もはや逆説ではない

2021年4月3日

「逆説」あるいは「パラドックス」にはタイプがある。
 
論理的に撞着してしまうものが有名だ。「私は嘘をついている」という言明は真か偽か。真ならばその言明自体が嘘だということになり、偽ならば嘘をついていることは真実となってしまい、いずれにしても辻褄が合わなくなる。「ここに張り紙をするな」という張り紙があった場合にどう考えるか、というのも面白い話題である。「二項対立で考えるのは間違っている」という発言自体が、二項対立に基づいているのではないか、などと追究するのもよいだろう。近現代ではメタ言語という考え方でこの問題を乗り越えようとしたものの、同一系内での解決は無理だというゲーデルの見解は押さえておかなければならないだろう。その言明自体はどうなのだとなると、またややこしくなりそうだが。
 
論理的に成立するように思われるが、どうにも納得できないものもある。アキレスが亀に追いつけない、とするものがよく知られている。前方の亀が先ほどいた場所にアキレスがやってきたとき、亀はいくらか前方に移動している。その場所にアキレスが到達しても、亀はなおいくらかは前方にいる。こうしてアキレスは亀に永遠に追いつけないというのである。これは事実に反するように思われるが、それを論拠と共に示すのは容易ではない。一応人類は、解答を得ているようではある。
 
擬似パラドックスと呼ばれるものもあり、1学級の中に誕生日が同じ人がいる確率を考えたとき、それが通例思い描くよりずいぶん高い確率であるというふうに、ひとの思いこみに由来するものがそれである。思いこみや錯覚というものは、ほかに偏見という形で持ちこまれることもあり、ベーコンの「イドラ」説は、私は現代でも大いに取り上げるべきものだと考えている。ル・ボンの「群衆心理」に端を発する人間の集団心理の研究は、その後ファシズムにも適用できただろうし、いまやレイシズムの嵐がアメリカを中心に渦巻いている。
 
体の細胞は一定の時間を経ると入れ替わっていく。かつての自分といまの自分とは同じ自分だと言えるだろうか。あるいはこのことは、自我の存在においても考えることが可能である。過去の自分がいまの自分と同一であると言えるのか、それとも過去の自分はいまの自分とは別の存在でしかないのか。後者のように捉えるならば、自分とは一体何なのか、説明がつかなくなってしまいそうである。これも一種のパラドックスのようなものだと捉えてよいように思われる。自分とは何かという定義にもよるものであり、定義の相違による言い逃れのような形でしか解決ができないのではないかという気もする。
 
様々な形で、論理が破綻するもの、また数学的あるいは哲学的な議論を誘発するものなど、学問的にも大きな貢献をなしてきたこのような納得しづらい問題は、広義のパラドックスとして大いに知恵を求める人々の関心を集めてきた。
 
が、しばしば世で日常的に「逆説」として表現されるものは、このようなものではなく、「通例常識のように考えられていることが、実はそうではない場合」の言明であるように思われる。「急がば回れ」は、もし急ぐようであれば、近道を求めず、回り道をしたほうが結局は早く目的が達成されるものだ、という、思いつきに反する知恵を表している。筆算をしたほうが、暗算より速く性格に計算ができるというのも、そういうことになろうか。
 
評論なるものは、このような逆説を以て職となすものであるという考えがある。「トイレをきれいに使いましょう」という文章を書いても金にはならないが、「トイレをきれいに使うと清掃の仕事をしている人が失業するので、普通に使いましょう」という文章ならば金になる(とまではこの場合言えないだろうが)、というのである。だから読者の意表をつく事柄、人々が普通考えていないようなこと、気づいていないようなことを指摘するというのは、文章を売る側としては当然の発想となるだろう。
 
案外、昨今は、お決まり通りの結末となる物語が売れるようなところもあるが、文学たるものは、誰もが期待するところに落としていくことは望ましくないものとされていることだろう。これもまた、思うところに反するものをもたらすという点では、パラドックスに相当するものなのかもしれない。
 
しかし、ここで考えるべきポイントがある。先ほどの「急がば回れ」は、諺ともなっており、もう十分常識になっているのではないか、ということである。最初は、反常識として関心をもたれたかもしれないが、もう世の中の当然の知恵として、あたりまえの論理になってしまったとすれば、そこには少しもパラドックス性を感じることかがないのではないか。
 
他の論理的な問題にしても、それが解決されその解決が一般的に知られるようになると、全くパラドックスとしては意識されなくなってしまう。誕生日の一致にしても、確率を少し学べば、当たり前のことになってしまうわけである。こうなると、それをパラドックスだ、逆説だと主張することは、「何をいまさら?」と蔑まれる行為になってしまうであろう。最初は新鮮な逆説であったかもしれないが、いつしか凡庸で陳腐なものになってしまうのである。
 
イエス・キリストの譬えや逸話の中には、この種の逆説が多々ある。多くの人の人生観に反するようなことを意識的に持ち出して、話を聞かせることがある。時に、当時の宗教的常識である、律法学者はファリサイ派の教えはしばしばイエスにより覆される。同じ神の教えと称しながら、正反対の結論を主張することになるのだから、実に衝撃的な効果をもたらしたであろうも思われるし、実にそのためにこそ、イエスは十字架刑へと追い立てられたというふうに見ることもできるだろう。
 
私もまた、まだ信仰を与えられる以前に聖書を開いたとき、「えっ」と思わされるような教えに驚いたものだった。
 
だが、その後信仰生活を送っていく中では、それは意外なものではなくなっていく。むしろ当然そうだとしか言えないような気持ちになっている。それは、私が別の側に移り、立ってしまったからにほかならない。鏡の中の世界では前後が入れ替わることから、風景が変わってしまうことになる。見え方が逆になるとするならば、そちらが当たり前となってしまうわけである。
 
信じた同胞に対して、これはもはや「逆説」とは呼べない。人が、どちらの世界に立っているかによってのみ、それぞれの「常識」が異なるだけのことなのであって、聖書の中に立たされてそこに生きている者にとっては、「逆説」だという意識をもつことは、もはやない。それは当然のことであり、いつまでも「逆説」だとぶつけることは、時に陳腐になってしまう。中学一年生に向けて、負の数に負の数を乗じたら正の数になる、というふうに教えるならば最初は逆説めいているが、これを高校生や大学生に繰り返し説明することを想像してみるとよい。
 
語るべきことは、新しい常識をどのように生きるかという心構えと実践とであろう。だから私たちはこの新たな世界をどう歩んでいくのか。しかし古い世界も現実の空間の中にあるとするならば、そことどう渡り合っていくのか。否、キリスト者に期待されているのは、いまとなっては「あちら」となった、かつての自分にとっては「こちら」であったあの古い世界にいる魂に向けて、どう働きかけるか、その人々を新しい命の世界に生きるように連れてくることはできないか、イエス・キリストと出会う体験をもつようにできないか、そうしたことであるように感じる。この新しい世界に生きることが、命である。そこに「永遠の」という形容を付けてもよいだろう。
 
閉塞的な思いに苛まれる人。行き詰まった人。追い詰められた感覚をもつ人。出口はある。光が射す。見上げれば空があり、前を見れば進むべき道が見つかる。聖書は、そんな命をきっと与えてくれる。少なくとも私はそうだった。そして、多くの人が、これに同意してくれる。歴史上の無数の人がそうだったし、いまも地球上でかなりの数の人がそうなのだ。そして毎日何万人という人が、新しい世界での生き方を始めている。もはや、神の言葉による出来事は、ちっとも逆説などではないのである。



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