【メッセージ】ゆるしをもたらす教会

2021年4月25日

(マタイ18:15-20)

あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ18:18)
 
「お山の大将」、そんな言葉を口にしたことはありますか。一定以上の年齢でしたら、日常語のひとつでしょう。今はどうでしょう。今の子どもたちは知っているのでしょうか。これは遊びの名称であると共に、人間の性格を指摘するときにも使われる言葉です。仲間の中で自分を偉いとし、またリーダーとならねば気が済まないようなタイプを表します。
 
このような言葉があったということは、人は誰も、そうした姿勢を自戒していたというふうにも考えられます。つまり、言葉があるということは、それを意識するということです。近年、差別的な言葉がなくなってきました。もちろん悪いことではありません。それを言えば誰かが傷つきます。しかし、差別的な言葉を知らないということと、それは同等であってよいのかどうかについては、少し疑問があります。差別的な発想が全く消えてしまっているのならまだよいのですが、差別する意識はどこまでも人間にあるとするなら、言葉があってそれで差別とはどんなに酷いものか考えることがないとき、別の言葉や態度で、差別をしてしまうことに、なりはしないでしょうか。私は特にSNS環境で、そのことを感じます。
 
日本は、宗教教育を施さない数少ない国の一つです。これは、宗教とは何かを知ったり考えたりしないで成人になるということを意味します。一生宗教に関わりがないのならそれでもよいのかもしれませんが、そうした心をうまく操ろうとする宗教も世にはあります。カルト宗教の団体が、科学の知識のある若者を引き込んで、殺人集団となった例を、私たちは知っています。この事件の原因を、簡単に教育のせいにすることは戒めなければなりませんが、全く関係がないわけではないと思われます。
 
新しい言葉は次々と生まれ、流行るのですが、古来の言葉は急速に廃れていきます。方言ももう絶滅しかかっているのではないかと思うのですが、こうしたことは単に言葉が入れ替わっていくというものではなく、言葉を通じてものを考えたり、心情を気遣ったりすることが薄れていくということにもつながります。そう、心情というものに疎くなっていく経験を最近しました。
 
みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる
 
斎藤茂吉という歌人、また精神科医も、知らない人が増えてきたようですが、それよりもこの短歌の意味です。これを国語の授業中に扱ったところ、中学生たちが一斉に、全く意味が分からないと言いはじめたのです。「みちのく」については説明しました。しかしそれでも、情況を全く想像できないというのです。それはけっこう成績の良い子どもたちを集めた塾のクラスです。どの顔にも「?」が見えました。親を失うという実感がない年代であるかもしれませんが、この分だと「危篤」という意味も、心情も、分からないのではないかという気がしました。気になって、その夜インターネットでこの短歌を検索してみたら、いわゆる「質問箱」のコーナーに、あるわあるわ、この歌の意味が全く分からないが宿題に出たので教えてくれ、という類。人の死とそれに迫るものを想像しづらい心を相手に、「命の大切さ」を訴えたとしても、教育の現場のしていることは、暖簾に腕押しというところではないかと危惧されます。
 
近年、論理的な読解力の危機が訴えられるようになりました。そのためか、高校の国語に「論理国語」なるものが登場するのだそうですが、製品のマニュアルや契約書などを読めるように訓練するのだといいます。これに驚いて反応する世間ですが、実は問題は論理だけではないのです。心情の理解や共感も、想像力も、明らかに退化しています。あるいは、心から見えない領域がどんどん拡がっているように感じられてなりません。
 
ラノベというものを否定するつもりは私にはありませんが、そこに描かれた心情は、極めて単純なものであるように見受けられます。錯綜した心情をもし描いたら、若者たちはさっぱり分からないということで、全く手に取ってくれないのでしょう。夏目漱石はもはや古文の領域に属しますが、それは単にその言葉が古くさいというだけでなく、言わずもがなの心情が全く想像できない点も関係しているのではないかと私は思っています。
 
