【メッセージ】救いの計画

2021年3月28日

(マタイ27:32-56)

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27:42-43)
 
キリスト教会にはしばしば、十字架が掲げられています。十字架を知らずにクリスチャンとは名のれないほど、信仰の核心にあるものだからでしょう。しかしそれはアクセサリーにもされています。でもそれは忌まわしい死刑台です。しかも人類史上その酷さではトップクラスの死刑台ですが、それが救いの要だというのです。
 
福音書には、そのイエスの死の場面が、それぞれに描かれています。それを比較対照して歴史的出来事を探る読み方もありますが、執筆者あるいはグループそれぞれの信仰の証言でもありますから、今日はマタイによる福音書に徹して読んでいきたいと思います。その際、ぜひ何度も読んで戴きたいと願います。書かれてあることがよく分からないとか、そんなことがあるだろうかとか、いろいろ疑問もあるかと思いますが、それでも、何度も読んで戴きたいと思います。
 
ただこの時間、共に読んでいくひとつの道筋を辿りましょう。それは、主語に注目することです。それぞれの描写、いったい「誰が」したのか、押さえながら読んでいくのです。
 
まず、「兵士たち」です。偶々いたシモンに十字架の木を無理に担がせたこと。シモンはその後教会に連なり名が知られていたと推測されます。ゴルゴタでは麻酔作用があると思しきぶどう酒をイエスに飲ませようとしますが、そのようにはなりませんでした。そしてイエスを規定通りに十字架に磔にします。簡単に書かれてありますが、想像を絶するものがあります。でも、どうか思い切り想像してください。兵士たちは、イエスの服を、くじ引きで分け合います。旧約の根拠を逐一持ち出して、旧約聖書の預言の成就をイエスに見ることを訴えるマタイにしては珍しく、詩編22:19の引用であることを指摘しません。兵士たちは、そして、そこに座り「見張り」をしていました。その現場にずっと居続けることを伝えます。兵士たちがこの場面にずっといることを、少し気にしておいてください。
 
これを映画制作するとしましょう。カメラは兵士が主体となって動くこれらの光景を追いかけていたことになります。次はカメラが切り替わり、イエスの頭の上に置かれた罪状書きを示し、イエスがどうして磔にされたかを説明するでしょう。それから次に、「二人の強盗」を映し出します。二人の強盗がイエスと共に二人がこの死刑に処せられたことは、どの福音書も証言しています。イエスがその中央になります。この場面、音は入りません。言葉もありません。
 
カメラは次に、「そこを通りかかった人々」を映します。イエスを罵っています。最近の子どもは、「ののしる」という言葉を知りません。悪い言葉を教えないせいでしょうか。けれども人間が自分の罪を知るのは、自分がその悪い言葉で指すことをしているためです。どうかお子様に、「ののしる」の意味を教えてあげてください。
 
27:40 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
 
続いて、「祭司長たち」「律法学者たち」「長老たち」が画面に見えます。イエスを侮辱しています。
 
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
 
これを聞いて、十字架につけられていて二人の強盗たちもイエスをののしったことが記されています。ルカによる福音書には、このうちの一人が回心してイエスの側につくエピソードが紹介されていますが、マタイは二人してイエスをののしったとしており、イエスは十字架の上で、孤独だったものとしています。
 
悪口が音声として流れました。カメラは音を消し、今度は静かに情景を映し出します。「暗転」というと、本来舞台を暗くして場面転換を図ることを言いますが、転用して、物事が悪く変わることを指して使うこともある言葉です。ここでは、そのどちらをも兼ねたような転換が起こります。
 
しばらく時間が経ちました。昼の最中であると記録されています。全地が暗くなり、数時間続いたと述べられています。日蝕のことではないか、と研究した人もいます。日蝕は古代にわたり計算が可能なので、それを基にしてイエスの十字架の日時を探ろうとしたのだろうと思います。しかし「暗くなる」とまで言えるのかどうか。いや、古代の人はそのメカニズムを確定できず、世界の終わりのように思えたのかもしれません。古代ギリシアの哲学者タレスは、紀元前585年の皆既日蝕を計算していたと伝えられており、その脅威から戦争を和平へ導き、哲学なんぞ役に立たないという悪口を退けたのではないかと考えられています。
 
