早くワクチンを打て。

2021年5月3日

新型コロナウイルスの感染は2021年初頭にピークを迎えたかと思われたが、新年度が始まる際にさらにまた勢力を拡大している。変異株の力が大きいと思われるが、初頭は年末年始の集まり、新年度は歓送迎会の集まりも背後にあったのではないかと推測されている。大阪市の職員が千人単位で、府民に依頼している基準を無視して感染拡大を助長する行動をしていたくらいだから、民間でもこうした基準は規制とはなっていなかったと言わざるをえない。もちろん、多くの人の我慢がある前提でこう言っている。しかし自分ひとりくらい構わないだろうと考える人間が、本当にひとりではない場合、その与える影響は多大である。
 
自粛生活に耐えられなくなってきているのではないか、という声もある。「ストレスがかかるから」と自己弁護をする人がいるが、それをしない人の中にストレスがあることは思いやることができるが、弁明する人の行為は、やはり軽はずみではないかとも見なされうるであろう。
 
自分はその部類には入らない、と当人は考えているから厄介である。教会発信の情報がいろいろ入ってくるが、私は教会や教会関係者には失望している。むしろ自分たちはコロナウイルスの収束のために祈っているから、と自己義認しているだけに、たちが悪い場合も多い。やっていることはお世辞にも誉められたものではないし、とくにここしばらく教会関係に顕著なのは、殆ど、医療従事者のために祈ってなどいないことだ。そういう言葉が全く見られない。少なくとも、教会が主体となって、医療従事者のために祈ろうという声が消えてしまっている。また、事実祈っていないことは、祈っていたらできないようなことを次々とやっていることからも分かるし、また、教会の祈りの課題にも、ついぞ医療従事者のための祈りが、祈りの課題からも見られなくなった。私のもとに来るそれには、2020年の緊急事態宣言が5月下旬に解除された以後は、直後の一回だけを除いて、祈りの課題にも週報にも、「医療(従事者)」という語が一度も登場していない。但し、公正を期するために触れておくと、6月に神学生が説教を担当したときにその冒頭で思いやったことが一度だけあったことは挙げておくべきだろうと思う。
 
いや、ほかに尊敬すべき教会はある。コロナ禍以前から、自殺願望をもつひとを救うことに使命を帯びて、多くの命を助けた牧師とその教会、家のない弱い立場の人々のために力を注ぐことを惜しまない牧師とその教会、こうした方々には、まことに敬服するほかはない。何の力にもなれはしないが、陰で祈りを添え、また何かの機会にそれを知らせるようなことなど、わずかでもできることがあればと願っている。
 
さらに関係したことについてひとつ触れるが、私がこんなふうに、医療従事者のための祈りの必要性を記している文章を読んでくださり、福祉関係の方が質問をしてくださったことにどきりとさせられたことがある。「教会では、いのちの電話のようなことをしているのですか」というのだ。つまり、コロナ禍で心が塞がっている人が、教会に相談することができるような仕組みがあるのか、という意味である。上記の教会はそうしたことをしていると言えるが、とてもとても、一般の教会は、そんなことはしていない。というより、そうしたことを教会ができるのではないか、という発想自体が全く生まれない。もちろん、こう言うと、いのちの電話を運営するのは簡単にはできない、スタッフや手間、予算や責任を考えるとそれは教会にできることではない、という弁解がまず飛んでくるかもしれないが、問題はそういうことでないことは、明らかであるだろう。
 
さて、2021年になり、遅ればせながら、日本にもワクチン接種が実現する段取りがついてきた。しかし一部には、早くワクチンを打て、という我欲と煩悩の塊のような怒号が飛び交っている。恐怖心からなのだろう。中には聖書を少しばかり囓ったような者もいる。
 
私は仕事上、電車通勤を続けている。そうしないと成り立たない仕事なのだが、できるかぎりの注意はしているつもりだ。うれしいことに、JRの駅には、消毒用アルコールが設置しているところもある。ありがたく使わせて戴いている。吊革もほとんど握らなくて済むようにしているし、二人並んで座るようなこともまずしない。立つと本にラインを引きにくくなるが、そんなときにはラインを引かずに読めるような本に切り換えるなど、様々な工夫をしている。それでも、実のところ申し訳ない気持ちをもたずにうろうろしている日々である。
 
他地域と比較する術を知らないが、福岡の人々は概ね従順に、予防のガイドラインに従っているように見える。少なくともこの一年、非常識なと言われるような振る舞いをする人には殆どお目にかかったことがない。だが一年を経た昨今、電車内でおおはしゃぎして大声で喋っている、比較的若い人々をよく見かけるようになった。女性グループもそうだし、男性会社員が二三人というのもよくある。思うに、これは「気の緩み」などという概念で捉えるべき情況ではない。何か精神的に異常をきたしているのではないかと予想している。一部の公務員たちのはちゃめちゃな行動が非難されているが、あれも、たんに「緩み」で説明されるようなものではないに違いない。おかしくなっているのだ。適切な判断や行動が分からなくなっているとか、あるいは、自分が正しいという思いこみに支配されて動かされているとか、そういった、何やら尋常ならぬ精神状態になってしまっているのだ。これは馬鹿にしているのではない。むしろその人に妙な「責任」を負わせないように配慮して言っているつもりである。病のせいだと言っているのだから。
 
ワクチンを打て。もう自分のことしか考えられないようなおかしな精神状態。こうした人に理屈を述べても無意味なのだろうが、しかし、私たちは他人に何か要求するときに、具体的に「誰が」そうするのかということについて、全く配慮をしないことがしばしばである。ここでもそうだ。いったい「誰が」ワクチン接種のための注射をするのだろうか。
 
ワクチンを打つのは誰か。なんとか高齢者への接種前には実現しそうな運びではあるが、それまでは自らまだワクチン接種すらしていないような、そして日々感染とのぎりぎりの接触を強いられて職務を全うしている医療従事者である。その不安とストレスを抱えた人々が、疲れ切って休んで構わないような、その休日を犠牲にしてワクチン接種に駆り出されているのだ。
 
さらに、ワクチン液をどのように用意するか、ご存じだろうか。すでに先行実施者が率先して、その使用法を動画などで情報開示しているが、たとえば広島県の「【市立三次中央病院監修】新型コロナワクチンの取り扱い」が分かりやすいという話があったので、これをご覧戴くとよいだろうと思う。
 
どれほどの手間がかかり、ひとの命がかかっているだけに緊張が走り、また高度の専門性があるか、お分かりだろうと思う。だが世間は、六回分取れるワクチンを四回しか取らずに残りを廃棄したのはけしからん、などと病院や当局を叩いて正義感を振りまいている始末である。日ごろ皿に食べ残しをし、残飯を捨て、賞味期限切れの食品を大量廃棄するシステムの中で暮らしている私たちに、何が言えるのだろうか。それでよいのかどうか、どうぞこの高度な技術を、本来の業務外で必死でやり通している医療従事者という人間のことを、少しでも想像して戴きたい。
 
それでもあなたはこの医療従事者たちに叫ぶのか。「早くワクチンを打て」と。叫ぶことができるのか。打ったらどうするつもりか。ワクチンは感染そのものを絶無にはしないのに、まだ打っていない人がいる中へ、マスクなしで出かけるつもりなのか。そして、教会は、祈りを忘却してうろたえていられるのか。いったい、なんのために教会はあるのか。教会は、そこにいる信徒と教会の予算しか見えないのか。医療の崩壊を助長するようなことをして、何が愛なのか。



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