【メッセージ】これからの人生

2021年4月4日

(マタイ28:1-15)

恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。(マタイ28:10)
 
実は道徳やひとの生き方を教える。小中学校の国語は、そんな隠れた目的ももっていると言われます。しかし表向きは、言葉を教えることと、文章の読み書きでありましょう。言語生活を豊かにすることは、およそ私たちの活動のほぼすべてにわたって重要な基盤となります。
 
文章の読解の力が崩壊しかかっている、あるいはすでに崩壊していると言われています。本を読まなくなってきた時代、益々危機に陥っているとも考えられます。まずは文章の読み方のコツだけでも教えて、文章を読むことに挑めるようにしてあげたい。国語の授業をするときには、そんな思いを懐いています。
 
物語ならばまだいくらかましなのですが、硬い文章は実に厳しいのが現状です。小学生ならば説明文、中学生ならば論説文、これをどう読むように教えるか。段落の初めだけを拾い読みしろ、などの極端な方法も時に話しますが、まずはもっとやりやすいことを教えます。それは、「最初を少し見たら、次に最後を読め」ということです。遠足でも、目的地を知らずして歩かされると不安ですが、目的地を知っておけば、途中の道がどうつながっていくか、安心できます。要するに何が言いたいのか。結論を先に知るようにせよ、という読み方を教えるのです。
 
国語の問題を解くのであれば、この方法は小説に使っても構いません。けれども、さあ小説を一冊読もう、と手許に置いて、いきなり最後のほうを見てしまうという読み方をする人は、まずいません。「そうか。この人はいなくなってしまうんだ」などと知ってしまうと、最初からわくわくしながら読む気持ちにはなれなくなるでしょう。そもそも物語を愉しむ精神に反しているわけです。
 
特に推理ものであれば、「これが犯人か」など最初に知るのは、もう物語全体を否定するようなことになりかねません。昔あった「刑事コロンボ」は最初に犯人が視聴者には分かっていますが、その嘘やアリバイを突き崩すコロンボの手腕を愉しみにしているので、これは特殊で、そして画期的でもあり、人気を博しました。
 
推理ドラマは、最後の結末が出されても、もうひとつピンとこないときがあります。特に私は、本の場合それを感じます。「え、そんなことありましたっけ」と、肝腎の場面を忘れているわけです。そこで、よほど楽しければ、もう一度その話を最初から読み直してみる。すると、見つかります。「そうか、ここに謎を解く鍵がちゃんとあったじゃないか」「ここで犯人がこう言っていたじゃないか」などと、気づくのです。伏線があること、事件解決のヒントがこっそり置かれていること、結末を知ってそれを読めば、目につくし、理解できるということになります。
 
私たちは、マタイによる福音書を、とびとびですが読んできました。そしていよいよ結末部分にさしかかっています。イエスの物語としては、復活で一応終わりを告げることになります。キリスト教の中核にある、十字架と復活が描かれて、いわば結末が現れたことになるのです。
 
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 
どう思われるでしょうか。先の十字架の場面でも、ずいぶんとオカルト的な表現があって辟易した人がいたかもしれません。この科学の時代には、そんな茶番は信じられないとお思いの方もいたでしょう。だいたい死者の復活なんて、ゲームのリセットみたいなもので、現実には無理でしょう、などとも言われそうだし、アニメや映画の世界ならよくあることですし、あれは元々フィクションだという前提で見ているからそれはそれでいいのであって、そこに現実感はありません。キリスト教はなかなか良い教えだとは思うけれど、復活というのがどうしても信じられないし、それを信じろなどと言われるから、踏み込めないんだ、と口にする人は少なくありません。ではそれを証明してくれるだろうか、などと持ちかけるまでもなく、キリスト教内部でも、復活は歴史的事実ではないのではないか、などという見解さえ出てくる始末。復活という現象はありうるのかどうか、などと研究されるのだから、ちょっと手に負えなくなります。このことは、後でまた触れることにします。
 
この場面に、部外者が登場します。番兵です。これがローマ兵なのか、ユダヤ側の手下であったのか、解釈があるようです。祭司はサドカイ派ですから、復活ということを認めません。聖書から根拠がないとしています。旧約聖書続編には少し書かれているのですが、基本的にそんな信仰はよくないものと考えているのです。番兵も復活を信じない立場にあるものとします。すると、この地震で墓に蓋をしていた岩が動いたこと、天使が現れたことで、腰を抜かすほどになったというのも、噂の復活が起こったのかと焦る気持ちもあったのではないかと推測されます。もちろん、天使だと認識したかどうかは分かりませんが、不思議な者が現れたて岩が動いたというのも、恐ろしい現象には違いありません。顔面蒼白になったことが窺えます。
 