それでは、聖書の文章を読むのはどうでしょう。それは事件や歴史を学ぶためのものであっても悪くはないが、基本的に、信仰のための書です。ひとの心、精神的なことについて描かれており、またそれを体験するように書かれているものと思われます。いえ、イスラエル民族にとっては、それは実務的な律法でもあったでしょうし、生活を支配する原理を定めた書であるというふうに捉えられるかもしれませんが、少なくとも現代の異邦世界にいる私たちにとっては、それは心に呼びかける言葉であり、魂を導く書であるという捉え方をしているものと思われます。
 
そこで、ある意味で言外のものを読み込もうとするわけですが、残念ながら、これは相当の読解力と共感の心の持ち主であっても、分からないものは分かりません。なにしろ時代が違うし、環境が違います。社会が違い、文化が違います。言葉の意味は訳せても、その言葉にこめられた習慣や思想や生活を、知るわけではないのです。でもありがたいもので、多くの研究家の努力により、かなり多くのことが分かってきています。私のような凡人も、その恩恵を受けて時折偉そうなことを口にして知ったかぶりをしていますが、聖書考古学や文献研究、比較文化など、実に多くの分野の研究家の、生涯を懸けた労苦の成果を、ありがたく受け取っているのが実情です。聖書の言葉の背景や文化的背景を理解するのに、実に多くの分野からの助けを得ています。それは、私たちが自分勝手に思い込むことから避けさせてくれるし、誤解を解いてくれるものです。
 
たとえば、クリスマスの出来事において、私などはかつて、農家の家畜小屋のようなものを想像して、そこでマリアが出産し、動物たちに囲まれて赤ちゃんのイエスを寝かせているような場面を想像していました。いったい、それでは不潔すぎて、産婦の生命すら危機的状況にあるのではないか、などは少しも考えていないわけです。けれども、聖書をそのままに読んだだけでも、そんなことはどこにも書かれていないことが分かります。誕生の風景をかなり描きこんでルカにしても、客間が取れなかったということくらいしか書いていません。飼葉おけという一言だけで、ロマン溢れる田園風景を私たちは思い描いていただけなのです。当地の建物が、家畜のいる場所も人間の住む部屋と続いているような造りであったことが普通だということを知ると、確かに少し待遇が悪いのは認めるにしても、それほど悲惨な環境ではなかったことが想像できるようになります。
 
こんな具合ですから、私たちも、知らないが故にどこまで思いこみでイメージを勝手に作ってしまっているか分かりません。もちろん、特定の研究書がすべて正しいということもないし、すべての神学書を読んだとしても、真実が分かるとは限りません。信仰者にとっては、あくまでも聖書が基準です。参考書は参考書、ですから聖書というテキストから、神の言葉を聞こうとするのが、聖書を信じるということにほかなりません。また、そこから各人が神の言葉を受けるということは、確かな真実であると信じますが、その内容が、あらゆる人に同じように適用できるかどうか、それはまた別問題だと思います。自分の読み方を唯一の正解として、他人に押し付けるようなことは厳に慎まなければなりません。
 
けれども、聖書を個人的に読んではならない、というふうに、古来言われていました。教会の歴史の中で、庶民に聖書を読むことを封じていた時代が長く続きました。そもそも大昔は、文字が読めるということ自体が限られていた人たちだけだったので、聖書は読むものではなく、聞くものであったはずですが、新約聖書が書かれた時代にも、自分勝手に解釈するものではない、と諭したものがありました。
 
何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。(ペトロ二1:20)
 
ここでいう「聖書」とは、もちろん今で言う旧約聖書のことに違いありませんが、これは聞いたことを曲解したり、自分にひらめいた読み方が非常に歪んでいたりした様子を伝えているのかもしれません。各人の読み方は尊重すると言いましたが、教会を壊すような読み方になることは、どうしても排除するようにしなければならなかったのだろうと思います。
 
いまも、教会によっては、教会の理解の仕方に絶対に背いてはならない、とするところがあるようです。威圧的なようですが、同情もします。SNS上で、あまりに自分勝手な聖書の読み方や決めつけをしているものも散見するからです。ただ、そう解釈するのは間違っている、と私は申しているのではありません。自分なりの解釈について私の基準で横槍を入れるつもりはないのです。ただ、そうした歪んだと見える解釈をする人が、きわめてしばしば、他人の意見をぼろかすにけなして、自分だけが偉いというような口調で語り、自分ひとりが真理を知っているというような態度をとっている、そこに問題があると考えるのです。
 
