【メッセージ】いまここにある割礼

2021年5月16日

(使徒15:1-21)

わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。(使徒15:11)
 
2021年5月、ようやく一般の高齢者にも、新型コロナウイルスのワクチン接種が始まりました。たいへん遅いとお感じかもしれませんが、ひとつのシリンジ(注射器)を準備するのに、かなりの時間と繊細な技術が必要であることを、ご存じですか。正確に量り取るのは神経を使います。また、バイアル(薬剤の容器)をゆっくりと10回振るなど、たいそうな手間を要します。そして駆り出される医療従事者は、ただでさえ緊張続きの毎日の勤務に加えて、休日返上でワクチン接種にあたるのです。きっと、人々はワクチン待望のあまり、誰がどのように打つのかになど、想像が及ばないのだろうと思います。
 
このワクチンさえ打てば、もうマスク生活はおさらばだ、などという期待の声も聞かれます。とんでもない。そんなのは、真っ赤な嘘です。そんなことをすると、益々感染拡大を招いてしまいます。このことを、マスコミも行政も、もっともっとアピールしなければならないのに、このままではもっと酷いことが起こるかもしれません。それほどに、いまワクチンが信仰されています。早くワクチンを、ワクチンさえあればもう安全だ。これはもう、信仰でなくて何でしょうか。
 
ところでいま「真っ赤な嘘」と申しましたが、これは言葉の問題です。なんで「赤」なんでしょう。そう言えば、「赤っ恥をかく」とも言います。これは顔が赤くなることのようにも思えますが、どうやら違うようです。他にもあります。「赤の他人」はどうでしょうか。語源というものは、推測ですからはっきりと言えることではないのですが、いま言いました「はっきりと」の意味が「赤」にこめられているのではないか、という考えが有力のようです。元々「赤」という色は、「あかるい」意味から来ており、反対は「くらい」黒となります。「あかるい」から「あきらかな」様子を表す語にもなり、あきらかに他人だということで、「赤の他人」だということになるのではないでしょうか。
 
さて、話がだいぶ逸れてしまいましたので、聖書の中に目と心を向けましょう。歴史上、「ニカイア会議」とか「トリエント会議」、「バチカン会議」などという言葉を聞いたことがある方がいらっしゃるだろうと思います。それぞれ「公会議」というふうに呼ぶこともあります。キリスト教世界で、大がかりな会議、また大切なことを決めた全体的な会議が20を超えるほど並べられるのが普通です。
 
その内には数え入れられませんが、ある意味で最初の会議とも言えるものが、今日の使徒言行録の中に記録されている会議です。よく「エルサレムの使徒会議」などと言われます。
 
細かな過程は、お読み戴いた聖書の箇所で十分伝わるものと思われます。ここには、さして特殊な用語が並ぶわけでもなく、抽象的な議論が展開しているわけでもないでしょう。もちろん、「割礼」とは何か、「偶像」や「幕屋」といった用語は、それなりに聖書についての前提なる知識を要すると思われますし、どうかすると「預言者」や「異邦人」も、何か知っておくべき事柄であるとも言えます。「使徒」などというと、エヴァンゲリオンを連想されるかもしれません。いま、それを事細かくご説明申し上げる暇がないので、述べている中で必要に応じて触れていくつもりです。馴染みのない方はご容赦ください。
 
ストーリーを概説すると、まずパウロやバルナバといった人名が出てきます。イエスに従った弟子たちの中には直接おらず、当時の共同体の中では一段下に置かれたかもしれませんが、バルナバはかなり要人であったらしく、かねてキリスト教徒を迫害していたパウロを従えて行動していたように思われます。パウロは後の大伝道者であり、新約聖書の多くの部分を執筆した人物ですが、当初は下っ端であったことでしょう。このパウロはユダヤ教のエリートでしたので、知識も家柄もしっかりしています。そのパウロがイエスと出会ってキリスト教徒にすっかり転向してしまいました。自分たちを迫害していたパウロがキリストの共同体に属するようになって、きっとずいぶん警戒されたことでしょう。このパウロ、ユダヤ教の一種としてしか見られていなかったキリストの教えを、外国にも通用するもの、つまり世界に通用する救いの教えだと理解し、外国人に伝道するように変わっていきました。ユダヤ教を裏切ったということで、パウロ自身、ずいぶんユダヤ人に命を狙われるなどしたせいもあろうかと思います。
 
