【メッセージ】Stand by Me

2021年4月11日

(マタイ28:16-20)

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)
 
Stand by Me と聞けば、最近では「ドラえもん」という声が返ってきそうです。有名なポピュラーソングを思い出した方は、60年前のベン・E・キングでしょうか。いえ、多くのミュージシャンがこれをカバーしていて、特に1975年のジョン・レノンによる大ヒットが、私には印象的でした。
 
When the night has come
And the land is dark
And the moon is the only light we’ll see
No, I won’t be afraid
Oh, I won’t be afraid
Just as long as you stand, stand by me
So, darling, darling
 
Stand by me
Oh, stand by me
Oh, stand
Stand by me
Stand by me
 
周りがすべて暗くなろうとも、僕は恐れやしない。
君がそばにいるから。ああ、そばにいて。僕を支えて。
 
元々黒人霊歌にインスパイアされてつくられた曲だと言われており、キリスト者が聞けば、これはイエス・キリストのことを歌う賛美歌そのままだと思わないでしょうか。こうした歌詞の曲が普通にヒットする欧米の音楽業界が、少し羨ましくもなります。文化的な違いだと言えばそれまでなのですが。
 
Stand by me、共にいる。自分の味方になってくれて、同じ側に立っていてくれる。キリストが、共にいてくれる。これでもう今日の説教は終わりでもよいくらいなのですが、そもそもこの「共にいる」ということはどういうことか、その辺りから、回り道をしつつ、マタイによる福音書の最終場面を受け止めてみたいと思います。
 
「共にいる」というと、子どもにとってのお友だちは、そういうところがあるでしょうか。いつもいつも同じ子と遊びます。いつしか環境が変われば、また違う子と仲良くなることもありますが、そのしばらくの期間、ずっと一緒に遊びます。そう、「共にいる」とは言っても、一時期のことである点は、少し寂しいような気がします。当の子どもたちは、自然と友だちを替えているだけなのかもしれませんけれども。
 
強引に「共にいる」ようにすることも考えることがあります。わが福岡のチューリップの「心の旅」の歌詞は、強く心に残っています。
 
もしも許されるなら (許されることなら)
眠りについた君を
ポケットにつめこんで
そのまま連れ去りたい
 
ひとつ間違えると、「つきまとい」や「ストーカー」といった犯罪にもつながりかねませんが、「共にいる」ことを求めつつも、悲しい別れの歌なんですね。しかし今の時代なら、GPS機能を使ったストーカー行為もありがちで、実際怖い時代になりました。
 
赤ちゃんは特にそうですが、幼い子どもは、母親と自分とを他人のようには見ていない、とも言われます。精神状態は、その母親と同一のつもりなのですね。大人とは、自他の区別や自己意識などの点で大いに違いがあるそうな。ふと母親がいないことに気づいたときに、この世の終わりのように泣き叫ぶというのは、自己喪失なのでしょうか。こうした母子のあり方は、「共にいる」どころの話ではないような気もします。
 
しかし、これが胎児となると、母親の側からしても、子は驚異的に「共にいる」こととなります。そもそも「共にいない」ようにすることができない絆しの情況にあるわけで、子は母親の体の一部分に含まれていることになります。父親からすれば、赤ちゃんの姿が目の前に見えるようになってこその「誕生」かもしれませんが、母親にとっては、母体内にあるときから、すでにそれは子として存在していることになるのでしょう。だから「こんにちは赤ちゃん」という大ヒットした歌の歌詞が、本来親父の歌だったということが、明らかにされています。作詞の永六輔が、中村八大の長男の誕生を祝って贈った歌詞だったのです。それを、「夢であいましょう」の「今月のうた」にするときに、番組のプロデューサーが、お母さんの歌にしてくれと要望したために、歌詞を作りかえたのでした。けれども母親の歌だったら、生まれた赤ちゃんに「こんにちは」などと改まった言うはずがない、という点で、どこか不自然な歌詞になってしまった、と言われています。
 
子のほうでは、大きくなるにつれ、親と「共にいる」ことが嫌になってくると思われます。自我が芽生え、自立の心が育ってくると、親から離れようとします。しかし親のほうからすればいつまでも子は子ですから、距離を取りながらも、見守ることは止めません。心のほうでは、離れていても「共にいる」意識を消すことはないのです。子が成人して、独立した家計を営むようになっても、まだどこか「共にいる」思いを隠しもっているような気がする、などというと、親世代の人々は、いくらか共感してくださるでしょうか。もちろん、それを表に出すのは御法度です。たまにそこに介入してトラブルになっているケースも世の中にはあるようですが、静かに黙って見守るしかないのは当然でしょう。ただ、その子が何か傷ついたときには、何も言わずに迎える港になる、というのは親の義務のようなものであって、それを構えているだけでも、「共にいる」ような意味があるのだ、などと言うと、ちょっと図々しいものでしょうか。
 