何も日蝕に決めつける必要はないでしょう。象徴的な表現と受け止めても悪いことはないと思われます。この世界の暗黒状態の中で、イエスがようやく動きを示します。数時間十字架に架けられているという体験を私たちはすることはできませんが、足を載せる台があったとしても、自分の体重が傷口を痛めつけ、また内蔵がぼろぼろになっていたと推測されますから、声などまともに出る状態ではなかったと思われるのですが、それでも、ここには「大声で叫ばれた」と書かれています。有名な「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」の言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味だとマタイは解説しています。詩編22編の冒頭だということはわざわざ告げる必要はなかったのでしょう。イエスの絶望の言葉と取るのか、その先にある何かを感じ取るのか、理解は私たちに任されているようです。私たちはこのイエスの叫びを聞くことが必要ですし、それを聞いてからどうするか、問われているような気がしてなりません。
 
この言葉に、周りにいた人々も反応しました。「居合わせた人々」のうちのある者は「この人はエリヤを呼んでいる」と気づきました。エリヤは旧約聖書の預言者です。メシアに先立ち現れるという信仰がありました。新約聖書は洗礼者ヨハネにこの役割を当てています。ですから、この人々の気づきは、強ち的外れとしてしまわなくてよいようにも考えられます。
 
「そのうちの一人」にカメラが当たります。十字架のイエスの許に走り寄り、「酸いぶどう酒」をイエスの口元にもたらそうとします。最初に兵士たちが飲ませようとしたのは「苦いものを混ぜたぶどう酒」でした。これは鎮痛効果が期待されるものとして、十字架刑に処せられた者に与えることになっていたのかもしれません。しかしこの酸いほうは、そこまでのものではなく、いわゆるビネガーのイメージで捉えてよいものだと思われます。殺菌効果のほかは、清涼作用くらいしか思い当たりませんが、渇ききった中ではもうこれ以上喋ることができないであろうイエスに、もう少し何か言いたいことを言わせてみようという魂胆だったのかもしれません。
 
この一人のスタンドプレイに対して「ほかの人々」は、それを制するような言い方をして、本当にエリヤが来るのかどうか様子を見ようと言います。この辺り、口々にいろいろな意見が出ていたのではないかと推測されます。
 
カメラは再びイエスを映します。いよいよ、最期の時です。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」という、ショッキングな瞬間が刻まれます。この大声については、言葉にならないものであったのかもしれず、意味ある言葉としてはもう記録されません。死亡宣告はいまなら医師がいくつかの点をチェックして宣言しますが、この時には誰が見てもそれと分かるような具合だったと思われます。
 
問題はここからです。エルサレム「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たというのは、どう考えても場所を超越しています。カメラは、このゴルゴタにいる人々の与り知らぬ景色を映し出します。この事件の背後で何が起こっていたか、それを私たちに教えます。また、「地震が起こり、岩が裂け」たのは、その場にいる人も感じたかもしれませんが、岩はどこの岩か不明です。しかし、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」というのは、ちょっとオカルト的で現代人はついて行けないような気もします。そこに何かしら意味を見出す人もいますが、マタイだけが記したこの件、何も歴史的な出来事としてなんとか辻褄を合わせようとするよう真似はしたくありませんし、かといって一蹴したくもありません。今はただ、この場面を映画のようにイメージしようとしています。すると、この生き返った「聖なる者たち」がそれからどうしたか、描かなければなりません。これはイエスを信じていた人たちであり、「眠っていた」という言い方をしていますが、これはもちろん死の婉曲表現です。
 
27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
 
ますますオカルトだと逃げ出したくなる人がいるかもしれません。ただ、ここに「イエスの復活の後」と書かれています。先ほど、エルサレム神殿にカメラが向かい、空間を超えて情景を映し出したと申しましたが、今度は時間を超えて、カメラが不思議な情景を映したことになります。イエスの絶命を映したカメラは、時間空間を超えて、おそらくは一旦画面を黒か白かの一色で潰し、次に現れたのはこの場この時ではないという様子を私たちに見せたことになります。
 
それからカメラは再び、ゴルゴタの十字架の場面に戻ります。
 
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 
「地震やいろいろの出来事」を見たそうですが、もしもこの「いろいろの出来事」を、信徒たちが墓から出て現れたことを含むものだとすれば、十字架の刑死の場面でこれを言ったのではないことになりますが、おそらくそうではなく、素直に十字架刑のその時であると考えるべきでしょう。けれども、なんだか思わせぶりな、不思議な書き方であるような気がしてなりません。この点を、少しだけ気にしておいてください。後で、この不思議さに再び触れる機会がありますから。
 