それで、パウロたちは、現実に外国人がイエスの教えを信じて救われていくのを体験しました。この外国人のことを「異邦人」と聖書は訳します。ユダヤ人ではない人間ということです。しかし、これに対して根強い保守派がいるわけです。確かに今までのユダヤ教のグループに属してはいませんでしたが、キリストによる救いを受け容れても、やはりそれはユダヤ教の改革派のように感じているわけです。すると、ユダヤ教で非常に重要な根本的な儀式、たとえば「割礼」という、生まれた男児の局部の包皮を切り取る儀式は、旧約聖書にもある如く、救いのために漏らすことのできない用件が、問題となります。どうしても、キリストの弟子としての交わりに入るならば、「割礼」をしていないというのは大問題だ、と考えるのです。
 
パウロやバルナバと、こうした保守派とは、当然ぶつかることになります。互いににらみ合っただけでは解決しませんから、キリストの弟子たちの中で最も権威のあった、イエスを知る弟子たち、中心的なメンバーを使徒と言いますが、そこでこの問題を解決してもらおうということになりました。彼らはエルサレムにいました。これを「エルサレムの教会」と呼ぶことにします。教会堂をイメージするとたぶん違うでしょう。「教会」とは、建物ではなく、神に呼び出され、そこに集められた人々のことを指すものと理解してください。
 
パウロとバルナバは、異邦人が現実に救われていった様子を報告します。しかしここにも、元ファリサイ派といって、ばりばりのユダヤ教だった人々、パウロが元々いたグループの信徒がいましたので、「割礼」は必要だと声を強くします。そこで協議が行われた末、リーダーだったペトロが、割礼なしでも救われるというパウロやバルナバの意見の方を支持する声明を発表しました。これに加えて、バルナバとパウロも、全員の前で異邦人の救いの様子を説明します。
 
こうして最後に、ヤコブという、使徒ではないけれどもイエスの兄弟だった教会の権威ある人物がまとめたことには、旧約聖書にも異邦人の救いということは理に適っているとのことでした。但し、割礼は除外するにしても、律法の中でほかに譲れない四つのことがあると言い、それだけは、各地の信徒にはっきり伝えておくべきだ、ということになりました。この四つの中に、偶像の肉と、血のことが、ユダヤ教独特の問題でありましたが、もしかすると、イエスの教えたことはこれらを超越していたかもしれません。それでも、当時の文化常識からすると、これらの但し書きは、生活上当たり前のことと理解されたかもしれず、「割礼」に匹敵するような、特殊な事例ではない、と捉えたほうがよいものと思われます。それで、今日も、これら四つの条件について検討するということはしないことにします。
 
これで場面の背景とあらましはお伝えしました。そしていまからここを読み味わうのに際して、鍵になる言葉を選びたいと思います。それは「異邦人」です。先ほど触れました、いわゆる外国人のことであり、ユダヤ教の文化の中に属していないような、本来旧約聖書を土台としていなかったような人々のことを「異邦人」と呼ぶのでした。
 
異邦人がキリストを信じてよいのかどうか。この問題は、私たち日本人も立派にその異邦人の一部に含まれる以上、実は信仰の根底に関わる重要なテーマとなります。結論からいくと、もちろん異邦人が信じてもよいのです。とくに日本では、「キリスト教は外国の宗教だ」と真っ先に告げられ、また、「西洋の宗教だ」とも言われますが、後者については、キリスト教はユダヤ教から派生したようなものですから、中東由来の宗教です。そこは大きく捉えるならば、アジアの一部であり、西洋だというのはある意味で適切ではありません。しかし、日本古来のものではない、外国の宗教だというのは、確かにそうでしょう。こうなると、キリスト教こそが、私たちからすると「異邦」の宗教ということになり、キリスト教徒は元来「異邦人」であるというような見方をすることになるかもしれません。どちらを基準に置くかにより、言い方がずいぶん変わってしまうものです。
 
この「異邦人」という言葉は、日常でそう使われない言葉です。聖書用語のようですが、一定年齢以上の方は鮮明に心に焼き付けられている言葉であろうかと思います。そう、久保田早紀という歌手が歌った「異邦人」という歌は、1979年当時の記憶のある人には知らない人がいないだろうと思います。調べてみるとその後、ZARDや中森明菜、石井竜也に保田圭、小柳ゆきだの徳永英明だの、稲垣潤一と荻野目洋子、岩崎良美や柴田淳、原田知世も桑田佳祐や上白石萌音その他沢山の人がカバーしているようです。最近は宮本浩次のはじけたカバーが話題になりました。
 