そして人の子の親になるということは、自分の親とも別れなければならなくなるという世代となることでもあります。親を送るのは、ひとつの順番だとも諦めるしかないのかもしれませんし、逆に子に先立たれた親の悲しさを思うと、親と別れるということ自体が、ひとつの小さな親孝行であるのかもしれません。しかし、親に限らず、亡くなった人が、「共にいる」という感覚を、私たちはもつことがあるのも事実です。恩師でもそうかもしれませんし、近年ではテレビで馴染んだ芸能人にもそのように感じることがあるかもしれません。親友を喪ったときにも、あいつはこの心に生きているんだ、などと口に出すことがあるでしょう。
 
それは気休めのように聞かれることもあります。それでも、こちらが思い続けている限り、その人は死なないんだ、などという伝説めいた思いにも、ただのドラマの科白というだけでなく、実感を覚えている方もいらっしゃると思います。物理的にそんなことはない、などと興ざめなことはいまは言わないでください。この心の中に、その人が生きている、というのは、イエス・キリストの復活信仰とも無関係ではないはずです。キリスト者を名のっている限り、もしかして物理的な復活を信用できない、と言い放ったとしても、自分の魂の中にキリストが生きていることまでも否定することはありえないでしょう。もちろん、復活信仰を告白する人も、キリストがわが内に生きているということは、パウロならずとも、当然懐いているものでしょう。キリストは私の中で生きている。その意味で、間違いなく「共にいる」とも言えるわけです。
 
地震の話をします。私は京都にいるときに、阪神淡路大震災の揺れを経験しました。初期微動で目が覚めた私は、地震がくることを警戒しましたが、数秒後に、ドーンと下から突き上げられたあの恐怖は、いまなお体が覚えています。テレビが落ちてきていたら死んでいましたが、幸い小さいながらも鉄筋作りのハイツは、本とビデオテープが降ってきたくらいで済みました。砕かれた阪神地域に援助に出ていくYMCAの仲間たちを背後で支えながらも、呆然とする日々でした。こちらは現場を離れることができなかったために、現場には足を運べなかったのです。
 
その後、福岡に戻ってからは西方沖地震を、イースター礼拝の最中に体験しました。比較的大きかったけれどもそれは横揺れで、マンション住まいとなっていた身としては、被害らしい被害はありませんでした。但し、マンションの建物で部屋から反対側の一部のタイルが何枚か剥がれたために、地震保険が下りました。当時地震保険に入っている福岡県人は、どれくらいいたでしょうか。私たちは、保険はもとより、家具の突っ張り棒やスライド式食器棚など、被害を最小限にするための措置をとっていましたので、同じマンションのよその家のように、食器が落ちて割れるということもなく、あの保険金は、ちょうど教育費などで困っていた私たちに、なんとも言えない恵みとなりました。
 
同じ地震となると、やはり熊本地震が思い起こされます。最初のときは、仕事場で子どもたちに数学を教えていました。時代が変わりました。授業中、突然ウーウー一斉にサイレンのような音が鳴ったのです。生徒たちのもつ、スマホの警報音でした。すぐさま机の下に潜らせ、頭部を守るように指示。これも大きく揺れましたが、落ち着かせることに専念しました。この地震で大きな被害を受けた熊本の、益城町には、その後三年半にわたり、年に6度の慰問に通うこととなりました。しかし、現実の被災者のために大したことはできず、こうした大きな地震を幾度も経験しておきながら、まともな支援やボランティア活動など、私はついにできなかったと言わざるをえません。
 
洪水などを含めても、こうした災害の被災者が、比較的近いところにいたのに、私はとりたてて何ができたというわけではありません。被災地を見守ること、祈ること。いや、被災者からすれば、何の助けにもなっていないではないか、と言われてもまさにその通りだったわけです。それでも、災害の中にある人は、見つめていてくれること、思っていてくれることは力になる、と口にすることがあります。社交辞令かもしれませんが、必ずしもそうとばかりは言えないのではないか、とも思います。たとえいま何かをしてくれていなくても、ずっと思ってくれる人がいるとなると、もし何か問題が起こったときに味方になってくれるかもしれないという期待や信頼のようなものが芽生えるかもしれないからです。それは辛い経験をしたときに、自分も感じたことがあります。すべてが冷たい人なのではない。それは、後で、そんな声をかけてくれたり、実際に何かをしてくれたりすることで気づきます。一種の「共にいる」という人の存在は、確かに力になることがあります。孤独感が癒されることがあります。だから、災害の支援者というのも、いま現実に何かの行動をとることができないにしても、助けになる可能性を否定しないほうがよいし、「共にいる」という気持ちは決して忘れないでいたい、と思うのです。
 
