも余裕がもてなくなったばかりか、世界で最大の感染者と犠牲者を出す国へと変わりました。人口が多く人間が移動するブラジルやインドなどの被害も、悲惨なものとなりました。日本は数字の上では世界の中で健闘している内に入るでしょうが、医療情況は破綻寸前となっているところが多々あります。
 
ここから、コロナ禍における微妙な問題に触れることになります。置かれた立場や環境により、ご意見は様々あるだろうと思います。私自身は、なんとか仕事は保たれており、生活苦がのしかかっている状態にはありません。しかし、医療従事者を家族とし、医療現場の厳しさやワクチン接種の実情などは、よくよく聞いており、一般の情報には全く出て来ないようなことも知っているところがあります。仕事は曲がりなりにも教育に関わっていますので、子どもたちの現実も直接感じています。そこで、医療と教育の現場についてのレポートや考察は読みやすく、とくにそのメンタル面のケアについては多くの資料に目を通しました。しかしそれはまたものの見方の一部でしかありませんから、具体的な政策や保障などについて論評するというような越権は冒さないようにしたいと考えます。ここではあくまでも、否が応でも共に生きなければならないこの時代の中に置かれた、世界における人間の一員としての立場から、この与えられた聖書の記述から、見えるようにしてもらった景色を皆さまに描くこととし、そこから皆さまも聖書のよる示唆を受けて戴けたらと願うことと致します。
 
政権の支持率が下がっています。恐らくコロナ禍への対応に不満が寄せられていることと関係があると言えるでしょう。確かに、政権は決してすべてを受け容れられているような様子ではないし、カリスマを以て引っ張っていくタイプでもありません。熱狂的支持者をもつようにも見えないとなると、人々の期待通りに事が運ばないとき、とにかく悪口が叩かれます。
 
戦中・戦前、そして武士の支配する世の中だと、どうでしょうか。幕府や政府の批判でもしようものなら、命が危なかったということもあったでしょう。それがなくなった戦後は、たがが緩んだかのように、今度は政府の悪口を言うのが当たり前であるかのようにも見えます。政府を批判さえしておれば、正しい、というような空気すらお互いに了解しているかのようです。
 
これをリードするのがマスコミです。コメンテーターか何だか分かりませんが、よく問題を把握していないような庶民の代表が、政治に対する不満を番組で語る。それはえてして、そのような画を作るべく要請されているらしいのですが、視聴者はこれで、不満をもつのは自分だけではない、と安心します。もう誰も言わないので子どもたちにとってはむしろ新鮮にさえ聞こえる、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というツーピートの至言にある如く、みんながつるめば、なんだって言えるわけです。
 
けれども、マスコミも、スポンサーなり、政治家なりの見えない支配を受けているとも言われ、ある種の意見や報道を控える場合があります。また、視聴率を考えて報道内容を選択するときには、大切なことよりも、どうでもいいことのほうを優先する場合もあるように見受けられます。その上、そもそも問題の深さに気づいていないということも、私はあるように思えます。コロナ禍における医療報道の中には、現実にどのような措置をとるのか、一つひとつまで取材しているわけではありません。医療の実情を知らないままに、思い込みによる意見だけが空回りしていることも感じます。
 
そのマスコミの欠けたところが、インターネット世界では駆けめぐります。SNSの中には、現場からの悲痛な声も流れています。そうです。あの看守のように、責任だけが負わされ、非難され、叩かれ、あげくの果てに差別されているという現場の声、ぼろぼろに扱われている苦しみが吐露されている場合が、ようやくそこに見られます。こういう声が何らかの形で他人に知られる通信網の発展は、四半世紀前では殆ど見られませんでした。ラジオやテレビの電波は壁で防げない故に、それでベルリンの壁が壊れたとも評されることがあるほどです。情報の開示は、力を有すると思います。その苦しみの声を、拾い上げ、拡声することで何かしら助けになるのなら、と願わざるをえません。
 
こうして、私はいま、政府への非難があること、マスコミも必ずしも信用ができないことを指摘してきました。政府を批判しているかのようなマスコミもまた、どうかすると同じ穴のムジナではないか、と。
 
看守のように現場で責任をひとり背負って労苦する人々を蔑ろにして、口先ばかりの政府、あるいはマスコミは、ここに出てきた高官のように、現場の外で手を汚すことなく、口先ばかりの態度でいるのではないか、ということです。
 
今日の聖書の記録は、読めば読むほど分かりづらい内容だったと思いますが、このように、現場で苦労する人と、高みから眺めて自らは何もしないような人との対比を、見事に描いたいた、と見ることが可能でした。私たち信仰者は、どうしても、看守が救われて、家族も救われたというところにばかり目を奪われますが、むしろそこよりも、コロナ禍において、現場で働いている人々と、それをただ見ている側のお偉い方々とのあり方について考える機会とさせて戴きました。医療従事者を例に取り上げたのは、ひとつ実例としてイメージできるようにしたためであり、医師や看護師、あるいは薬剤師や医療事務に携わる人々などはまさに最前線で陽性患者と接しながら闘っている代表として見たわけですが、介護などの福祉の現場で働いている人ももちろんそうです。子どもたちに日々気を使いながら激務に耐えている教育関係者の方々もそうですし、公務として様々な事務から電話対応から、あるいは現場へと派遣される多くの方々など、たいへんな思いをしている現場の方々はほかにもたくさんいらっしゃいます。家族を支えてケアしている人の困惑もひとしおでしょう。さしあたり医療従事者という言い方をしましたが、現場で労苦する様々な方々のことを思いたいと願います。
 
外で飲み会をする人たちが絶えないのを見て、自分たちが何のために店を閉めなければならないのか憤っている、飲食店の方々のことも考えたい。観光業なども、絶望的な経済的情況に追いやられている方々、大学などでもどうしてよいか分からないような中にある若い方々。高齢の親を看取ることもできなかった人たち、家族を引き裂かれた人たち。現場で、当事者として味わう、辛さは、私たちには担えません。とくにまた、女性が社会的に置かれた立場などで、筆舌尽くしがたい苦難の中に置かれ、自らの命を断つような悲しいことがたくさん続いていることに胸が痛みますが、なかなか現実に助けに走ることもできません。けれども、イエス・キリストはその生涯を、十字架に至るまで、苦難を受けつつ歩みました。私たちの痛みを担った、というそのキリストの姿は、私たちがいかに辛いときにも、慰めとなり、また救いとなるものです。十字架という残酷な刑を受けたこの方が、復活して私たちの救いを約束したことを信じることをお勧めする次第です。当事者として苦しむ方の苦しみをもまた、キリストが背負っているという知らせを、私たちは伝えなければなりません。
 
……さて、これでキリスト教のメッセージらしくなって一安心した方もいらっしゃるかもしれません。これで「終わります」と言えば、「よいお話でした」とでも言ってもらえるかもしれません。
 
でも、よいお話などではなくてもよいから、この続きを私は告げなければなりません。
 
村上春樹の問題作として『沈黙』という作品があります。短編ですが、教育用にそれだけをわざわざ一冊の本として、子どもたちの読書用に装丁し直したものまであります。ネタバレをするつもりはありませんので、ぜひお読み戴きたいと思います。文庫本では『レキシントンの幽霊』という題のものに収録されています。
 
壮絶ないじめの話です。いじめに遭った大沢という男が身の上話を僕にするという設定ですが、大沢をいじめた頭のいい青木という男が、実にいやらしい人間として描かれています。しかし、村上春樹は、最後に大沢に、問題は青木じゃないんだと言わせているのです。もちろん、いじめられた自分が悪い、というものでもありません。
 
村上春樹は、2009年、「エルサレム賞」を受賞しました。そのときの「壁と卵」というスピーチは、いまなお私たちの心を揺さぶります。その中で最も大切な文は、次の通りです。
 
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
 
これだけお伝えしても、意味不明と言われることだろうと思います。これはエルサレムの戦闘をも意味するメタファーだと本人は言っていますが、もっと深い意味もあるとも言っています。
 
政府やマスコミが悪いと先ほどまで指摘しましたが、それを指摘したのは誰でしょう。もちろん私です。しかしそれは、私の私見ではありませんでした。私は、世の「正義な人々」の代弁をしたのです。私個人は、必ずしも政府やマスコミを、先ほど申しましたようには悪く思っていないのです。
 
キリスト教会の中には、とにかく政府を批判するべきだと立ち上がり声を発する人たちが少なくありません。一見、それは正しいように見えるのです。そして、なにぶん自分たちは神の側にいると信じていますから、聖書に基づいて主張している限り、ある意味で絶対的に正義なのです。その「正義感」を武器にして、政府は間違っている、と言うことが事実あります。
 