ひとは、それぞれに神と出会うことでしょう。いえ、神は一人ひとりに応じて、出会い方をしてくださることでしょう。復活のイエスにしても、弟子たちのほうからイエスに近づいていったというふうには書かれておらず、すべて、イエスのほうから弟子たちに近づいています。私たちが一歩近づくと、神は百歩近づいてくる、それほどに、神の側から私たちに迫ってくるのです。いかに神が私たちを愛しているかを感得すべきであろうと思います。
 
その人がどのように神と出会い、神から使命を受けたかということについて、他人がとやかく言う必要はないのですが、自分以外の人間をあらゆる点で否定し、断罪し、その上で自分の思いつきを自ら称えるような心は、明らかに歪んでいます。いやはや、私もその点気をつけなければなりません。あまりにも自分の考えを普遍的なもののように断言することについては、常に戒めていなければなるまいと考えています。いまこうして申し上げていることもその例外ではありませんから、やっぱり排除しているのではないか、と問い詰められれば、あまり言い訳めいたことは言いたくはないと思いますけれども。
 
たとえば、聖書を、立場においてあまり差のない少人数で読み合うことは、とても有用ではないでしょうか。一人権威者がいると、その人の言葉を絶対視しかねませんし、揺り動かされるので注意しなければなりません。互いに意見を言い合えること、ひとの考えを尊重すること、その雰囲気があれば、つまり自身の意見を押し付けるような人がおらず、互いに傾聴する精神で読書会をするのはよいことではないでしょうか。あるいは礼拝の後、少しの時間でもよいから、その日に開かれた聖書の箇所から受け止めたことや考えたことを語り合うという工夫をしている教会もあります。経験したことがありますが、実りあるひとときをもつことができていたような気がします。複数の意見を知ることによって、自分だけでは気づかなかったことが、何か見えてくるということがあります。自分の捉え方の間違いに気づかされることもあります。また後で調べようという気持になり、ためになることもよくありました。
 
自分と神との出会いは、最も大切なものです。それなしに、聖書の「お勉強」をするために私たちは教会に来ているのではありません。しかし、自分の読み方だけがすべてというわけではないことも、このように複数の人で分かち合うことによって、より大きな収穫があるのではないかと思われます。
 
さて、前置きが長すぎるのですが、今回開いたマタイによる福音書の箇所では、この「複数」という点が強調されているように見えます。「二人または三人」という表現が二度出てきます。「ほかに一人か二人」とあることも、自分を含めるとまさに「二人または三人」となるので、これも含めると三度出てくることになります。ほかに「二人」という取り上げ方もあることから、注目されているのは、複数という考え方です。これは自分だけの思いこみや独善を避けるひとつの知恵でもあると考えられます。
 
いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。(申命記19:15)
 
旧約の律法のこの知恵は、その後のユダヤ社会を強く支配していたようです。マタイによる福音書でもこのように繰り返されておりますが、マタイと言えば旧約聖書の実現をイエスに見たと訴えたいために、さかんに、これは旧約聖書の成就である、ともってくるイメージがある中で、ここでわざわざ律法の引用ですなどというコメントを一切載せていないのは、いかにも当然すぎることであったということを意味するものだと受け止められます。
 
そしてここに「教会」という言葉が登場します。イエスが直接、後の時代の「教会」という言い方をしたようには思えませんし、もともとこの語は「呼び集められた人々」というような言葉ですから、「教会」という訳語が適切かどうかは議論があるかと思います。たた十字架と復活からすでに半世紀以上の時を経ていたマタイの記述においては、今でいう「教会」なるものが存在したことは確かです。マタイがイエスに言わせた、としてこの言葉の信憑性を疑う研究者もいますが、私は、即座にイエスがそのようなことを言わなかったという証拠にはならないと考えます。イエスの言った意味を、マタイが後の言葉で説明したところで、イエスが言わなかったということを決めつける理由にはならないと思うからです。現代において、時代劇の台詞に、当時存在しなかった言葉を使ってしまったとして、劇がすべて嘘になるというように私たちは考えないのと同じようなものではないでしょうか。
 
