人を数にしている私たち

2021年3月30日

連日、新型コロナウイルスの感染者の数が、ニュースのほぼトップに挙がってくる。新規感染者、死亡者が数字となる。それにより、非常事態宣言が発令されたり、解除されたりする。政策の上で、それはひとつの指標となっている。
 
思い出す。「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」
 
誰が最初に言ったのか、情報は錯綜している。しかし、次の言葉ははっきりしている。
 
「一人殺せば悪人だが、100万人殺せば英雄だ」
 
チャールズ・チャップリンの「殺人狂時代」のセリフである。この辺りも、様々な言葉を受けてのことだから、誰が最初などということを議論しても始まらない。手塚治虫も『ブラック・ジャック』の中で確かこのようなことを、疑問形だが吐くシーンがあったはずだ。
 
感染者数の把握は必要かもしれないが、それがいつしか、まとまった人数の情報としてしか意識されなくなっているのではないか。特に亡くなった方は、それぞれに無念であったろうし、周囲の方々の哀しみもまた想像を絶するものがあるだろうかと思う。
 
報道でも、注目されるのは新規感染者数のほうが中心にあるように見え、死亡者数はそう話題に上らない。特にコメンテーターの類が唾を飛ばし合うように弁舌する番組では、それが顕著であるように思われる。
 
その数字に出なくても、余命幾ばくという近親者を訪ねることが憚られるケースも多々あり、当事者は苦悩に喘いでいるのだが、オピニオンリーダーは、そんなことを気にしてはいないようにしか見えない。
 
ユダヤ人への大虐殺を実行した人々にとり、人間は数字でしかなかった。そして、自分はただ職務に忠実だっただけだ、と証言したアイヒマン裁判において、凡庸な精神の為すことを指摘したハンナ・アーレントは、そのようなことは極悪人の為すことだろうも、と怒り狂った群衆により迫害された。しかし今現に私たちは、数字で人間を見ている。アーレントの指摘を、私たちはいまも同様に、軽視しているように思えてならない。
 
私たちが、自分こそ正義と思いがちなことはもう当然すぎる事実だが、とんでもない見落としと、思い違いをしているのではないか、と自分に対して問い直す姿勢を欠くところにこそ、悪は差し入ってくるものだ。私たちは、そのからくりに、目を覚ましていなければならない。私たちは、しばしば眠りこけているのだ。



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