正確には「異邦人 -シルクロードのテーマ-」というタイトルですが、旅の中で、あなたにとって私はただの異邦人に過ぎなかったのだ、という心の傷を癒そうとする切ない歌詞です。「異邦人」の「邦」は「くに」という事ですから、この言葉は「外国人」という意味ですね。いまでは「外国人」の言葉から差別的要素を取り払おうとしていますから、ニュアンスを伝えるならば「よそ者」という言い換えがよいような気がします。もっと言えば、先ほど触れた「赤の他人」とでも言いましょうか。恋した人はもう自分をよそ者・赤の他人としてしか扱ってくれないというのです。作詞作曲は久保田早紀ですが、この方がその後キリスト教信仰を与えられ、久米小百合として神学を学び、教会音楽をの良きリーダーとなっていることは、キリスト教界ではもう有名ですね。
 
ユダヤ人にとって、割礼という儀式は、なくてはならないものでした。米の飯を食わないと日本人じゃねぇ、というのとはまた違うでしょうが、割礼なしでユダヤ人ということはありえない固定観念がありました。いえ、それは神の律法により決まっていた、という掟でもありました。しかし逆に言えば、異邦人であっても、割礼を受けて信仰をもてば、ユダヤ人だと認められました。この割礼という儀式が、ユダヤ人というアイデンティティを意味していたのです。
 
キリストの弟子たちは、ユダヤ教から離れてはしない意識だったと思われます。他の人々からも、ユダヤ教の一派だと思われていたふしがあります。ですから、キリストを信じる仲間になったとは言っても、ユダヤ人であるために割礼を受けるのは、いわば常識でした。しかし私たちはいま、この事態をどう捉えるでしょうか。「割礼なんか、キリストの救いとは関係がないじゃないか、この分からず屋のユダヤ人め」と正直思いませんか。いえ、これは現代の私たちだけでなく、歴史上のキリスト教会が、ずっと言い続けてきたことだったのです。だから、ユダヤ人を、キリスト教徒が迫害してきた歴史が刻まれているのであり、それがヒトラーによる虐殺へとつながっていったという点を、いまのキリスト教徒は胸に刻んでおかなければなりません。俺はヒトラーとは関係がない、などと言っている場合ではないのです。
 
高校生の時、文化祭で、クラスではシェイクスピアの『ベニスの商人』を演じました。しかし今思えば、たいへんなユダヤ人差別の物語です。福音書もユダヤ人差別の根拠になっているし、特にヨハネによる福音書の書き方は酷いものですが、どの福音書も、ファリサイ派というのは、もう呪われた悪人そのもののようなイメージであるように伝わる書き方をしています。それなのに、使徒言行録とフィリピ書でパウロが自分はファリサイ派に属していたというような話と、客観的な叙述があるほかは、新約聖書には二度と「ファリサイ派」という言葉は登場しません。つまり、ファリサイ派は悪いというような書き方は、福音書にしかないのです。けれども、キリスト教の歴史は、ファリサイ派に代表されるようなユダヤ人を、それらを根拠に酷く扱ってきた事実があるけです。
 
私たちは、不当なレッテルを貼るということは、止めなければなりません。もちろん、適切な「批判」は必要ですが、「非難」はすべきではありません。でも、思い込みというのは怖いもので、自分が正しいという思い込みに襲われたら、人間は相手をひたすら悪として決めつけてしまうことになります。それは自分が貼り付けているレッテルです。よく「風評被害」ということが報道されますが、誰が風評を流すのかということについて、自分が流しているなどとは、誰一人考えていないはずです。誰も自分が流しているとは思っていないのに、風評被害が存在するのです。私たちは、自分のしていることが、全く分かっていないのです。
 
この場面でも、私たちはもうすでに、パウロとバルナバの横に立っているのではありませんか。「割礼なんか要らないのに、ユダヤ主義が頑なになってやがる、パウロが困っているじゃないか」という心理でいませんでしたか。すると同様に、現代の問題においても、こういった思い込みと正義感をもっているかもしれないということに、気づくこともできるでしょう。そしてそれは、周りの情況や時代によって、するりと入れ替わる価値観だとも言えます。昔、教会にいる人はしばしば、タバコも酒も嗜みませんでした。そんなことをするのは救われていない証拠だ、とばかりに、禁じられていました。教会は禁酒運動を率先していました。聖書にそんなことは書かれていないにも拘わらず、です。もちろん、今も禁じている教会は少なからずあるでしょう。でもまた、タバコも酒も自在にどうぞ、というのもどこか問題含みです。さすがに酒瓶片手に礼拝にやってくるということは、きっと誰も認めないでしょうから。
 