マタイは記します。仲間が「あなたに対して」罪を犯したとき、最終的にその「教会」に訴えることになりますが、そこへ行き着くまでに、三段階あるとしています。
 
1 行って二人だけのところで忠告しなさい
2 ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい
3 教会に申し出なさい
この三段階の説得にも応じなければ、教会としては最後の処置をしなければならない。
4 その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい
 
イエスは、異邦人も救いの対象に入れただろうし、徴税人のレビやザアカイを救ったのですから、とてもこれはイエスの言葉とは思えないような酷い差別的なもののように、聞こえなくもありません。敢えてそれを弁護することはしませんが、要するに、教会の仲間とは認めないということを言おうとしているのは確かだと思われます。関心のおありの方はさらに深めて調べて戴きたいと願います。
 
この段階を経た説得には、なんとかして簡単に裁いてしまわずに、幾重にも段階を踏んで仲間に引き戻すチャンスを与えようと努力している様子が窺えます。つまりここには、教会を舞台にした「ゆるし」の教えがある、と読む読み方があると指摘する人がいます。私もそうだと思います。ここにあるのは裁きが目的ではなくて、なんとか現実にゆるすことに挑もうとする、教会のあり方が表されていると捉えたいのです。
 
そう考えるとき、その教会には一種の権威があるとして、次に、少し深めた言い方が待っていました。
 
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
 
ここの始まりは、英語で言うなら「Truly I say to you.」です。いわゆる「アーメン(もともとアメーン)」であり、ここぞ聞け、とばかりに力の入ったところです。しかし、はっきり言われたのであっても、どうにも私たちには謎ではないでしょうか。
 
あなたがたが地上でつなぐこと、それは天上でもつながれる。
あなたがたが地上で解くこと、それは天上でも解かれる。
 
このような表現を、マタイは他の場面でも実は書いています。ペトロについて絶大な権威を与えた場面です。ペトロ個人に宛てて言っています。ということは、ペトロを諸大教皇としたカトリック教会の権威の礎ともなった、なかなか重要な個所なのです。
 
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
 
基本的に同じことを言っています。ですから私たちは、やはり先ほどの箇所に戻ることにしましょう。ペトロ一人に対してではなく、弟子たち一般に向けて広く「あなたがた」と呼びかけた箇所です。「あなたがた」とは、この近辺一連の教えを告げている弟子たちのことです。天の国でいちばん偉い者について、小さな者をつまずかせてはならないこと、小さな者を軽視しないで一人を大切にすること、こんなことを弟子たちは聞きました。そして、この「教会」の姿勢へとつながるのです。そこで、教会のあなたがたがつなぐならつなぐ、解くなら解く、つまり地上であなたがたのすることが、天上でもそうなっている、というのです。
 
これは過去の教会にとってまさに福音であったと思われます。教会が決めたことがそのまま天国でもそうなるというのですから、教会の権威はまさに神の領域に入ります。教会が決めたことは神が決めたこととなる。もう教会には逆らえないというわけです。聖書を読ませなかったかつての教会も、この聖書の箇所だけはきっと熱心に教えたことでしょう。
 
ただ、「つなぐ」「解く」というのが、非常に抽象的で分かりにくいものです。分かりにくいからこそ、恣意的に説明できたのかもしれませんが、ここでギリシア語を見てみると、これらの語の発音が「デオー」「リュオー」となり、リズムがいいことに気づきます。いや、それは原形ですから、実際にこの文の中では時制や人称により形が変わっているわけですが、それでも「つなぐ・つながれる」が「デーセーテ・デデメナ」、「解く・解かれる」が「リュセーテ・レリュメナ」と、十分リズムよく並んでいることになります。言葉の調子からこの表現がとられた側面があるのは確かだと思われます。
 
