尼崎脱線事故と精神医学

2021年4月25日

「福知山線」という名前なので誤解が生じるかもしれないが、場所は兵庫県の尼崎。「鹿児島本線」と言いながら、福岡県の博多駅を考えているようなものである。
 
福岡では、福岡西方沖地震が起きてまだ落ち着きを取り戻せていなかったかもしれない頃だった。朝のニュースで飛び込んできたのは、列車がマンションに突っ込んでいる、ショッキングな映像だった。もはや一両目は形を留めていない。目を覆いたくなるような惨状だったが、カメラは事故現場を延々と映し続けた。いまならどうだろうか。その後東日本大震災を経て、事故報道での画面については、いくらか配慮がなされてきたような気がする。
 
2005年4月25日、朝の9:18であると記録されている。私はこの日のことを忘れることができない。日付も、毎年近づけば必ず事故のことを思い浮かべつつ過ごす。この事故についてご存じない若い人たちもいるだろう。よかったら検索でもして、覗いて見て戴きたい。通勤客ももちろんだが、大学生なども多く命を奪われた。決して他人事ではないということで、関心をもって戴けたらと願う。
 
事故の原因というものは、一言でまとめられるものではないが、大きな点として、安全装置の不備というメカニズム的な面と、運転士を精神的に追い詰めていた企業のメンタル面の扱いとが挙げられ得ることだろうと思う。このうち後者に、ここでは注目する。
 
事故で自ら命を失ったのみならず、百人を越える乗客を道連れにしてしまったその運転士は、業務に関してJR西日本という組織から、相当に圧力を掛けられていた。いまならハラスメントとして問題になりうるものだったのかもしれないが、当時はまた今とは違った。この人を追い詰めるものが、現にあったはずだ。
 
ひとの心を追い詰めるものがあると、加害側にとっては小さな軽いものであるつもりかもしれないが、受けるほうはたまらないわけで、大きな力で苦しめられていくことになるだろう。SNSで誹謗中傷を浴びせること自体は、言い放つ本人にとっては、なんらエネルギーを要しない、軽いものであるかもしれない。だが、これを浴びる側はたまらない。もちろん、事柄に関する適切な批判というものは世の中に必要である。だが、そうでない、ひとを殺す言葉がどれだけネット空間に飛び交っていることか。
 
また、ひとりの小さな力が、全世界を変えてしまうような絶大な力を有することがある、というのも現代の危機のひとつである。精神的に懸念がある人物が、強大な権力をもつ場合にどう対処するべきなのか、という問題は、必ずしもルールが決まっているわけではない。
 
「精神医学は大統領を診断するべきか?」(黒木俊秀『現代思想vol.49-2 精神医療の最前線』)は、その問題を具体的に取り扱っていた。トランプ大統領時代、精神医学と政治の関係を巡り、激しい議論がアメリカでなされていたことは、私たちにさほど知らされていない。精神科医が、そこに危険があることを、専門的な意見として国民に対して伝えてよいのかどうか、また伝えるべきであるのか、という問題である。これについては、アメリカではすでに事例があり、「ゴールドウォーター・ルール」というものが一つの基準になっているという。1964年の大統領選における共和党候補であったバリー・ゴールドウォーター上院議員は、強硬な反共路線を明らかにしていた。これに対する民主党のリンドン・ジョンソン候補の陣営は、ゴールドウォーターはレイシストであり、もし大統領になれば核戦争を起こしかねないというキャンペーンを展開した。このときある雑誌が、全米一万人以上の精神科医に、ゴールドウォーターが心理学的に大統領に相応しいかどうかというアンケートをとり、結果を公表したのである。そしてゴールドウォーターを、一定の精神病だと指摘するような声が拡がっていったという。しかし、選挙で負けたゴールドウォーター議員は、雑誌を名誉毀損で訴えて勝訴した。このため、精神科医の個人的な政治的意見をよしとしない倫理規定が生まれたのだという。
 
精神科医の指摘は、時に非常に政治的な効果を生んでしまうだろう。だが、国家への不利益をもたらす、指導者の精神的問題をそのままにしておくことがよいのか、議論は確かにある。もしそれを異常だと専門家から相当に明らかであった場合にも沈黙したままで、ついに取り返しのつかない事態を招いてしまったとしたら、それはそれで大問題となるであろう。だから、必ずしもこのゴールドウォーター・ルールが絶対的なものではない、ということで議論は続いているのだそうである。
 
この小論は、最後に中村哲さんの名を出して結んでいる。彼は精神科臨床を最初に学んでいる、この中村哲さんが、COVID-19に翻弄される世界を見たとしたら、「今の僕たちになにを語るだろうか」と。
 
私たちは、誰かを追い詰めていないか。あるいは、許しすぎて間違った事態を生み出していないか。それともまた、自分自身が何かに操られたり、狂ったりしていないか。そのことを疑う視点を、少しは持っているか。失われた犠牲者の命に、何か応えるべく、考えたり行動したりすることはできないか。いろいろ、思いが渦巻くこの日である。



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