だれが隣り人になったと思うか

2021年5月21日

聖書の中でも、非常に有名な喩えがある。欧米では、この喩えを題にした法律すらある。緊急時に行った医療行為については責任を問われない、というものだ。その喩えを、シチュエーション全体と共に、口語訳聖書で引用する。著作権の上でも問題がないからだ。
 
するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。(ルカ10:25-37)
 
いま、この箇所から説教のできる教会は、日本にどのくらいあるだろう。私は概ね、できないだろうと考える。なぜなら、多くの教会が、この喩えの前半のほうで登場してくるからだ。
 
ただ、異常な者が暴れて牧師を追い出し、ずたずたにされたある教会が、その後癒されて、信徒が交替で説教を取り次いでいる教会がある。そこで、この時期にこの聖書箇所が選ばれていることを私は知っている。その教会のウェブサイトには、緊急事態宣言により教会に集まれないことなどを断ってすぐに、医療従事者のための、また感染者のための祈りが掲げられている。キリストの愛は、牧師の存在とは無関係であることを、強く感じた。私も、この愛を信じていきたい。



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