すると、リズムを重視するために、意味のほうは少しこじつけられた可能性もあります。ですから語そのものよりも、その時制に、ちょっとこだわってみようかと思います。少しばかり特殊な話題になりますことをご了承ください。
 
「つながれる」「解かれる」は、英語で言えば受動態です。日本語もそのように訳してありますが、違う見方も可能だということです。最近國分功一郎という哲学者が、中動態という考え方に光を当てて話題になっているので、それをヒントに考えてみました。実はこの「つながれる」「解かれる」の語の動詞は、活用としては中動態としても同じ形であり、どちらとでも取れるのです。國分氏の説をここで説明し始めると30分くらいはそのために費やさなければならないので、関心をもたれたらぜひ追究して戴きたいと願います。
 
ギリシア語にある中動態は、現代のギリシア語学習書では決まって、「oneself・自身」を目的語ととると教えています。しかし國分氏はいろいろ調べ、考えました。すると、ギリシア語はより古くに遡ると、「能動態⇔中動態」の対概念が最初にあったのだそうです。そこへ、後から「受動態」が入り込んだのだという。ここに「意志」や「責任」の概念を盛り込んでくるのが彼の哲学の真骨頂なのですが、残念ですが今は関わることができません。
 
能動態とは、いま私たちは受動態と対照させて、「する・される」の関係でしか理解していません。確かに英語でそのように習いました。しかし、古代ギリシア語の捉え方は元々違っていました。能動態は、主語が、その外のものへ力を働かせて、外で行為が完結するときに用いるのだというのです。そして中動態は、主語の内部にその過程があるときに用いるのだといいます。つまりこの「態」の対立ポイントは、外と内との問題であるわけです。たとえば「私が欲しい」というのは、私の外に力が及ばず、単に私の中に欲しいという過程が起きているだけなので、ギリシア語では中動態となります。
 
新約聖書の時代には、必ずしもこの対立概念が支配している時代ではなく、また新約聖書自体、古代のギリシア語からだいぶ変化したギリシア語の書かれ方をしているのですが、ここは実験として、この助けを使い、少しでも古代の考え方に近づいて先の言葉を聞いてみようと思います。
 
18:18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
 
「天」という言葉は、「神」という語をみだりに使うことを避けたマタイの表現として、「神」と読み替えてみましょう。因みに天上で「も」の「も」は特に原語にはないので、この意味を少しくどく読み解いてみると、次のようになると思われます。
 
あなたがたが地上で自分の外にあるものをつなぐならばそれに見合うだけ、神において(in heaven)「つながっている」状態にある。
あなたがたが地上で自分の外にあるものを縛らないならばそれに見合うだけ、神において(in heaven)「縛られていない」状態にある。
 
さあ、ここからは私の、少しばかり独り善がりな読み方が始まります。この場での語りの中でのみお楽しみください。決して鵜呑みになさらないように。
 
脈絡からすれば、これは教会につないだり、教会から排除したりすることを意味するように思われます。この読み方は、オーソドックスなものです。ここにくるまでの話の流れは、罪を犯した者をなんとか教会につなぎ止めようとする努力をすべきだと言い、よほどどうしても仕方がなければもうあとは知らない、とするのですから、それでよいと思います。恐らくこの路線が本当でしょう。だから、キリストの弟子たる私たちが、この地上で、教会に人を招き、神とのつながりの中に働きかけるならば、神としてもつないでいるままとしてくださるだろう、と理解するのだとしたら、私もそれに賛同することにします。
 
けれども、後半を少し私なりに捉え直してみることにしました。私たちが地上で、ひとが自分に対して罪を犯したときにそれを罪だと追及するのでなく、解放してあげられたとしたら、簡単に言うと、罪を赦したならば、神としても罪にしばることはしない、つまりすでに赦された状態にある、そう捉えてみたいと考えたのです。解いたらそれに応じて動作ようにして解かれるというシステムではなく、もうその内部で解かれてしまっている、解かれている状態にすでになっている、というように捉えるのです。
 