それから、「神の子だった」という言葉が淡々と載せられていますが、これを、イエスを神の子だと信じて告白した、という意味に受け取る人と、そうではないだろうと考える人とがいます。前者は、異邦人も信仰をもったとする、楽天的な人でしょうが、後者は、ここに何かしら皮肉めいたものを読み取ったのかもしれません。あるいは、「神の子だったのか?」と問いかけた意味に理解することも不可能ではないとも言いますが、このあたりも、この場面を見ている私たちがそれぞれに解釈してよいのではないかと思います。
 
カメラは十字架から引かれます。すると、そこから遠い場所で、この十字架を見守っている女性たちが現れます。イエスの関係者です。「大勢の婦人たち」です。男性の弟子たちは、逃げ出していました。あるいは、イエスの一味として捕縛される危険性もあります。女性たちは、イエスの側近で世話をしていた人たちだと書かれていますが、政治的な背景を問われることがおそらくないために、比較的安全であったのかもしれません。イエスたちの身の回りにいて、その旅や生活を支えていた女性たちだったということですが、やはりこれは今にして思えば立派な「弟子」に違いありません。幾人かの名前は、その後の教団で名の通った女性たちを示しているのでしょう。よくぞこの実に酷い死刑の有様を、目撃できたものだと驚きます。
 
長々と追いかけてきました。少し急ぎましょう。皆さまは、ひとの死に立ち会ったことがおありでしょうか。私は小学生のとき、祖父の死のそばにいました。病院ではなかったのですが、たまたま春休みでその実家を訪ねていたので、居合わせたのです。その後テレビや映画で、人が死ぬ場面が描かれているのを見ても、どこか嘘っぽいものを感じ続けました。えらく美しく描かれているものだ、と。物語の重要人物の死では、大切な人の腕の中で、言い残すことをすべて言ってしまい、がくっと首を垂れたりします。けれども、実際に死に目に会えることは、いまは珍しいのではないかと思われます。病院で死ぬ人が8割以上と言われる中、その場に居合わせることは、簡単ではないように思います。
 
イエスの死は、磔でした。これは、見せしめのための刑です。人々に、悪いことをするとこういう目に遭うぞと脅しをかけるのです。従って必然的に、目撃者が多数いることになります。マタイの書いた時代に、その目撃者が実際どのくらい生存していたかは分かりませんが、これだけ克明に書き記せば、明らかな嘘を描いたとき、指摘される危険性が多くなることでしょう。このマタイは、ご丁寧に、墓を見張っていた者たちに、弟子たちが遺体を盗んだのだと偽証させる場面まで描いています。すでに中傷する人々がいたからこそ、それを拭うためにこんな記事を書いたとしか考えられません。
 
ここから、一緒に読み味わう時間をもちます。キリスト教の真髄でもある十字架の場面ですから、注目すべき点はいくらでもありますが、今日はこの後ひとつの観点からのみ考えてみます。それは、かの罵りの言葉です。その要点だけ拾い集めて並べてみます。
 
1 自分を救ってみろ
  十字架から降りて来い
2 他人は救った
3 自分は救えない
  今すぐ十字架から降りるがいい
4 今すぐ救ってもらえ
 
まず、神の子なら自分を救え、というのですが、荒野での悪魔の誘惑の言葉が思い出されます。
 
この罵りの言葉を辿ってみる。神の子なら、自分を救え。悪魔の誘惑の言葉が思い浮かびます。
 
4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 
4:6 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
 
自分を救うとはどういうことなのでしょう。阪神淡路大震災の記録の中に、中川久夫さんという精神医の記録があります。神戸大学で医療従事者の陣頭指揮を執りました。医師の中には、自ら被災者である人もいたと言い、思いやっています。このようなことは、東日本大震災のときにも同様でした。公務として休みなく被災者のために働くその従事者たちもまた、実は被災者なのでした。でも、彼らは、自分を救うわけにはゆかなかったのでした。
 
子どもを衰弱死に追いやった母親のニュースが暫く世間を賑わせました。一種の洗脳のように金を狙う者の言いなりになって、子どもを死なせたと報道されています。この母親も、きっと何かを救おうとしていたには違いないと私は思っています。多くの人は、子どもを救うべきだと考えるでしょう。しかし何かの原因でその思考枠が外されてしまうと、子どもを何か別のものの手段にしてしまうことがあるのです。本来救うべきだった子どものことが見えなくなってしまいます。他人事ではありません。私たちにも起こり得ることだと思います。私は、最初に足を踏み入れた教会が、そうした洗脳的な手法を使っていたことを知っています。お陰で私は、様々な異端や踏み外しの思考過程、そのやり口というものにずいぶん詳しくなりました。最初から福音的な善良な教会に導かれた人は幸せだと思いますが、しかしそれしかしらないと、何かしら教会の中で歯車が狂ったとき、大切なものが見えなくなってしまう虞があると私は考えています。具体的には申しませんが、そうした例を、これまで幾度となく見て、味わってきました。まさか教会がおかしなことを言ったりしたりするはずがない、牧師が間違うはずがない、という思いこみから、自由になれないのです。
 
