コロナ禍を乗りこえる心

2021年5月1日

コロナ禍の中で、聖書は何を叫ぼうとしているだろうか。そんなことを考える。聖書の中にも疫病は幾度か登場する。新旧約全体で66節に登場するが、エレミヤ書とエゼキエル書に多く目立ち、それはむしろこれから悪をなすと疫病で死ぬ、というような呪いめいた言い方のようである。しかし旧約の書のあちこちに出てくる単語であるから、古来人類を悩ませるもの、好ましからざるものとして、人間がしかも太刀打ちできないものとして捉えられていたことが窺える。
 
人々の不安がそこに感じられる。殺されるという恐怖が伴うものだっただろう。これに対してそう落ち着いて臨めないし、簡単に乗り越えるなどということもできないものだったに違いない。
 
現代の疫病は、これまでもいろいろあったが、局所的な流行であることが多く、世界の先進国の多くは、余所事のように見ていたふしがある。それがこの新型コロナウイルスの感染拡大は、全世界を覆いつくしたと言える。人が密集し衛生対策の不足した地域での蔓延は避けられず、貧困国ではなすすべもなく苦役の連鎖が続いた。そして欧米諸国もたいへんな被害を受けた。人の命もだが、経済もである。
 
人々は生活スタイルを変えざるをえず、また、人と人とのつながりが距離を置くものとなり、あるいはまた分断されていった。ただでさえ、経済や民族やイデオロギーで分断という問題が大きく懸念されていた世界だったが、一人ひとりの分断にまで至ってしまった。曲がりなりにも日本人が震災で気づかされた「絆」すら、その本来の意味の「ほだし」のように切り離されたままになってしまった。
 
SNSを追いかけることは私はないが、目に入った分だけは見る。これを覗くと、このコロナ禍の情況に耐えきれなくなって、どこかおかしくなってきているような発言に出くわすことがある。質が悪いのは、キリスト教徒だと自称し、いかにも聖書に詳しいかのように自己顕示し、独善的に特定の人物を挙げて暴言や誹謗中傷を大量に撒き散らしているような者である。自分の思うとおりにならないことで、精神が破綻してきているのだ。見ると実は信仰のない人のようだからなおさら、純朴な信仰者からすれば迷惑なことだろう。
 
コロナ禍で、自分は大丈夫と思う場合もあるかもしれないが、実は案外ダメージを受けているということがある。私も、そういう自分に気づいたことがあった。自分が疲れている、と気づくことは大切だ。過労死という怖い事態のひとつには、これを自ら打ち消して無理を続けるという情況もあるらしい。もちろん、リタイアできない場面の中で、疲れているのにせざるをえない、ということも多々あるとは思うけれども、まことにどれも厳しい、辛いものがある。
 
これではよくないぞ。気づく眼差しが欲しい。それを認めたならば、無理に打ち消さないで、悪い様子を適切に捉えたいと思う。それは時に、自分が間違っている、という意識に気づくことでもある。人は、なかなかそれを認めたくないし、自分が可愛い。自分は正しい、という自信をどこかでもっていたいし、それを否むならば、卑屈で自己否定の暗闇に落ち込むような思いに潰されると不安がるのかもしれない。
 
だが、自分がよくない状態にある、と気づくことは、私は望ましいと考える。なぜならば、それに気づいたならば、聖書の言葉は必ずあなたを助けてくれると信じているからだ。聖書は、神がその思いを人に授けて書かせた、というのが暗黙の前提となっている。その聖書が、神はあなたを愛している、としきりに言うのだ。あなたは大切にされており、ちゃんと見ている、あなたを知っており、信頼している、と告げるのである。
 
この神は、天地万物を創造した神である。私たちが生まれることにも関わっているという。この創造主が、あなたを愛していると迫ってくる。
 
この神の言うことを信頼するとよいのだ。そのためには、聖書についての物知り的知識は要らない。知ったかぶりをする必要もないし、聖書に詳しいなどと考えなくて構わない。何も知らない、それで構わない。ただ、イエス・キリストが何をしたかを見つめ、その言葉に心が惹かれ、信頼を寄せるならば、きっと乗り越えられる。助けられた思いを経験することができる。そう信じる。
 
生活の苦しさがある人、祈ろう。危険な仕事に疲れている人、祈ろう。憂鬱な気持ちにさせるテレビ番組をもう消して、空を見上げてみよう。神は何も雲の上にいるわけではないが、天は神を思わせるひとつの象徴であるに違いない。
 
祈ればお金が転がり込んでくるかどうかは分からない。転がり込むかもしれない。私も苦しかったときに、不思議な、思いもよらない収入が与えられたことが幾度もあるから、そういうことがあるかもしれないし、思うようにはないかもしれない、と思う。ただ、何か必要な助けは与えられることだろう。何らかの助けは、その都度あった。それは、どういうときにも、確かなことだった。
 
但し、自分ひとりが正しい、の一点張りでは、そうしたことを見はしないだろう。乗り越えることができるというのは、何か外からの力が及んでくるのを感じるときだ。自分というものが小さくなり、そして小さいければも神の目に留まっていることがきっと分かる。これは信頼というものでもあるし、信仰と呼んでも差し支えない。
 
子が親を無条件で信頼することがあるとすれば、それに幾らか近いものがあるように思う。知識によって、それがもたらされることが、ないとは言わないが、むしろ知識なるものは、後から得てもよいように思う。ああ、そういうことだったんだ、と後から気づくのであってもいい。とにかくいまは、自分正しさを脱ぎ捨てて、聖書の言葉を、神と差し向かいで受けてみる、それを強くお勧めするばかりである。そうすればあなたは、この今を、きっと乗り越えられるのだ。きっと、乗り越えられる。



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