命ある説教であるために

2021年5月13日

「お説教」となると何か叱られることかと思うが、「説教」だとどうだろうか。キリスト教の礼拝で牧師などが語る話を「説教」と呼ぶ。仏教なら「法話」と呼ばれることが多いだろうか。瀬戸内寂聴さんの『般若心経』というかつてのベストセラーの法話集を最近読んだが、実に面白くて、その法話には説教と通じるところが多々あるように思われてならなかった。いや、これは失礼な言い方である。そもそも「説教」という言葉自体、仏教由来のはずである。キリスト教が勝手に自分のもののように思い込むのは傲慢であろう。「礼拝」や「回心」も、読み方を替えているとはいえ、同様だ。
 
その「説教」とは何か。改めて問われると、どう答えてよいのか分からない。趣味で「説教論」の類は両手の指で足らないくらい目を通しているが、それのレポートを書いても面白くない。だが思い立って説教についていま少し話そうとするのだが、この壮大なテーマを、いくらだらだら書くのが私の特徴だとしても、それくらいで様々な検討ができるわけがない。そこで、実に限られた角度だけを切り取った話し方をしてみようかと思う。
 
これで給料をもらっている牧師の方々を俎に上げることはできるだけ避けよう。信徒が講壇に立った場合についての実例を思い起こしながら触れてみよう。
 
1 心を感じる説教
まずは好ましい例から。最近、Aという教会で、信徒説教があるのをネット配信で見た。それがいたく良かった。聖書神学からすると、特段深く突っ込んだ内容ではなかった。だが平凡さを感じさせなかった。そこに、ハートが感じられたからである。あるいは信仰なのでスピリットと呼んだほうがよいだろうか。どこかで聞いたようなベタなまとめで型どおり進んだというのではないのはもちろんだったが、語ったMさんの体験談が少し混じったとき、そこにある「信仰」が強く響いてきたのである。Mさんは、実は若い人たちに対して語り慣れている方である。そのため、人前で話すということに長けているというのもあったが、それだけでは説明できない、「信仰」が伝わってくるものだったのである。なにげない説明であったかもしれないが、聞き手に、神の存在を示すことができた。その人の「信仰」が、神を連れてきた。さらに言えば、ここから聞き手を神の前に連れて行くということが起これば申し分ないが、これは神の選びの業であって、人が画策することではない。結果そうなるということだから、語り手としては、「信仰」によって神を連れてくるということができれば、命のある説教であったと言うことができるだろう。
 
2 人間の視点からの説明に終わる説教
次は別の人である。こちらも、若い人の前で話すことに慣れている方である。こういう人は、常に人の反応を気にしながら語るものである。つまり、いま自分が話したことが目の前の人たちに伝わったかどうか、確認しながら話すことを常としている。慣れない人は、とにかく自分が言いたいことをうまく話せるか、で頭がいっぱいになるが、聞き手の様子を見て、話し方や内容を軌道修正するのである。ただ、この人はふだん牧師の説教を聞くばかりであり、そのときいわば人間の立場で神からの言葉を聞くということに慣れている。説教後に、聞いたことの感想を語るという機会はあっただろう。そこで、自分で聖書の箇所から話をするとなるとき、この立場と視点に終始留まり、聖書を読んだ感想のようなものを話して聞かせるということで終わってしまう。つまり、「神はあなたにこう語る」という取り次ぎをするということができないのである。喩えて言えば、説教者は、自分の背後に神がいるかのように語ることができるはずなのであるが、このタイプだと、最初から最後まで、会衆と同じ視点で、神に向かって語るのである。
 