私たちは、分からなくなるのです。目的と手段を強く結びつけるようになるとき、目的がすり替わってしまうこともあるのに、気づきません。たとえば教会で私たちはそもそも何を求め、何を目的としているのでしょうか。定義は難しいのですが、それはひとえに「救い」と呼ぶようなものではないでしょうか。
 
「救われる」ことを求める。その「救われる」とはどういうことなのでしょう。難しい神学を研究する人の中には、それは「神の義」であるとか「新生」であるとか、いろいろな説明をしてくださいます。でも最初、救われたとき、私たちはそんなことは考えていないだろうと思います。救われたいと思って教会を求めたあのときの私が、イエスに出会って救われたことを確信したとこのうれしさを、忘れることはありません。でも、信仰生活を続けていく中で、救われているというのはどういうことなのか、説明をしようと試みると、どうにも困ってしまうことがあります。
 
その以前には、私もまた神を罵っていたのです。イエスに罵声を浴びせていたのは、紛れもなくこの私でした。だから、今日開かれた場面で怒りつつ、あるいは皮肉を言いつつ、イエスに悪口の限りを尽くす人々の気持ちは、痛いほどよく分かります。「十字架から降りてみろ」というのは明らかに挑発です。しかしイエスはそれに従いません。イエスは十字架から降りることができないのです。ここに深く味わうべきものがあります。どうぞ皆さま一人ひとりが、後からゆっくり噛みしめて戴きたいと願います。
 
罵りの言葉の中には、「救う」という動詞が繰り返し含まれていました。今度はそこだけ拾ってみます。v  
1 自分を救ってみろ
2 他人は救った
3 自分は救えない
4 今すぐ救ってもらえ
 
これはなかなかよい順番に並んでいるのではないか、と私は気づきました。「救い」についての一種のプログラムのようなものを感じたのです。
 
1 自分を救ってみろ
イエスはこれをしようとすればできたのでしょう。その能力はありました。しかし、ひとの救いのために、それは不可能であるという方を選んだのでした。神は自由を用いて、不能の方を選び取ったのでした。ところで人間はどうでしょうか。人間には、自分を救うことなど、できるはずがありません。それは能力的に最初から不可能なことでした。
 
2 他人は救った
イエスは、ここまで地上で、これをしてきました。あなたの罪は赦された、と宣言し、癒しを施し、社会復帰という救いを幾度となく与えてきました。しかしこれからも、他人を救うことを続けていくことになります。ところで人間はどうでしょうか。他人を救うことなど、これもまた原理的に全くできません。無理です。但し、他人の救いのために執り成しの祈りをすることはできます。イエスを信じた者は、他人を救うことを求めるようになります。神に委ねるしかないのですが、他人を救うことの大切さを知ります。その意味では、たんに不可能というのではなく、可能性への萌芽を含んでいると捉えたほうがよいような気がします。
 
3 自分は救えない
イエスは、地上において完全な人として活動をしていた間は、これができないのでした。ところで人間はどうでしょうか。他人の救いのために祈り働いたとしても、それでもやはり、自分を救うことはどうしてもできないことを改めて思い知らされることになります。
 
4 今すぐ救ってもらえ
イエスは、十字架刑により死にますが、父なる神により、復活させられることになります。イエスが自ら復活する、というような書き方を聖書はしていません。イエスが主語なら、いつも「復活させられる」という表現になっています。もちろん、この行為の主語は、示されないが故にはっきりしているのであって、それは父なる神ということになります。ところで人間はどうでしょうか。今すぐ救ってもらえと言われることが強烈に響きます。まさに神に救われるという出来事をこれは意味しています。神に救われよ、神が救うのだ、と。
 
罵り声はここまででした。けれどもこの後、イエスが叫んだ後、エリヤを呼んでいるなどと人々が思い込んだのでした。そのとき最後にこんな声が聞こえました。「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と。これから救う一幕が見られるのかどうか。今から救うという待ち方をするのです。今後救うという、未来のあり方をにおわせるような表現だと思うのです。
 