ほかにも、教会には重要な儀式として、「洗礼」と「聖餐」とがあります。カトリックは別の5つをも含めて「秘蹟」としますが、これが時に、今回でいう「割礼」の役割を果たしていることがあります。洗礼を受けないと聖餐は受けられない。これは一部の教会を除いては常識となっています。それなりに聖書の中に根拠を指摘していますが、それは解釈によるものであるということは、そんなことを言わない一部の教会の主張から、論ずる価値のあるものとなっています。しかしその団体内のある牧師が、洗礼なしに聖餐を行ったということで除籍されるなどの争いが、現実にありました。まことに「割礼」問題のようなことは、ごく最近でも実際に起こっているわけです。
 
ユダヤ教とキリスト教とを対比させたとき、私たちはキリスト教の立場にいます。新約聖書は、元々のユダヤ教の形態が、ユダヤ教のスピリットを抜いてしまったようになり、形ばかりとなったこと、またそれ故に人間の悪いところがいつの間にかそのように導いてしまっていることを、イエスが明らかにした、と理解しています。いまユダヤ教徒である方々にはご不満でしょうが、ともかくそのように考えています。このとき、キリスト教の側からいえば、当然キリスト教が正しい、と言いたいわけです。
 
でも、たとえそうであっても、キリスト教徒である私たちがそれ故に正しい、というふうになるのかどうか。それを問わなければなりません。ユダヤ教でなくキリスト教を信仰しているから正しい、というふうに、私たちは思い込んでいないかどうか、問い直す必要がある、ということです。
 
しかし、この事態を「構造」として見てみましょう。かのキリスト教は、このように見ていました。かつてのユダヤ教は、従来の習慣にしがみつくばかりで、もっと大切な本質を見失ってしまっていた。つまり、表面的な固定観念にこだわり続けていてはいけないのであって、霊的な本質を重視すべきだ、というふうに受け止めてみるわけです。
 
こうすると、いまの教会が、怪しくなってくる可能性が出て来ます。いえ、個人的に自分自身の信仰も問われています。実のところ意味もよく分からず、「このように聞いたから」あるいは「以前からこういうことになっているから」というだけの思い込みで、これは譲れないというような束縛に遭っていないだろうか、と省みるべきなのです。もしかするともっと本質を考えたら、その形が絶対的ではないということに、気づくかもしれない。たとえば、礼拝に出席するのが義務であるとして教会に急いでいた。その途中、道で困っている人を見た。でも礼拝出席が大切だから、その人には関わらずに教会に行って礼拝に参加した。これをどう思うでしょうか。愛という本質を思うならば、教会出席という義務を優先してしまったのです。これが、「割礼」を譲れなかった、という考えと同じようなものだと私は理解したということです。
 
けれども、旧態依然とした礼拝形式や教会の習慣、それはいけない、改革すべきだ、というように短絡的に結論するのもどうかしています。なんでも新しいのがよい、現代の価値観に合わせて伝統を壊すべきだ、というルールが成り立つわけでもないはずです。私は、できるだけ旧いものは守ればよいと思います。しかし、それが何故守られているかということを関知せず、新しいものはそれとは違うからダメだ、と拒絶することには賛成しかねます。聖書的根拠などとよく言いますが、それも権威者の思い込みで決めたものでないようであれば、丁寧に検討すればよいでしょう。たとえば、教会の奏楽はやはりオルガンに限るとして、ギターはおろか、ピアノすら認めない人がいます。しかし考えてみれば、オルガンという楽器自体も、歴史はそう古くないわけで、それが正しいのであれば、オルガンがない時代は間違っていたという、奇妙なことが導かれてしまいます。自分が慣れ親しんだものが懐かしいという心情は理解しますが、それが唯一正しいというわけではないことも、弁えていくようでありたいと思うのです。
 