ところで夫婦はどうでしょうか。好き合って結婚した場合が多いでしょうが、その後二人は幸せに暮らしました、という結婚ストーリーで落着しないのが世の現実です。いえ、それは不幸になる、とか籠の鳥のように出たがるとかいうことではなく、生活していく共同体では、二人は同労者となるというところに目をつけたいのです。二人して、新しい家庭を、家族をつくります。子どもがそこに加わると、共同責任が発生します。何らかの形で、二人はやはり「共にする」共同体の共同責任者となるのです。
 
そう言えば結婚することを「一緒になる」と言います。「共にいる」ように結婚式で誓いを立て、「共にいる」ことを日常としていく。その関係を崩してはいけないと言われるし、互いに助け合うのも間違いない。「一緒になる」とは、それまで他人として生きてきた別の個人が、「共にいる」ことを始めることなのでしょう。そのうち、そばにいてくれるな、と文句を言われることがあるかもしれませんが、そこはそれ、様々な「共にいる」形があるとでもしておきましょうか。
 
先ほどの災害の支援者の存在もそうですが、プロスポーツの選手はよく口にしますが、応援してくれるファンの存在が支えになっているといいます。建前じゃないのか、と勘ぐる人がいるかもしれませんが、ファンが見ている、ファンが応援してくれている、その存在感によって、自分を鍛え節制して、良いプレーができるように努力するのが、選手であるはずです。ただ自己満足のためにやっているのではないはずです。2020年のように、無冠客試合などというのはやはり感覚が違ったかもしれませんが、それでも、背後にいるファンが「共にいる」という思いで、選手はプレーしていたのではないでしょうか。きっとそうだと思います。
 
ファンが、いてくれるだけで、力になります。選手のほうから、そのファンはいま目に見えていないけれども、ファンからは見られている。「見えないけれども、見られている」、ここに「共にいる」ことの大切なエッセンスがあるような気がします。相手を見ていないときにも、相手からは見られているとするのです。こちらが相手のことを思っていないようなときにでも、相手はこちらのことを思ってくれている。そういう信頼があればこそ、それを心の支えとして、こちらも元気を出してするべきことをすることができる。そういうものではないでしょうか。
 
さて、長く長く「共にいる」ことについて、いろいろなケースを見渡してきました。最後に、開かれた聖書の言葉に心を向けましょう。
 
復活のイエスに出会った女性たちが、イエスの弟子たちに伝えました。ガリラヤに行くように、そこでイエスに会えますから、と。弟子たちは11人になりました。言われたとおりにガリラヤに来て、指定された山に登りました。山は神と出会う場所として、聖書にしばしば記されます。マタイはあまりドラマチックには書きません。弟子たちはイエスに会い、ひれ伏したとあります。疑う者がいた、という付け加えは、ヨハネによる福音書でのトマスの疑いを思い起こしますが、そうしたエピソードが、確かにあったのでしょう。あとは、これが今日開かれた聖書の箇所のすべてです。
 
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
イエスが近寄ります。イエスのほうから、弟子たちに近づいてきます。山に登りさえすれば、あとは神のほうがやってきてくださるのです。「権能」という言葉が目を惹きます。資格や能力といったことなのでしょうが、英語だと「authority」であろうかと思います。権威であり、支配する力のことです。イエスは、復活した暁には、こうしたものを握っているというのです。
 
そしてイエスが弟子たちに命じたことを、端的に四つ切り取ったとすると、次のようになります。
 
1 行く
2 弟子にする
3 洗礼を授ける
4 教える
 
まず、「行け」との言葉により、弟子たちは散らされます。人間の権力により追い散らされるのではありません。神の力を受けて、世界へ拡大する、あるいは飛び散っていくのです。
 
次に「弟子にする」ことです。すべての民に影響が及びます。マタイはユダヤ人に宛てて福音書を書いたのではないかと言われ、またユダヤ人が救いを受けるにはどうするのか、巧みに描いているように見えますが、しかしイエスの教えは、ユダヤ社会に制約されるものではありません。そして、イエスに従う人々が生まれるように働く、それがこの言葉を聞いた者の仕事です。いえ、義務というのではなく、そういう資格が与えられるのです。力が、能力が、神からもたらされるということなのです。実はここだけが、分詞ではなくきっちりと命令形で言われているところなので、イエスの命令はストレートにここに集中しているように読んでみるのもよいかもしれません。
 
それから「洗礼を授ける」のは、いわば「水に沈める」、もっといえば「溺死させる」ような表現であると言われます。古い自分に死に、新しい命を生きること。これなしには、キリスト者の恵みはありません。いかにも教会の教えが広まるような風景を思い浮かべさせる言葉が並んでいるようですが、単なる儀式のことを命じている、で終わらせるにはもったいないことだろうと感じます。そしてここには、いわゆる「三位一体」とでも言うような、「父と子と聖霊の名によって」というフレーズがあるのは、キリスト教の教義上目が離せない箇所ではありますが、いま私たちはそこに逸れていくことはしないことにします。
 