さらに考えてみましょう。「あなたがたが地上で自分の外にあるものを縛らないならばそれに見合うだけ、神において縛られていない」と書かれてあると理解したのですが、ここで地上と神とにおいてパラレルに語られているのだとすれば、どちらかが原因でどちらかが結果であることを単純に決めてしまわないようにしてもよいのではないでしょうか。つまり、「神において縛られていないのだから、私たちも地上で縛らないでいよう」と呼びかけられているように、私は受け止めてみたいと思ったのです。
 
歴史を思い返します。私たちが、おまえは罪人だ、と決めたから、神から見てもおまえは罪人なのだ、という方向で、教会の権威を絶大なものにした歴史がありました。キリスト者と名のる人間が断罪したら、神も断罪しているのだぞ、と脅すことを、かつて教会はしてきたのは間違いありません。いや、今もこの気配が残っているような気もします。カトリックに限った話ではありません。プロテスタントだろうが何だろうが、教会の意見に対して異議を唱えたら、こんな態度に出ることは、実際ありうることです。牧師という立場の人が怒り心頭にこんな態度に出ることも、実際に見ました。また、教会の勢力を支配した信徒のグループが、こんな態度で牧師を断罪したことも、実際に見ました。
 
だからこう言いたいと思います。「イエス・キリストは赦したではないか。イエス・キリストの罪の赦しを、あなたも私も、経験したではないか。それだから、私たちも、地上で人を赦そう」と。でもそれは、「罪」という事柄をいい加減にすることではありません。罪を憎んで人を憎まず、とあるように、赦すのは「人」であって、罪をどうでもよいものとするものではありません。ここで私たちとは複数です。二人でも三人でもよい、証人として通用するだけの人数、必ずしも独り善がりではないだけの祈り合う仲間と共に赦すことを考えたのであれば、赦そうではないか。最初に、自分に対して罪を犯した仲間に対して、自分だけでうまくいかなければ、複数で説得に当たったではないか。複数という、教会のあり方をここに映し出して受け止めてみては如何でしょうか。
 
いまこの景色が見えた地平で、残りの部分を読んでみましょう。
 
18:19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
 
「二人が地上で心を一つにして求める」とは、複数の仲間がいることを示します。独り善がりではなく、誰かと共に願うことがあるならば、というのです。何を願おうか。金か、名誉か、地位か、追従か。聖書を読めばそれらが悉く違うことは明瞭です。何を願おうか。赦しを願いましょう。今日はそれを聞いてきました。けれども願うことを、自分が誰かを赦すことに限定することは危険です。自分が赦されること、それはもう信じていることかもしれませんが、自分がまた絶えず誰かを傷つけ、虐げている意識を少しでももつならば、自分の赦しを求め続けなければならないものと考えます。
 
そればかりではありません。もっと違う視点も必要だと考えます。もっと願いましょう。願い事は、大胆に、神に申し出ましょう。この社会で虐げられている人、あるいはまた、自分が実のところ虐げているその人の名誉回復も含めましょう。私が傷つけているあの人もまた、喜べるように願おう。そのためにできることなら、謝ろう。償おう。ともかく、教会として赦しを願おう。教会もまた、この世の中に悪い結果をもたらすような非道なことをしてきたことがあるからです。いま地域で、社会で、コロナ禍の中で、何ら力を与えられない無用の長物のようにそこに煌びやかな会堂を見せているだけの教会として、悔い改める覚悟を以て、赦しを求めようではありませんか。そのような願いとともに、二人または三人でも、イエスの名を掲げて集まるならば、まさにそこに、イエスが臨在する、神がそこに共にいる、そのように期待しようではありませんか。
 
聖書の読み方として、こんなふうに歪ませることは相応しくなかったかもしれません。けれども私たちは、赦しの世界から投げかけられた光を見たいと願います。そのような思いを携えて、キリストの名を掲げつつ心を合わせることができたら、そのときには、イエスはそこにいる。「はっきり言っておく」と告げたイエスは、そんな約束を、私たちに与えてくれたとして受け止めることをも、赦してくださるのではないでしょうか。そう信じます。



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