番兵たちは、祭司長たちから、嘘をつくように命じられます。それも多額の金を渡されてのことです。弟子たちがイエスの死体を盗んで行った、と証言しろというのです。偽証がどんなに重い罪であるか、知っていたはずの祭司長たちが自らそれをなす。番兵もローマの総督にも罰されないように計らわれると聞いているからには、ローマ人であるのかもしれませんが、とにかくその嘘を広める仕事をすることになります。マタイは、この噂がいまも巷にあることを知っており、それを打ち消すためにこの記事を書いたのではないかとも推測されます。なんだか言い訳めいた背景ですが、逆にこの噂があったということを知らせることになりました。
 
なんと人間は浅はかな嘘をつくものか。いえ、本日はそんなことを言いたいのではありません。これにかかずらわっても、いまは益がないものと見なします。神の使いとしての天使も、ユダヤ文化にはよく登場するものですから、それにかかずらわうこともやめておきます。天使とは何か、を俎上に載せることは、ここではしたくありません。
 
ただ、ここで天使が女性の前に現れたこと、イエスも女性たちの前に姿を現していること、それには少し着目することにします。当時女性は、裁判において証言する資格がありませんでした。女性には証言能力がないとされていたのです。だから、イエスの復活を目撃したとしても、それが女性であれば、本当かどうか信じてもらえないということになります。福音書は敢えてそれを選んだのでしょうか。いえ、やはり最初は女性だったと思われます。それを信じるかどうか、男性の読者が試されていたのかもしれません。聖書は少なくとも、この女性の証言を以て、復活記事の端緒とするようにしています。
 
天使が女性たちに告げた内容はこうでした。
 
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
 
端的に言うと、
・さあ、見よ
・男の弟子たちに伝えよ
・イエスは復活し、ガリラヤへ行き、そこで会える
ということでした。
 
女性たちは、これには恐れますが、喜びもします。マルコの福音書では、恐ろしかった、ということだけで終わっていましたが、これをマタイが修正しているものと思われます。マルコのように黙っていたなどということはなく、弟子たちのところに走って戻り、伝えたのだろうと考えられます。
 
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
 
「おはよう」というのは、明け方だからという意味での訳なのでしょう。これは確かに挨拶の言葉です。しかし、わざわざそんな挨拶の言葉を記すというのには訳があると考えたくなります。言葉そのものの意味合いからすると、これは「喜べ」ということなのです。
 
この語は、皮肉や嘲笑の場面でも使われていました。総督の兵士たちが部隊全員でイエスを取り囲み、愚弄します。
 
27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
 
この「万歳」が同じ語で「喜べ」と言っていたのです。同じ語が、全然違う響きで掲げられています。同じマタイが置いている語ですから、この対比を考えていないはずがありません。「万歳」と「おはよう」では、関連が分かりはしないでしょう。人間が罪の中で使う「喜べ」と、イエスが復活の姿を初めて見せるときの「喜べ」とが、どんなに違うものなのか、私たちは思い知らなければなりません。  
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 
天使と同様にイエスも「恐れるな」と前置きしてから、女性たちに命じたことをまとめると、こうなります。
・男たちにガリラヤに行くように言え
・そこで会える
この後、弟子たちが本当にイエスに会えたのかどうか、は次週にお話ししますが、いまはそこを問題にはしないことにします。
 
この弟子たちは、知らせを受けたことでしょう。イエスが復活した。それから弟子たちはどうしたでしょう。福音書により描かれ方は違いますが、概ねガリラヤに戻ったことになっています。これをどう考えるかは、私たちそれぞれだと思います。絶望して逃げて、もう宗教活動をやめたのだ、と説明する人がいます。それで漁師に戻ったのだ、というように。しかし、またエルサレムに戻ってから、集まっていたところへ聖霊を受ける事件が起こるので、この辺りは単純に説明してしまうことが難しくなりそうです。あるいは、絶望していた中で、復活のイエスと会ったことがあったために、またエルサレムでやり直そうか、と出てきていたのかもしれません。
 