最後に「教える」。すでにイエスは弟子たちに、あれやこれやを教え続けてきました。それを今度は別の人々に、新たな弟子たちに向けて伝えるのです。「教える」という言葉は「ディダスコー」の分詞形が使われていますが、この語は基本的に、新たにキリスト教信徒となるように伝えることではなくて、すでにキリストに出会い信仰を与えられた人に対して、教育を施すことを意味します。ですから、弟子たちはまずとにかく動き始めるように言われ、新しくイエスを信じる者を生み出し、新たな生まれかわりを経験させ、そして信仰生活を続けていくための知恵と知識をもたらすというように、信じる人を得て育てる教育段階を見事に表していたということになります。
 
これはやはり、教会共同体へのメッセージであるに違いありません。マタイの属する教会がイエスが直接弟子たちに向けて最後に贈った言葉が、いかに教会をつくり、教会を建て上げていくものであるかを感じさせます。これらの主語は、動詞の形から「あなたがた」であることは明白ですが、この言葉を聞いた弟子たちがその「あなたがた」であるのは当然ですが、その「あなたがた」と「共にいる」というのが、マタイの福音書の締め括りでした。
 
28:20 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
 
「共にいるだろう」ではなく、端的に「共にいる」。過去において、あるいは未来において、などという限定はありません。すべてのすべてにおいて「共にいる」、時間に制約されないすべてにわたる宣言です。この「あなたがた」が、ガリラヤの山に登った11人に限定されるわけがありません。ここにあるのが教会共同体への命令であり、励ましであるのだとしたら、キリストの教会を受け継ぐ者たち、そしていまに至ればこの私たちがまた、「あなたがた」として、イエスが「共にいる」という約束の内にあることは確実です。いつ如何なる瞬間も逃すことなく、まさに「いつも」イエスは「共にいる」のです。
 
私たちは今日、人間世界で「共にいる」という言葉を使う場面を様々に想定してきました。様々な立場で、様々な人に対して、「共にいる」という感覚を私たちがもちうることを見渡してきました。人間でさえ、「共にいる」ことが力になり、支えになるのだとしたら、イエスが「共にいる」というのは、無限の力を与えてくれることになりはしないでしょうか。
 
いやいや、こんな自分は力がないし、何もできない。神を信じているなどと言いながら、実情は全然ダメな生活をしているのだ。そんなふうに怯む必要はありません。「しかし、疑う者もいた」と先に見たではありませんか。疑う者も、この言葉を聞いたのです。「あなたがたと共にいる」と言われたその「あなたがた」の中に、「疑う者もいた」のです。おまえのことは知っている、おまえのことをちゃんと勘定に入れているから。教会の中には、いろいろな人がいてよいのだ。それらをすべてひっくるめて、「わたしの教会」と呼ぶのだから。いいですか、「教会」とは、そういうところなんです。そういうところであるべきなんです。教会組織の維持や、教会経営の画策にばかり目を奪われているような団体ではないんです。「教会」は、このイエスの「共にいる」命令を受けてのみ使命を帯びた、命に生かされた「あなたがた」が蠢く共同体なんです。
 
イエスは告げました。この言葉を聞いて、励みになると思った者、自分のことだと感じた者は、きっとわたしが「共にいる」。そのわたしを信頼して、さあ、立ち上がりなさい。
 
私たちと「共にいる」イエスとは誰でしょう。どんな方なのでしょう。それは福音書を見るがいいのです。人それぞれのガリラヤでイエスと出会うのであり、その人なりのフィールドで「共にいる」イエスを大切に胸に懐きましょう。ここから新たなあなたの歩みが始まります。いつでも、どこからでも、スタートラインに立つことができます。
 
このイエスは、私たちの肉眼では見ることができないと思われます。私たちには見えないけれども、私たちはイエスに見られています。親が子を思うように、イエスは私たちと「共にいる」のです。私たちは幼子のように、親と一体でいたいではありませんか。そう、あのイエスでさえ、父と一体だと言っていたのです。ふだんから目の前にいるようには思えないファンや支援者のように、意識しないときには感じないかもしれませんが、何かあったら強い味方になってくれるのであり、そういう神が見ていてくれるということを信頼するならば、私たちはどんなに力強いことでしょう。このイエスが自分の側にいてくれる。Jesus stands by me. あなたが側にいる。僕を支えてくれる。だから僕は恐れはしない。どんなに周りが暗くなろうとも、イエスが側にいてくれる。あなたはひとりではない。イエスはあなたをひとりにはさせません。



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