看護の日とワクチン信仰

2021年5月11日

以下で再び触れるが、ワクチンさえ打てば元の生活に戻れるという、誤った信仰が広まっているように懸念する。とんでもない。そのような認識はさらに感染を拡大しかねない。
 
さて、看護の日についての注目度は、近年低下しているのではないかと懸念している。もうそれどころではない、とでも言うのか、それともそもそも関心がないとでも言うのか。
 
フローレンス・ナイチンゲールは、クリミア戦争の時に実務したが、実践の場での活動はかなり短い期間でしかない。だが、その地位や発言力、そして何よりも適切な事柄を見つめる眼差しと知恵などにおいて、看護というものの基礎の確立に、かけがえのない貢献をした。衛生観念ひとつとっても、ナイチンゲールの指摘は実に正しく、劇的に患者の回復の改善に与したものであった。
 
その誕生日5月12日を以て、看護の日という記念日とし、看護とは何かについて耳目を集めるための大切な日と定めたのが1965年(日本看護協会よりの情報)。誕生からは今年で201年目にあたる。
 
ナイチンゲールの看護は、野戦病院から始まった。その生誕200年目の看護の日は、新型コロナウイルスの感染拡大の中で、野戦病院のようだとも解された。当時特に西欧で医療崩壊が叫ばれていたが、一年を経て日本でもそれが現実味を帯びてきた。この看護の日を、セレモニーで祝うというのだけでは済まない情況だが、かといってこれを蔑ろにしてよいとは思わない。これを機会に、もう一度医療現場について、医療従事者について、大いに関心をもって戴きたいのである。
 
いま、ワクチン接種に人々が目の色を変えている。その配分と供給の難しさもさることながら、ワクチン欲しさに精神的に奇妙な様子を呈しているような向きがあるとすれば、冷静になる道を拓かなければなるまい。
 
それから、重要なことだが、どうにも勘違いがはびこっているような気がしてならない。ワクチンさえ打てばもう大丈夫、マスクも外せる、との熱烈な期待だ。とんでもない。ワクチンを打ってからがむしろスタートなのであって、非医療的対策は継続しなければならない。あまりにもワクチン信仰が広まっていて、へたをするとマスコミすらそう信じている虞がある。この誤解を当局でも何でもいいから、もっとはっきり伝えておかないと、せったくの対策がむしろ感染拡大の発端となりかねない。定かな情報ではないが、ワクチン接種の進んだチリで感染が拡大しているのは、この誤解によるのではないかという声がある。
 
変異株への効果の曖昧さもさることながら、そうでなくても、ワクチンは感染そのものを無くすことはできない。たんに効果の確率というばかりでなく、単純にキャリアになるのである。今回の新型コロナウイルスのためのワクチンのメカニズム、いや、そもそもワクチンというものがどういうシステムであるのか、誰も殆ど知らないままに、ワクチン、ワクチン、と熱狂しているのではないか。知識を知らせれば安心とは私は全く考えていないが、それにしても、全く認知がない社会は、危険極まりない。
 
科学的な仕組みの説明は専門家にお任せして、喩えだけお話しすると、ワクチンは自動車保険のように捉えて戴くとよいかもしれない。事故に遭ったり起こしたりしたとき、保険に入っていれば、経済的な破滅を免れることはできるが、保険に入っていれば事故に遭わないし起こさない、という訳ではない。保険に入りつつ、安全運転を心がけなければならないことは言うまでもないだろう。それと同じである。
 
ワクチンを打つ医療従事者の身になった報道も皆無といっていい現状で、ワクチンを早く回せというばかりで、ワクチン後の生活を、いっそう引き締めなければならないということを警告する報道が恐らく全くない様子、あるいはかすかにそれが言われていてももうワクチンに夢中な信者たちにはそれが全く目に止まらない情況を、たいへん憂うばかりである。
 
それから、聖書の内容を全く知らずに、自分の想像と願望だけでキリストはああだこうだと決めつけて広めている姿を想像して戴いても、上の事情の恐ろしさに気づいて戴けるかもしれない。
 
こうした恐怖の結末は、看護の日どころではない。看護をこの世から消滅させてしまうかもしれないのである。



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