SDGs

2021年5月5日

もう半世紀ほどの時を数えるかもしれないが、「エコ」という言葉が流行った。「エコ」と名を付ければ売れるというような商品が溢れていた。一部の深刻に考える人を除いて多くは、その商品を出すこと自体が「エコ」に反するという点には気にしていなかった。そして、なんとなく「エコ」にすべきだという方向性だけが了解されて、世の中の舵取りがなされてきた。  
「SDGs」なる語がここのところ流行っている。「SDGs」とは、2015年に国連が全会一致で採択した「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称である。具体的には17の項目を挙げ、さらに細分化した目標が掲げられている。これらを、2030年までに達成するのだという共通了解の下で、世界が手をつなごうということらしい。争いや貧困、気候変動など、地球の危機と考えられることへの対策一般を広く含む合言葉だと見てよいだろうが、ここで中核にあるのは果たして地球なのだろうか。
 
気候変動などの地球環境については、スウェーデンのグレタ・トゥーンベリが声を挙げたともいえる、次世代への倫理は、もちろんその前から指摘されていたわけだが、それがいま「SDGs」というかけ声で社会的に認知されてきたとも言えよう。「倫理」という思想が、存在しない対象に向けてなされるという、画期的な拡大をしてきたのだ。つまり、これから後の世代の子孫に対する責任という問題が真剣に考えられるようになったのであり、その次世代は、今のところまだ存在していない人間を含むということなのである。その将来自体が存在しなくなってはならない。持続していなければならないのだが、それが危ぶまれているという認識が、いま懸念の問題となっているのである。
 
ただ、この国連由来の「SDGs」の中では、とくに経済活動に特化されたかのように、企業の発展のための利点として掲げられ、流行語になっているようにも見える。これを表に出さないと、一流の企業と見なされない「世間の雰囲気」があるとでも言いたいかのように、とにかく何か口を開けば「SDGs」と言っておくべし、というように揶揄すると、お叱りを受けるだろうか。
 
最近の気候変動サミットでアメリカが大きな提言したというのは、たいへんな皮肉にも見えるが、米中がこれまでこのような提言に鉄の盾を向けて拒んできたのは、経済の発展を阻害するからだった。しかし、それがもはや言い張れなくなったほどに、地球環境の危機は差し迫っている、ということなのだろうか。
 
車ですら、もうハイブリッドが当たり前のようになってきているし、アイドリングストップという形でエンジンを止める車も多い。さらに、化石燃料を使わずに、燃料電池により水素をエネルギーとして使う車へとシフトしていく試みが始まっているとも言える。しかしこれとて、その水素を生産するために化石燃料を使わざるをえない現状では、どこまで目的に適っているのか、分からない。また、そもそもそれほどまでして車を必要とすることの是非は問われないのも実情である。
 
「持続可能」というのは、地球が主語であるというよりも、どうやらやはり人間あるいは人類であるらしい。ボタン一つで世界が滅亡することすら不可能ではないような時代となって、人類滅亡は決して絵空事ではなくなってきた。また、新型コロナウイルスの感染拡大により気づかされたように、疫病が人類の生存を脅かしていることも、深刻な課題であるだろう。
 
戦争、疫病、森羅万象の変化と破滅、これらは聖書にしばしば書かれている事柄である。末法思想と少し共通点をも覚えるが、もちろん背景にある絶対者の観念が異なる。しかしこうなると、聖書が、「世の終わり」が来るということを盛んに言っているのはどういうことか、という議論が、キリスト教界の中でもっと真摯に問われ、声に出していく必要があるのではないかというふうにも思えてくる。「終わりの日」「主の日」などとも言い、たんに「その日」とも言う。世界は一方向に進み、始まりがあったように、終わりがくる、というのが聖書を生んだ中東などでごく自然に考えられていた世界観であろう。これは、「持続可能」という概念に真っ向から対立している。極端に言えば、人類はいつまでも持続はしない、という前提の信仰に、キリスト教は立っているのだ。
 
だが、人間がわざわざ環境を破壊し、争いで自滅し、差別と貧困を生んで人間の生存を否定することによって世界が終わるのだとすれば、「主の日」という設定を否むことになる。これは不信仰だ。キリスト教界でも、やはり「持続可能」は求められて然るべき事柄としてよいのではないか。   正確な時期は覚えていないが、これもだいぶ前のこと、月刊誌『百万人の福音』での特集に、環境問題が取り上げられたことがあった。教会でもエコロジーを意識しよう、という、その時代の流行に乗った企画だった。だが、それがどれほど真剣に教会で議論されたかすら分からないままに、その後はもう誰も気にしないようになっているように見える。せいぜい、教会にお金がないから電気や水道を節約しましょう、というくらいのレベルではないだろうか。
 
教会なるものが、いつも正しい訳ではないし、優れている訳でもない。キリスト教会に属している人間も、世間の人間とパラレルに、様々なタイプの人間が存在しているものと見てよいだろう。ファリサイ派などは、自分たちが神のしもべとして何をしても許され、優れている者たちなのだと思うようになり、またそれに基づく行動をしていたことから、イエスは決定的にこれと対立し、呪うかのごとくに神はおまえたちの考えている方とは違う、と盛んに言った。そのために死刑台へ送られたようなものであった。
 
だから、同じ轍を踏んでいるならば、教会なるものも呪われたものとなるだろう。これは警戒しておかなければならない。しかしまた、教会だからこそ、自分が間違っていた、と知るチャンスも持ち合わせている。悔改めというものを知る信仰であるから、神との関係を適切に結び、新たな歩みを始めることが赦されている。だからまた、新たな提言をしていくことも大いに期待されているものと思われる。
 
医療従事者のための祈りの点でも触れたが、その時社会で善いものと認められもてはやされている考え方を、教会もやっていますよ、という流行に乗るかのような自己義認をしている場合ではない。「多様性」とか「LGBT」とか、それをさも昔から教会がその味方であるかのように振る舞っているような場合ではない。教会はそうしたものを抑えこんで迫害してきた張本人であったことを悔い改めなければならない。世間が医療従事者の苦労を忘れたとたんに、教会も完全に忘れてしまっていたことをも悔改め、この「SDGs」についても、その根本理念のところを蔑ろにしてきたことを悔い改めて、謙虚に誠実に、真摯に立ち向かうことが必要なのではないだろうか。
 
かつては「エコ」が合言葉だった。そもそも「エコ」とは「エコロジー」の勝手な略である。元来「生態学」のことである。生物分野での概念であったが、命を守るべき視点から、社会や経済の問題と結びついて、人口に膾炙したものと思われる。いつごろか、「地球に優しい」というような美辞麗句で、ファッションのようにもなったし、企業の利益のための道具になったこともある。これがいま「SDGs」という語に置き換わっているだけなのだとしから、空しい。「ええかっこし」は要らないから、政治や企業などに操られないような賢さを与えられるように祈りつつ、その語の概念のさらに上を行く、そしてさらに根底を包むような捉え方をしながら、まだ見ぬ子孫のことももちろんだが、いまこの世界にいる困窮した人々に対する責任を、私たちは考えたいと願う。それがいかにも口先だけでしかないような生活をしている自分であるが、小さなことからでも、始めたい。多くの矛盾を抱えながらも、そう思う。



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