「殺せ」と命じる神

2021年5月23日

旧約聖書には、残酷なシーンが多い。新約聖書だと、イエスの十字架の場面だけは厳しいものがあるが、あとは手紙も含めて、比較的平和的である。もちろん、黙示録はまだ酷いものがあるが、旧約聖書の比ではない。旧約聖書はとにかく人を殺すことについての記述が多いし、露骨な表現も多々ある。
 
特に問題とされるのが、主なる神自身が、「殺せ」「滅ぼせ」と命じて迫る場面である。これが並々ならぬほどに次々と出てくる。これがイスラエルの初期の歴史なのだから、たまらない。果たして私たちは神から「殺せ」と追い詰められているというのだろうか。
 
いったい、十戒に「殺すな」とありそれを命じた神が、舌の根の乾かぬうちに「殺せ」と命じるのはどういうわけだ、と揶揄する人もいるし、それは同胞のことだなどと弁護する人もいるが、ここではそうしたことを問題にしようとするつもりはない。
 
キリスト教は、旧約聖書を、イエスがキリストなる救い主の具現であるということの根拠として必要であるという裁断を下した。それで、礼拝説教でも旧約聖書から引くことは当然にあるわけだが、さてその際、この戦闘シーンや、神の「殺せ」という命令から、いったいどのように説教するというのだろうか。
 
これを考えて、とても自分からこうした箇所を選んで説教できない、という声がある。尤もなことだろうと思う。きっと、心が優しいのだ。私のように残酷でがさつでない、ナイーブな方の場合、この聖書の残虐なシーンから、愛のメッセージを届けることなどできない、と悩むのであろう。
 
ところで、逐語霊感説などといって、聖書に書いてあることは悉く真理であり、ひとつも誤りがない、と宣言する立場がある。非常に信仰深い考えであり、聖書を文字通り信ずるというのであり、ある意味でかつてはそれが基本であったと言える。だが近代において、自由主義神学などといって、聖書を文献として、いわば学問的に読み解くことを心がける研究が進むにつれ、聖書を文字通り真理だとすることはできない、という考えが生まれた。実はこれは近代になって急に生まれたというわけではない。特にプロテスタント教会が生まれて、各自が自由に聖書を読むことができるようになってからは、自然と多くの人が感じていたことではないかと思われる。ただ、それを公に言うと処罰されるので、言論という場で言えなかった背景があるため、表に出なかったことになっているのである。カントも、この一件で理性に基づく考え方を呟くと、当局と激しく対立することとなっている。
 
事の良し悪しは別として、いまは新約聖書にも多大な「疑い」がかけられており、イエスの奇蹟については文字通りに解していない人が少なくない。だが、福音書記者がそのように書いたことには意味があるとして、何かの象徴であろうとか、類似のことを超常現象のように書いたのではないかとか、信仰を擁護する立場からも様々な理解がなされている。私は、その記述が当時の文化であったと受け止めている。言葉という表現方法を媒介としているために、遺された言葉を私たちが解釈するときに、どうしても当時の人々が経験したこととは違うイメージで私たちが受け止めてしまうのだ。たとえば逆に、いま駅でアナウンスの声が流れるのを古代人が聞いたら、姿は見えないのに声がした、と神の啓示のように受け止めるかもしれないし、ロケットの発射を見たら、火を吹く怪物が空を飛んでいた、と記録するかもしれない。この記録を嘘だとしてしまう理由はないだろう。
 
教会の説教でも、この奇蹟の扱いはナイーブである。もちろん真っ向から、イエスが湖の上を歩いた、という語りで、メッセージをしてくれても私は構わないと思う。このように空中浮遊したのは修行したからで、あなたも修行に励みなさい、と教えているのではないのだから、何もそれに辻褄の合う意味づけを期待しているのではなく、私がそこから、神からのメッセージを受け止めることを喜びたいと考えている。何も「その記述自体を信じない」とする理由はないと思うのだ。だが、しばしばいまの教会の中には、そのような事が起こるはずがないし、記述を信じなくてもよい、という隠れた前提を踏まえて語る場合があるように見受けられる。露骨に「そんなことがあるはずありません」とは口に出さず、ただ暗にそうした腹で、別の言い方でお茶を濁すように語るというのが、よくあるパターンではないだろうか。
 
そして、話は元に戻る。もし、腹でそのような奇蹟は現実にはなかったはずだ、と考えているのだとしたら、旧約聖書の残酷な神の命令も、その路線で理解すればよいだけのことではないか、と言いたいのだ。
 
エリコの陥落について、考古学は、ヨシュア記の記述どおりの証拠は見当たらない、としている。こうしたことは受け容れていながら、神が「殺せ」と命じたということは素直に受け容れて、悩んでいる。これが、困っているケースの実情ではないのだろうか。
 
イエスの奇蹟を私たちはどう受け容れるか、自分が神と向き合うときにどのような教えとして受け止めるか、そうした観点がもしもあるのだとすれば、旧約の神の「殺せ」も、そう捉えればよいのである。私は思う。私の中にある何ものかに対して、神が「殺せ」と命じて然るべきことがあるのだ、と。もちろん、私の罪の根元的なところは、十字架に磔にされており、そこにもう罪の証書が無効化されているというのだ、とするイエスの十字架の業を、信頼している。しかし、だから私のすることや思うことがすべて正義となり真実なのだ、などと言うことは到底できない。私は絶えず、襲いかかり、湧き起こる悪を殺し続けなければならない。
 
私は、旧約の残酷なシーンから、いくらでも説教はできると考えている。私の中に、殺すべき相手が存在するからだ。
 
だが、見張っていたい点はある。旧約聖書のこれらの記事を文字通りに、しかも自分たちに都合のよいように持ち出して、パレスチナの地で自分が相手を殺すことを言って正当化するということだ。これが――停戦という形をとってはみたものの――現在激しさを増している報道を聞くのが、たまらなく悲しい。



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