ただ、ルカはガリラヤに弟子たちが戻った様子を描いていません。ルカはこの後、使徒言行録で、福音を使徒がエルサレムから伝え始めて、さらに異邦人へ伝えていくパウロの働きを描いていますから、その福音書もすでに、はたすらエルサレムを見て前進するイエスの姿を描いてきていました。それでだと思うのですが、ガリラヤに再び戻るという過程を、そこに記すことはしないのでした。しかし他の福音書がガリラヤに戻ることに触れていますから、ルカもそのことを知らなかったということは考えにくいように思います。ルカはそれを知っていても、なお編集方針から、記事に採用しなかった、というのではないかと私は推測します。
 
ガリラヤで、イエスは弟子たちと会うことになる。それがこの復活の最初のシーンで約束されています。それはマタイもですが、マルコも同じです。
 
16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 
ただ、ルカも、ガリラヤに行くことは書いていませんが、ガリラヤという要素に触れることはしています。
 
24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
 
ルカは、ガリラヤでのイエスの話を思い出しなさい、というふうには告げているのです。これで私たちは、最初に触れた、推理ドラマの結末を知った後で、最初から読み直すという作業と重ねてこのことを考える機会が与えられました。ルカは、福音書を最初から読み直すことを促しているかのように見えます。すると、この復活にちゃんとつながっていくのだ、それを確認せよ、と。
 
これは、最初の福音書とマルコも仕組んでいたようにも思われます。そう読むこともできようかと思います。特にマルコは、復活の場面を描いていません。まるで、復活したのかどうかは私は知りませんよ、とでも言わんばかりに、震え上がった女たちで終わり、しかも男の弟子たちにも報告しなかった、というような書きぶりです。だからこのことは、福音書の最初に戻って、読み直すことを勧めている、と解釈する人がいるわけです。イエスを体験し、イエスと共にいた旅をやり直せ、という指示を受けることになるのだ、と。
 
けれども、それでよいのでしょうか。確かに、推理ものを読み直すと、仕掛けられた謎が手に取るように分かるでしょう。ああ、ここにネタが敷かれている。よく分かった。ああ、分かってスッキリした。謎が解けて、納得できたよ。そんなふうに清々しい気持ちになれるでしょう。そのように福音書も、復活の出来事を知ってから、再び旅の最初から辿り直せば、あのときのイエスの言葉はこのことを見据えていたんだなと理解できます。復活するという結論のために、このような言い方をしていたのだ、なるほどね。
 
それでよいのでしょうか。こうしてイエスの言動の謎を知り、納得することが目的なのでしょうか。イエス・キリストのことが分かったぞ、とスッキリすることが、求められていたのでしょうか。いえ、福音書はただの物語ではないし、普通の読書とは違うものをもたらすものだ、と私は受け止めています。事実私はそのようにして、福音書を読んできました。聖書に向き合ってきました。ですから、いま述べたような効果を狙って書かれたものではないと思うし、またそのように読むことが私たちにとり適切であるようには思えないのです。
 
ガリラヤへ行け。ガリラヤでイエスと会える。だから?
 
だからまたイエスといたガリラヤからの事を追想し、追体験するとよいのでしょうか。ルカはとりあえずそれに近い見方を呈しました。思い出せ、と。けれどもルカは、その後の弟子たちの活動を描きました。このことを忘れてはいけません。弟子たちは、ガリラヤからの人生をやり直したわけではありませんでした。新たな人生を生きました。イエスの言葉を用いて、イエスのように活動しました。イエスの言葉を広め、イエスの業を自ら行っていくのでした。奇蹟をどんどん行いました。
 
いや、そんな奇蹟を弟子たちが起こせたはずがない、と意地悪な見方をする人もいます。荒唐無稽な奇蹟は、イエスですら怪しいのに、弟子たちになどできたはずがないではないか、と。そのため、イエスの奇蹟についてとやかく議論する神学者は多数いるのに、弟子たちの起こした奇蹟については、殆どまともに議論すらされません。
 
でも、私はこれを取り上げるべきだと考えます。つまり、弟子たちは不思議な業を行うことがあったに違いない、と。それは、文字通りの奇蹟であったかどうかについて議論しようとするものではありません。イエスの奇蹟もそうですが、弟子たちの奇蹟も、何か新しいこと、普通はできないとしか思えないようなことが実際になされたのだ、という構造を考えるのです。
 