3 聖書から学んだことを発表する説教
聞く人に届けるメッセージを実はもっていないという場合がある。確かに聖書の箇所の意味や、そこにある言葉の意味を調べて伝えもする。また、いろいろ解説書に書いてあることを調べてそれもうまく説明ができる。さらに、その内容に即した自分の体験談や見聞を実例として用いることもできる。それで、ちょっとこの説教を聞くと、いかにもきちんとした良い説教のように聞こえる可能性がある。うまくまとまり、聖書のこともよく調べているからである。だが、聖書に書いてあることの意味は分かるということがあったとしても、振り返ってみれば、「だからどうするのだ」という印象が何も残っていないことに気づくということがないだろうか。結論が、「信じましょう」とか「勇気をもちましょう」とか「喜びましょう」とか言うくらいで、いわばお決まりの合言葉でしかないのである。勉強する学生に「がんばりましょう」と言うのと同じで、気分だけ良くさせても、実は何もアドバイスをしていないのである。どうしてこういう説教になってしまうのか。その大きな理由は、語る人の「信仰」の問題である。聖書のお勉強はよくやったのだが、実は「信仰」が分かっていないのである。だから、同じように「信仰」がない聞き手には、良いお話として受け止められるのだが、「信仰」ある聞き手からは、「よくお勉強しましたね。でも、だから何?」でしかないのである。「信仰」のスピリットがまるで伝わってこないのである。残念ながら、これは牧師の中にも見受けられる。学校を出て単位をとって運良く就職して「牧師」の肩書きを得ても、「信仰」がない人の話には、全く命がないのである。
 
説教に必要なものは、聖書の知識でもないし、特別な解釈でもない。最近はインターネットで様々な礼拝説教の原稿を覗くことができるから、誰かの説教を真似して使うことだって簡単にできるのであるが、以前よりいっそう楽に、斬新な解釈や適切な実例などを調べることができるようになっている。それをひとつも用いるな、などと言うつもりはない。適切に参考にすればよいのである。だが、それに触れながらも、ひとつの説教を貫く流れをもたらすのは、語る人自身の「信仰」にほかならない。
 
いまなお、一時流行したスリーポイント説教しかできない人がいる。なんでも三つの要点を挙げるのが、説教の王道だと勘違いしているのである。そんなに聖書の言葉は、どの箇所からでも大切なことが三つ隠れている訳ではない。つまり、極めて恣意的に、三つ考えて形にしたつもりになるのである。だがえてしてそれは、人間の知恵であり、人間の思いつきではないだろうか。高々20分から60分くらいの話である。ひとつ伝わればいいではないか。「信仰」により導かれた、語り手の真実のひとつの神の事実だけが、せいぜい聞き手に残るすべてではないだろうか。そのひとつが、一週間分の力になるならばもう十分であるし、稀に、聞くその人の人生を変えたとするならば、説教者は確実に神に用いられ、結果を残したことになるであろう。ひとに命をもたらしたのである。
 
もちろん、説教というものが語るテクニックに走ったり、説教こそすべてだなどというのは、もっと酷い勘違いとなる。礼拝は須く、神と人との関係の中で行われる営みであるし、神から人へ、人から神へという応答がそのプログラムである。幕屋でモーセが神と語り合ったというのがイスラエルの礼拝の原形であろう。現在受け継がれている礼拝の形式は、シナゴーグに由来するとも言われるが、それはイスラエルの古来の伝統を踏まえているものと考えられる。礼拝のプログラムは最初から最後まで、神と人とがサシで向き合って、応答を続けるものである。説教は、その中のひとつである。モーセはイスラエルの民に、神の言葉を語って聞かせた。その話は、神がモーセにじっくり語り聞かせたものである。あのように、説教という形で、説教者はじっくり神の言葉を述べるのである。しかし説教者は一面人間でもある。モーセにしても、イスラエルの民に語りつつも、神に対してあれこれ述べもした。神と人との間の取り次ぎをするかのように、説教者は人の弱さも自ら覚りつつ、また聞く者たちに、神の慰めや赦しや力づけや愛を、伝える。それを可能にするのが、説教者の「信仰」である。「信」という言葉で広く捉えてもよい。それは人の「言葉」である。もしそれが神の「言葉」であったら、「光あれ」のように、そのまま現実となる。ひとの言葉は残念ながら、そのままでは空しい風のようなものでしかない。しかし、風がもし霊となったなら、あるいはその風を霊だという「信」をもっていたならば、それは現実となる。つまり神の言葉となる。このとき、言葉はただの言葉ではなくて、「神の出来事」になった、と称することができるだろう。人が言葉を受けて、それに対して「信」によって応えるとき、この「出来事」は起こり得るだろう。それが永遠の命を与えるということの、ひとつの姿ではないだろうか。たとえそこまで体よく事が目に見えて起こらなかったとしても、それは人が神との関係の中に確かにあったことを意味するし、まさに神を「礼拝」することになるだろう。説教は、そのためのプログラムの中でも、おそらく最もダイナミックなものとなるものなのである。



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