いないほうがいい、という思いから

2021年4月11日

自分のような者が生きているということに、不条理を覚えていた。地球上の資源は限られている。とくに石油系の素材は、量が限られている。成人しても運転免許に興味がなかったのはこうした心理による。だがいまは車を運転する。今日もプラスチックを棄て、燃料としての油を煙に変えている。呆れる。また、いったい今日一日で、いくつの命を殺して食べたことだろう。それは、動物の肉を食べないから殺したことにならない、などという詭弁ではごまかせない事実である。
 
そう。「地球に優しい製品を使ってます」などと言って、資源を浪費する他の人々を非難するような人も、いないわけではないのだが、五十歩百歩、大同小異ではなかろうか。誰も、生きて活動している限り、資源を減らし、命を奪っていることに違いはないのだ。
 
生きている価値などないし、意味などない。この思いは、必ずしも消え失せたわけではない。信仰を与えられた後にも、問題が解消したとは思っていない。私は生きている限り、いや死んだ後にも何らかの形で、地球を蝕むことなるのだ。
 
「エコロジー運動をしています」「菜食主義です」と努力している人を揶揄するつもりはない。実践している人には敬意を表する。だが、それがすべての免罪符とはならないことも認めなければならないとは考えている。
 
今日も、空気を汚し、水を汚し、その水があったら餓死しなくてすんだ子どもたちの顔を思い浮かべながら、一杯のコーヒーを淹れるために大量の水で容器を洗い、洗剤を用い、資源を無に帰している。
 
こうしたことに罪責を覚え、死を選ぶ誠実な人がいることも、理解できる。
 
私たちは罪深い。もしそれに絶えられず開き直れば、また地球を壊し、動植物ばかりでなく、他の人間の命を奪う。ここに自分が存在していれば、その場所にいたかもしれない他の人を排除し、無意味にしてしまうというところまで思いは及ぶ。
 
物質的なものだけに留まらない。人を傷つけ、困らせ、負担を増やし、疎外心を起こさせ、痛めつける。信頼や愛情を踏みにじり、人の心を破壊する。そんなふうにしか自分のことを思えない時が、確かにあった。人を愛したかった。だが自分には愛などないということを思い知らされたのは、聖書に触れてからだ。
 
ではこの世に愛などというものは存在しないのか。単なる幻想に過ぎないのか。いや、そうでもないということは、聖書の中に、そして聖書を通じて、気づかされた。思い知らされた。
 
それでもなお、私の中には相変わらずそれはないし、誰かを支配しようとする思いを自ら否定しようと思いつつも、結局それを画策している愚かさから離れられない自分を知る。キリストは仕えることを求めたのだった。仕えている人の足り無さを嘆くくらいなら、自分の惨めさのほうを、先に嘆いてそれに留まっていたらいいのに、と我ながら思う。
 
存在そのものが迷惑であるような、人間。だが神は愛しているという。赦しているという。ああ、もちろんだから何でもしてよいとか、そこにいてよいとか、開き直るような真似はすまい。いないほうがいい、という思いは、ささやかなミッションとなって、私を動かそうとする。私は、できれば道標になりたい。こちらに幸せがあるのだよ、と指し示す標識になれたら最高である。さあ、この方が救うことのできるお方です。



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