いらないもの

2021年5月27日

関東のラジオ番組だが、リスナーに電話をかけたときに、お決まりで尋ねる質問があって、三つのものを並べ、「いらないものはどれ?」と迫るものがある。たとえば、「にんにく・しょうが・こしょう。いらないものはどれ?」のようなものだ。リスナーは「うーん」と考えて、ひとつを返す。個人の好みがそこに反映されて、けっこう面白い。「英語・数学・国語。いらないものはどれ?」などという質問を受けたら、あなたはどれを答えるだろうか。
 
考えさせるのは、ひとつ、どれがいいか、を訊くのではない、ということである。「いらないもの」、つまり自分にとって不要なもの、価値のないものを外すというものだから、一位と二位は決められなくても、これは俗な意味での「断捨離」の対象を捨てるという決心をさせることになるのである。
 
失礼なのは、芸能人やアーチストを三つ並べるときである。外された当人はもしそれを聞いたらショックだろう。しかしシャレで済ませられるものということで、特に苦情がきているということでもないようだ。なにせMCは大御所である。それなりの配慮のある言い方をしているようにも聞こえる。
 
さて、ここで私はちょっとその「いらないもの」の質問を仮想してみることにした。
 
「お寺・神社・教会。いらないものはどれ?」
 
もちろん、差し向けられた人により様々だろうが、お寺は葬式に必要、神社は初詣などを想定するとしたら、さて、教会のニーズは何だろうか。結婚式は、全員が教会で求めるものではなく、教会でなければ挙げられないわけではない。これは確率的に、教会は不利だと考えたのだ。
 
キリスト教会は、人々の生活に必要なものだと考えられていないのではないか、と思うのだ。恐らく異論はあるまい。日本で暮らす人々のニーズに応えているようにはあまり思えないのである。もちろん、地域差はあろうし、教会によってはその地域になくてはならない存在であることもあるだろう。私の教会はよくやっている、という方がいらしたら、どうかスルーして戴きたい。あくまでもおおよその感覚であり、確率の問題である。
 
実は仏教寺院も、かなり深刻な状態にある。寺院数の減少にもそれは現れているし、様々な形で人々とつながろうと模索しているところがあるという。新しい技術や試みによって、話題に上ることもあるし、若い僧侶がなかなか興味深いことをやっているとも聞く。神社も恐らくじり貧なのだろうが、習俗として、初詣や宮参り、七五三など、それなりのニーズがあるようにも見える。大きな祭りを抱えているところもあり、地域や文化に貢献している場合もある。
 
寺院や神社なども、概してコロナ禍においては、消極的であることを否めないが、教会もまたそうである。だとすると、そもそも一般社会とのつながりの薄い教会というところは、ますます閉鎖的になっていくということなのだろうか。ただでさえ、子どもが教会からいなくなり、年々平均年齢が上がるばかり、牧師の年齢は一般社会の定年以上というような常識ができているような教会世界である。「信徒どうし祈りましょう」というだけで、いったいどうなっていくのだろうか。
 
経済的問題はもちろんだが、精神的に悩み苦しんでいる人や、追い詰められている人が少なくない。教会はそうした人たちが相談できるような場とは、ならないのだろうか。心を助けることができるという信念があるのならば、制度や医療などの実務で何かをできるということがないという前提で考えると、人々の心を平安にするためのレスポンスならば、できる可能性が多々あるのではないだろうか。
 
組織保全を図るばかりで、ますます社会とは疎遠になっていくようだと、益々教会は、誰のニーズの視野にも入ってこないままで、これからの時間だけを費やしていくこととなるのではないだろうか。
 
小さなグループの集まり、それもいい。だが、中途半端な規模で形をなす教会組織があまりにも多すぎる中で、淘汰されたほうがむしろよい、という考え方もある。これを機会に、いったい教会というのは何のためにこの世界にあるのか、「いらないもの」の筆頭に挙げられるのが当たり前とならないうちに、何かしたほうがよいのではないか。声を挙げることでもいい。まずは祈ることでもいい。度々訴えるように、医療従事者のために祈るという声が、私の耳には全く入ってこないのだ。政府に外野から悪口を言うのは頻繁に見るが、それが福音書の中にどのような人々として描かれているかは、もう繰り返さないことにする。
 
もちろん、私自身のことはすっかり棚上げしている。ただ、日々祈ることは怠らない。「コロナが収まりますように」といった抽象的なものではない。関西、関東、北海道、九州など(どこでもだが)、それぞれの現場の医療従事者や福祉関係者のことを、いくらかでも思い浮かべながら、この朝も、夜も、緊張しつつ疲弊している人々に助けがあることをと、精一杯願っている。こうした方々が逆に差別されているといった不条理の中に、それはいけないという声を挙げることだけでも、組織された教会は、できないのだろうか。オピニオンすら、出せないのだろうか。たとえば、これは無責任な言い方をするが、大きな教会堂をもつところは、ワクチンの接種会場に使ってください、と願い出る可能性もあるのではないか。人材も、教団関係者の中から見出せる可能性もあるのではないか。馬鹿なことを言うなと言われることは覚悟の上だが、ほんとうにそうしたことができないか、考えたことがあるだろうか。
 
いったい、教会どうしは、もうなんのつながりももてないような代物に、なってしまっているのだろうか。もう、同じキリストの体ではないのだろうか。
 
だったら、私も、そんなものは「いらない」。


※この原稿はすでに一週間ほど前にはこのままの形で仕上がっていた。だがその直後、ある教会が、ワクチン接種の予約がなかなかできない高齢者のために、予約の手伝いをします、と張り紙をしたことを知った。いつも温かな言葉を投げかけている小さな教会である。私も個人的に(実はかなり深い)おつきあいのある教会であるのだが、さすがだと感じ入った。この教会は、間違いなく「いる」教会だと喜んだ次第である。



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