私は、イエスに出会い、人生が変わりました。自分こそ正義、自分こそ真理を打ち出すのだという野望も、そもそもが自分を信じていたこと、世の中が間違っていると吠えていたこと、そんなところで独り善がりな世界にいた私でしたが、イエスに出会い、打ちのめされました。いま善人になった、などとは口が裂けても申しません。しかし、ひとの心など全く理解できず、ひとの悲しみや辛さになど、全く共感することすらできなかったかつての私が、ひとの思いに涙するように変わりました。これは、私にとって、奇蹟そのものなのです。こんな自分がいるなどとは想像もできませんでした。繰り返しますが、私がいま優しいとかひとの心が分かるとか申しているわけではありません。とにかく私は変えられたのです。それは、以前の私からすれば、ありえないようなことなのです。だから、奇蹟はあるのだ、と信じて止みません。
 
もしも、ガリラヤに戻り、旅をやり直すとなると、イエスの背中をもう一度見ながら歩いていき、なんだかよく理解しないままに旅していたのと同じ行程を、今度は自分はこの先どうなるか知っているんだぞ、とにやにやしながら辿る可能性がないか、と訝しく思います。それはただの謎解きを行っているだけであり、謎解きとはつまり、その物語を上から眺めて娯楽の対象として愉しんでいるだけのように思うのです。
 
ガリラヤに戻れ。イエスに会える。で、それから?
 
それから、あなたの人生を新たにせよ、イエスが共にいるんだよ、かつての自分はイエスの死と共にもう死んでしまったと信じるならば、新たに生きるんだよ、そんな声が聞こえてくるのです。もっと言いましょう。この福音書は、イエスの復活で終わります。この福音書の続きを、あなたが書け、と言われているに違いないと思うのです。あなたの人生が、福音書の続編となる。使徒言行録は、あなたの人生を描くだろう。そんな大それたことができるはずがない、とお思いの方も、大丈夫。イエスが共にいます。イエスはあなたをひとりにしてはいません。ガリラヤで共にいたイエスは、これからのあなたの人生にも伴っていてくださいます。だから安心して、あなたが新たな物語を生きなさい。かつてのあなたからは考えられないような、奇蹟を行う人生が、もう始まっているのです。そのような声が聞こえてくるのです。
 
それが、本当の意味であなたがイエスに「会える」ということです。ここで「お目にかかる」「会う」と訳し分けられていますが、原語は同じです。区別する必要はありません。復活の場面でマタイは、イエスに「会える」と繰り返しメッセージを送っていたのです。あなたはイエスに会える。ガリラヤという、弟子たちの出発点に戻れば会える。エルサレムという、十字架と復活の舞台から、あなたの本来の場所に一度ちゃんと立てばいい。イエスがあなたの本来の居場所にいるから、そこからまた、あなたの人生が、イエスと共にいまここに始まるのです。あなたがあなたの福音書の続編を記すのです。あなたはイエスのように、これからも人々に理解されないかもしれません。迫害されるかもしれません。けれども、イエスは共にいます。そうして、あなたの物語が、確かに始まるのです。
 
イエスの旅は、そのスタートで、こんなふうな声と共に始まりました。
 
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
 
その後、メシアとしての自覚と共に決定的な道に踏み込むときに、イエスはモーセやエリヤと会い、旧約聖書の申し送りを受けました。
 
17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
 
私たちもまた、この「愛する子」という声を聞くことができるのではないかと思います。それが許されるのではないかと思います。イエスに会うとよいのです。大丈夫。イエスは復活しています。だから必ず会えるはずです。死んだ人とは会えませんが、生きているのだから必ず会えます。そう、あなたの愛しい、亡くなった人も、あなたと会えるならば、死んだままにはなっていないではないですか。そこに復活を見ていけないはずがないと思うのです。イエスは復活したのかしなかったのかなどと、現象的なものとして調べようなどという暇があったら、復活のイエスと出会ったほうがいい。あなたの人生が、これまではありえなかったような奇蹟を伴って、喜びに包まれて歩めるように、イエスと出会ったその場所から、スタートするてよいのです。そう、イエスは女たちの前に現れて、こんなふうに声をかけたではありませんか。「おはよう」ではなく「喜びあれ」(28:9、岩波訳)と。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります