口先と実践のバランスの狭間で

2021年5月29日

「ジャイアンってひどいよな。のび太をいじめてる。」「そうだな。」
 
言っていることは間違いないとする。しかし、決してジャイアンのそばに近づかないままにこれを言うとなると、「俺は正しいことを言っている」という自負だけが残り、のび太は何の変化もない。のび太を助けよ、と密かに口にしたところで、のび太の情況は何も改善されない。正義の声がいつかジャイアンに響いて、ジャイアンが改心するのを期待しているという言い分も分かるが、それはジャイアンの良心が自分の価値観に跪くのを信頼していることになり、「ジャイアンはひどい」と言っていることと矛盾する。つまりは、何も言っていないのに等しい。
 
いや、そうじゃない、という面もある。声にすることを揶揄するつもりはない。だが、私個人がそのように呟く場合は、いつの間にか自分が正しいことを言って正義の味方だ、というポーズを見せるためだに叫んでいるような気がしてしまうのだ。
 
聖書には、隠れたところにいる神というような表現があり、人前で人に誉められるために何やらカッコイイことをするのは、神に対してのものではない、と厳しく戒められている。だが、他方で、隠れて神に祈るというのは、実践する人から見れば卑怯なやり方のように見えるかもしれない。自分の手を汚さず、何の汗も流さず手間もかけずに、ただ神に祈っていてそのほうが神に仕えているような教えというのは、胡散臭く思えるに違いないと思う。
 
事実卑怯なのかもしれない。しかし、少なくとも安全なところから正義ぶった声を挙げることを避けようとして、神の全能を信頼して祈るということそのものが、信仰という角度から見たときに、悪いはずがない、とは思う。よくないのは、隠れて祈っているのだから自分は偉いのだ、と、これまた自己満足し、自分を誇るような心があることである。
 
だから、汗水垂らして労苦している人のことをも、もちろん尊敬するし、立派な方々だという思いを忘れることは決してないのであるが、実践する方々も、何かしら心の罠というものがありうるのだろう、ということもまた可能性として懸念するのである。
 
右の手のすることを左の手に知らせてはならない(マタイ6:3)、というのはまた違う意味であるはずなのだが、私には、なんだかこういうことを思っているときに、妙に響いてくる言葉となっている。
 
禅の方面では、こういうとき「無心」たるものを指摘するかもしれない。人間、どうしても名誉心だの自己愛だのが紛れてきて、妙な色気が伴うものである。確かに、「無心」になれたら、よいだろうと思う。
 
ただ、実践現場にいる人は、そんな色気を覚える暇すらなく、命懸けで立ち向かっている。この上、ワクチンを打つためにもっと働け、オリンピックのためにもっと働け、とけしかけてくる力がある。どうかそこから守られてほしい、ということだけは、陰に日向に、訴え、また祈り続ける。ネット上でも、自分の思い込みだけで圧力をかける発言が少なくない。現場というものを知らないから、なんとでも言えるのである。それは自分では、良いこと、当然のことを言っているつもりなだけに、実は質が悪い。自分で自分を正義とすることだけは、なんとかやめてほしい。尤も、自分こそがその先鋒であり、罪人のかしらであることを前提にして申し上げる。そう、これはむしろ、へたに聖書を知る人にこそ、ありがちなことなのだ。そうでない市井の人々の中には、実に思いやりのある方もたくさんいるのだ。優しいそのような方々に、ただただありがとうと申し上げたい。そして、医療に限らず、現場で労苦する方々が守られ、安らぎが力となることを、といつもと言っても嘘にならないくらい、思い願っている。あ、こんなことも隠れたところで思っていればそれで十分であったはずなのだが。



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