不幸な出来事でしたが、名古屋出入国在留管理局で収容中に亡くなった方のことが大きく報道されました。これが大きな報道となったことで、キリスト教世界でも、一斉にブーイングが起こります。確かにもっと配慮があってもよかった事態ではあったことでしょう。しかし、管理制度そのものがけしからんなどという正義感ばかり漂うのは、非常に危険なことであると感じます。よくないところは直さなければなりません。亡くなった方や家族の無念にも思いを馳せます。しかし同時に、海外から本国に入ってくる不法な人間を懸命に予防するための制度をつくり、それを法的に運営しているために、私たちの社会の治安は最大限に守られていることをも思い起こすべきだと考えます。辛い出来事でしたが、今回の不幸をその法の運用を改善すべく議論するべき機会として受け止めていきたい、そう考えるならばともかく、管理現場で日々働く方々の労苦を無視して、政府や管理がひたすら悪いと口先だけで非難するのだとしたら、いったいそれは看守でしょうか、高官でしょうか。
 
ワクチン接種の遅さを指摘して政府は何をやっているんだ、と合唱するのだとしたら、ますますそれは現場の人々を蔑ろにすることになるでしょう。ワクチンの管理の難しさ、バイアルからシリンジに採取するまでの手間と時間、それにどれほどの神経を使うかということを、どれほど知った上でのことでしょうか。日々神経をすり減らして勤務し、休日も感染をしないために外出や食事に気を使う1年半の生活を続けている医療従事者が、休日返上でワクチン接種に動員されている中での接種事業を、どれほど「人間」の営みとして考えているというのでしょうか。それは、管理局で個人を大切にできなかったこと以上に、残酷な扱いをしていると言ってよいと私は断言します。
 
そのことは、つい昨日もありました。ワクチンを常温に晒して、かなりの数のワクチンを無価値なものにしてしまったという報道。これに対するネットの書き込みは、「なにをやっているんだ」「ちょっと注意すれば分かるはずなのに怠慢だ」「2人チェックというルールを守らないからそうなるんだ」のような大合唱。もう私はくどくど申しません。ここには、人間の罪がばらまかれているとしか思えませんでした。当事者がどれほど打ちのめされるか、少しでも擁護をしたいと思いました。そしてそれを誰がもたらしたのか、感じないこの世の姿に、まだまだ聖書は用いられる場がいくらでもあるということを思いました。
 
私たちの懐くこのような似非「正義感」は、どこからくるのでしょうか。それは現場の当事者のことを忘れたものになっているとき、完全に、独り善がりの正義感となるでしょう。つまり、それは正義とは正反対のものとなるということです。『沈黙』のいじめは、仕掛けた本人ではなく、その周りの者たちの存在なしには起こりませんでした。一つひとつの教会が、一人ひとりのキリスト者が、顔を隠して正義感をふりまくとき、それは、キリストを「十字架につけろ」と大合唱したあの群衆とそっくりな姿となります。あの場で、その空気に染まらず、悲しみながらもキリストから目を離さなかったからこそ、ペトロは、ヨハネは、立ち直れたのだと思います。看守にしっかりと目を注いでいたパウロだからこそ、そこに救いをもたらすことができたのだと思います。現場の当事者のことを、決して忘れないでください。大きな問題に、周りの声に賛同してのっかっているだけかな、と一瞬でも気にして、気づいてください。人々が尤もらしい正義を主張しているとき、待てよ、と疑い、現場で誠実に真摯に取り組んでいる人を傷つけ、いじめていないか、立ち止まって考えるゆとりを持つことを考えてください。
 
ワクチンの接種会場に、教会堂を提供する教会はありませんか。医療スタッフを派遣できる教会はありませんか。高齢者の接種予約のために手伝える教会はありませんか。実はこのお手伝いを買って出ている教会は、現にあるのです。よくぞ手を挙げてくださったと感謝します。それでこそ、現場の当事者に、真に寄り添うキリストの教会です。「寄り添う」と、流行り言葉として口だけが称え、自己満足するのとは違う、神の霊の働きとなると思います。それが、困り果てている看守に気づくことであり、救うことであると、気づいてください。それが教会の、コロナ禍でのスタートとなるはずです。口先だけの私がいくら言っても、反感を買うことでしかないことは承知の上で、それでも、与えられた思いは、隠すわけにはゆきませんでした。



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