自分を救え・他人を救った・自分を救えない・おまえは救われよ、このように段階を踏んで、救いの道を歩んできました。最後に未来に於いて「救われよ」と、多分に嘲笑の意味で投げかけられた言葉がありました。これを嘲笑ではなく、神の計画の中に収めてみましょう。そう、神の言葉は現実になるものだという捉え方をするならば、「救われよ」と言われたということは、「おまえは救われる」と約束をしていることになるものと期待します。そう信じます。
 
これは人間の側からの視点でした。もしも神からこれを見ると、どのようになるでしょうか。イエスは自分を救うことを、敢えてしませんでした。ひとを救うことをここまでしてきた故だとすることもできようかと思います。そして完全な人として、十字架刑の最悪の苦しみを味わいました。その後、父なる神が復活させるということを経て、信じる者をひとりも漏らさず救うという、信仰のコースが現れてくるように思われます。
 
こうして、「救い」についての観光案内をしてきたようなものでしたが、最後に、意外なキャラクターに注目してみようと思います。それは、ローマの兵士です。今日の場面の、最初のほうと最後のほうとを照らし合わせてみます。
 
27:36 そこに座って見張りをしていた。
 
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
 
マタイは25章で、十人のおとめの話をイエスが語ったように描いていました。あのおとめたちは、夜すっかり眠り込んでしまっていました。しかしこの兵士たちは、眠ってはいないようです。ずっと見張りをしていたように記されています。十字架刑の準備をして、執行しました。最後までその任務を果たし、十字架による刑の完了を見届け、すべてのことを目撃しました。また、マタイの筆致のせいですが、死者の復活した出来事を恰も見たかのようにも読めるという点を考慮に入れると、復活まで目撃していた、というような理解もしてみる価値がありそうな気がします。
 
私たちも、見ていたはずです。見ているでしょうか。この十字架の始まりと、行く末を。
 
Were you there when they crucified my Load?
(あなたも見ていたのか 主が木にあげられるのを)
 
有名な黒人霊歌「あなたも見ていたのか」の始まりです。
 
邦訳では「見ていたのか」に過ぎませんが、元の英語の歌詞は違います。「あなたはそこにいたのか?」です。「見る」だけでしたら、聖書を読めば見ていることになるでしょう。聖書の話を聞くだけでも、見たような気持ちになることは可能です。それどころか、この場面でイエスを罵った人々もまた、見ていたに違いありません。もちろん、この人々も「そこにいた」のでした。けれども、「そこにいた」というのは空間的な位置のことを指すだけではないと思います。なぜなら私たちは空間的に「そこにいた」と言うことはできないからです。最初から、「そこにいた」というのは、別の意味であるように歌われているはずなのです。
 
初めて教会に来てくださった方々を悪く言うつもりはありませんが、通りがかりにちょいと教会に立ち寄ってみてここに座ってみただけ、というときには、「そこにいた」とは言えないのではないでしょうか。いえ、いつも教会に来ていて、教会で熱心に奉仕をしている私たちの中にも、「そこにいた」とは言えないことがあると私は告げます。十字架を自分とは関係ないもののように考え、遠目に見ているならば、それは「そこにいた」ことにはならないはずだ、と断言します。イエスの与える救いを自分の体験とできないような場合も、「そこにいた」のではないことになりましょう。
 
私たちは、イエスの十字架のところに確かにいたと告白するように促されています。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2:19)と言ったパウロの言葉は、イエスの十字架のところで見ていたのみならず、共に十字架につけられたとまで言っているのですから、できるならその立ち方を体験して戴きたいと願います。私はその意味では、確かに「そこにいた」のだし、「そこにいる」ことになります。それが私に与えられた恵みであり、祝福なのです。
 
救いのプログラムは、一つのモデルを示しました。人により、また同じ人でもその時々により、どの段階にいま立っているのか、異なることがあるかもしれません。ただ、それは成績というようなものではありません。問題は、このプログラムの中に、加わろうとしたかどうかです。加わっていると確かに言えるのかどうか、そこなのです。かつてイエスや神に、聖書に、キリスト教に、罵声を浴びせていた人であっても、いいのです。この私がそうでしたから。私は、そんな自分が神に殴り殺されるのを覚えました。息も絶え絶えに、十字架のイエスの前に引きずり出された経験があります。そのイエスに呼びかけられて、立ち上がることができました。復活したのです。私は、神にも解決できない問題をもっていましたが、聖書の言葉には不可能はありませんでした。それをも解決してもらえたのです。
 
自分を救え・他人を救った・自分を救えない・おまえは救われよ・おまえは救われる
 
神の救いの計画の中に、今日、確かな立ち位置を与えられますように。「そこにいた」とどうぞ告白できますように。



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