イエス・キリストは、概して旧いものの内にあるスピリットを守りつつ、表向きだけにこだわりその本質を忘れて別のものを本質と勘違いしているような態度を否定しようとしているように見えます。でもそれを、ただの攻撃や反論といった形で捉えるのではなくて、たとえば凝り固まった考え方を、「解きほぐそうとしている」というふうに理解してはどうでしょう。イエスは、あなたの勘違いを、ぼろくそに攻撃して、破壊しようとしているのではありません。あなたを変えようとしているのです。
 
よく、「そのままでいいんだよ」という誘い文句を教会の中でも耳にします。「ありのままのあなたでいい」と、心誘いやすいような言葉を投げかけて、ソフトな印象を与えようとしているかのようです。かつては厳しい、信仰により自分の角々しいところをカットして磨くのです、などと迫っていたのでは現代ではもう通用しないと知った先人が、ソフト路線を開発したのかもしれません。それこそ、旧態依然とした伝道ではいけないから、いまの時代には軟らかく人を誘うようにしよう、と私が今日述べていることを応用したように見えるかもしれません。そしてまた、そういうことが長く続くと、いま教会を支えているような人たちは、真底そのように思っているかもしれません。
 
けれども、そのままでよいはずがありません。ありのままでよいはずがありません。聖書がそんなことを救いだなどと言っていると考えるのであれば、これはもう聖書でもないし、キリストの弟子でもないでしょう。そのままでよいために、ありのままでよいために、イエスは十字架で殺されなければならなかったとでもいうのでしょうか。それがいったい、あなたとどういう関係があるというのでしょうか。
 
十字架という最高に酷い殺され方がなされなければならないほどに、あなたの――いえ、私の根性は曲がっているのです。とてもとても、このままでよいような代物ではなく、私は悪辣の極であり、神に背を向け神の優しさを踏みにじっている極悪人なのです。しかし、それをも赦すという証拠が、同時にまた十字架でもあるのです。ここから新しく生きることができる、やり直して行けるのだ、と起き上がらせるのが、聖書の言葉です。
 
洗礼という儀式はそのひとつの表現ですが、水を被ることが救うのではありません。聖餐は神の恵みを腹の底から覚えるための大事な儀式ですが、そのパンや飲み物が救うのではありません。その儀式は守ればよい。大切に伝えていこう。でもその中心にあるものを確かに噛みしめることを、見落とすわけにはゆきません。十字架も、ただアクセサリーとして飾るものではないし、見慣れた福音書の記事として気軽に読み飛ばすだけのものではないでしょう。その中心にあるものが、自分の存在の核心と直接つながっていることによって、命が注がれるという、まさに命を捨てたイエスの姿であったはずです。だからいつでも忘れることなく、わが魂に向けて、注意を喚起し続けたいと思います。「この人を見よ」と。
 
私は異邦人であったのに、このキリストと出会うことができました。出会うことが許されました。異邦人は元来、割礼を受けなければ救われないと思われていましたが、このエルサレム会議において、割礼が非本質的なものであることが明らかになりました。表面的なものが大切なのではありません。形式的でしかないものを後生大事に守ることで、本質的なものを忘れてしまうことがありませんように。そして教会に居ることに慣れた時に、教会が理不尽な「割礼」を、神を求める人に対して強制することが、どうかありませんように。そのようにしようとする自分に、気づくことができますように。もう一度振り返りますが、私は異邦人として恵みを受けたのです。誰かを、異邦人として弾き出すようなことをしてしまいそうになる、人間の性から、守られますように。そのためにも、十字架のイエスの姿と、自分の心とが、ほどけない絆で結ばれ続けていられますように。その逆に、頑なな心を、イエスの愛が、解きほぐしてくださいますように。
 
神は、あなたに語りかけ、あなたのよくないところを造りかえ、あなたの全存在とつながり、握り締めようとしています。自分は大丈夫などという固定観念は、自分だけが勝手に思い込んでいる場合が多いのです。どうか心緩めて、心開いて、神の手がぐいと入ってきやすいようにしてください。どんなに聖書を知っていても、どんなに教会で奉仕をしていても、それでもあなたは、今日、新たに変わることが、許されているのです。
 
私も、そしてユダヤ人ではないとすればあなたも、「異邦人」として招かれました。本来神の支配する世界からすれば「よそ者」であり、「赤の他人」でした。けれども、もう、ただの「赤の他人」ではありません。キリストの十字架は血に染まっています。その血により「赤の他人」であったあなたは、「十字架に救われた友」となっているのです。それに気づいた今日、あなたは本当に、変わります。変われます。



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