当事者意識と聖書

2021年4月21日

言葉や命題の形で出されたものが、普遍的に真実であることはない、というのが私の考えである。もちろん、この言明自身にもそれは適用されなければならないし、そうなるとまた、パラドックスが生じるので、なんとも罪なことを言っていることになるが、それほどにまた、言葉にして表すというのは不条理極まりないことだということなる。
 
「被害者にも非がある」という文は、当の被害者が自戒をこめて口にすることはそれなりの意味を有するが、加害者が言い放つことはできない。少なくとも加害者がこのように言うことを是とする論理は私たちの周囲にはない。
 
聖書の言葉は、こうした言葉の集まりである、と見てよいかと思う。これを自分の人生に生かす人もいれば、自分とは無関係にただそこにあるものとしてしか考えることのできない人もいる。同じ知恵や教えが、その人に行動に行かされるという場合もあれば、ただの口先だけの言葉以上のものにはなれない場合もある。
 
これをいま仮に「当事者」という言葉で説明してみたい。聖書の中の教えも物語も、読み手あるいは聞き手としての自分が、まさに「当事者」として参加できるのかどうか、これが聖書を前にした者の分かれ道である、とするのである。
 
聖書について知らないとか興味がないとかいう人、これは、それはそれで間違っているわけではない。厄介なのが、聖書について中途半端に知識をもった人が、「当事者」に全くなることができないでいる場合である。聖書の教えを振り回すが、自分のことだとは微塵も考えないし、そのような気づきが全く欠落しているのである。
 
「ひとを裁くな」と誰かに熱くなってぶつけている人がいるとする。この人は、自分が相手を裁いていることに気づいていない。気づこうともしていない。「赦さなければならないだろう」と相手に強要している人自身が何も赦してなどいないとしたら、厄介なのである。もちろん、そこにはメタ的に理解する途が残されているかもしれないし、何かしらの事情でそのように言わなければならないという可能性を排除するつもりはない。しかし、自分の都合のよいときにだけ、特定の聖書の言葉を自分のために弁護として用い、他人に対しては容赦なくそれで責め付けるというような使い方しかできない、そういうことが現にあることは、近年のネット領域を見ているとよく分かる。
 
聖書の解釈においても、そのような構造はありうる。聖書の言葉をどう理解するか、というのは、自分がその場面に属し、自分の問題として考える時にこそ見えてくる世界や湧き上がる真実というものがあるものを、冷たく他人の眼差しで聖書の意味を分析し、たとえ歴史的な史料や語学的な理由を持ち出してそれなりに辻褄が合うように説明したとしても、自分が当事者にならないままに器用に論ずるばかりであるとなると、いくら口が達者でも、少しも共感を覚えないものである。けれども、自分の人生の痛みをひしひしと覚えて証しをする人に対しては、たとえ聖書の学究的理論には一致しないものであったとしても、そこに神がいると伝わってくることも多い。
 
要は、その言葉とその人の心との間に、命が流れているか、いないか、というふうに捉えることもできる。命の言葉と聖書が言うとき、この当事者になって影響を受けたということにほかならないわけで、癒された人々、救われた人々は、まさにそのようにしてイエスの言葉を受け止めたというふうに見てよいだろうと思う。それに対して、イエスが敵視した権威者たちは、その逆であったということになる。
 
同じ言葉や命題が、真実にもなるし、不真実にもなる。口にする人の立場、それを掲げる人の心のあり方により、同じ言葉が、命にもなるし、死にもなる。単なる命題が真理であるとか、虚偽であるとか、そうした問題なのではない。
 
それは、キリスト教界において有名だからとか、取り巻きがたくさんいるからとか、そんな基準で量ることもできない。立派な教会だから、有名な組織だから、そんなことも全く関係がない。イエス・キリストがいまの教会を見つめたら、人の評価とはまるで違うことを仰るのではないか、とすら私は思う。まさに二千年前に、キリストが多くの言葉を発したときのように、名だたる教会や牧師たちには少しも賛意を示さないのではないか、とも思う。
 
いま私たちが抱きがちな価値観に対して、そんなふうに人間があたりまえだと思うことの逆説を、現代のイエスは立て続けに仰るのではないだろうか。確かにいま、そのイエスの姿はここにはない。助けるための聖霊という方が働いているのだろうが、毒麦にしても自分が毒麦だとは気づくことがないというのが、本当のところではないかという気がする。正義の味方と悪の軍団が最初から分かれている図式で、現実世界は塗り分けられているようには思えない。二千年前には、祭司長たちやファリサイ派の人々は、正義そのものであり、精神的な権威者・支配者であったのだ。神の名のもとに、真理の名を恣にしていたのだ。
 
牧師という職業で苦労が多く、自らを擲って働いている方々には、そのことの故に敬意を示すことは怠らないが、人間として、また信仰者として尊敬すべきかどうかはまた別である。多くの牧師を見てきたからこそ、これは自信をもって言える。
 
もちろん、牧師でもない私がまた、当事者として口先だけの厄介者であることも、私は否定しないのだが。



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