熊本益城を離れて一年

2021年3月16日

1年前の今日、熊本の益城町に行っていた。2016年4月に熊本地震が起こり、多くの被害を出した。その年の秋から、私は教会の熊本訪問のグループに入り、2カ月に一度の訪問を続けてきた。「みんなの家」という名で立てられた、仮設住宅の公民館のような場所を借りて、ささやかなカフェを開くのだ。コーヒーなどのマスターとして、長年の趣味が活かせる機会となったのである。
 
どうしても行けなかった二度を除いて、年に6度の訪問にはすべて参加した。しかし、熊本で仮説住居から出て行く人が多くなり、空き家が増えたこともあり、地震発生から四年後、仮設住宅がひとつに集約されることとなった。そのため、訪問していた地域の仮設住宅が撤去されることとなり、2020年3月の訪問を最後とすることが決まったのである。
 
すでに新型コロナウイルスの感染が懸念されていた。だが、なんの心配もないかのようにして、3月の訪問はそのまま実行された。医療従事者からの情報と知識をもつ私から見ると、まだ教会の人も、感染についての知識と心がけが不足しているとは思ったが、そのあたり私の目で気をつけることにした。
 
最後だという宣伝もあり、久しぶりに来てくれた方もいて、カフェは賑わった。基本的にお年寄りである。お一人で仮説住居に四年間暮らしている方がいる。体が少し不自由な方もいる。でも、カフェへくれば笑顔で話す。少しでも、誰かと話す場、人と交わる場があるということは、意味があったのだろうと思う。
 
カラオケを歌うなどもしていたのだが(ちょっと懸念されるものではあったが)、いよいよ時間が迫ってきたので、最後に何を歌いましょうか、と持ちかけたとき、歌の好きな方が、「蛍の光」と明るく提案した。スタッフは一瞬驚きながらも、それを皆で歌った。そして、笑顔でお別れをした。恐らくもう二度とお会いすることはないだろうという場となったが、笑顔と感謝の言葉ばかりが、そこにあった。
 
間もなく、本格的な「コロナ禍」の中に社会は陥っていった。その後、皆さんがどうなったのか、情報はない。子ども夫婦などと暮らすなど、新たな家を得た人もいるかと思うが、まとめられた仮説住居生活をそのまま続けている方も、いまなおいるのではないかと思う。高齢になると、新しい家という機会も、財力もなくなっていくだろう。人生の秋をどう生きるか、かつてこんなことを想定はしていかなったはずだ。だが嘆くだけでなく、とにかく毎日を生きていくしかない。
 
私たちは、教会であることはもちろん伝えていたが、信仰を押し付けるようなことはしなかった。クリスマスが近づくころには、教会で歌うクリスマスの歌を歌うなどはしたが、聖書を開いたり、メッセージを語ったりするということもなかった。生温いように見えるかもしれないが、公的な手続きでのボランティアでもあるし、そもそも教会としても、これを宣伝のために用いるというような意図は端からもっていなかった。ただ寄り添うだけ。ただ話を聞くだけ。そこに、何かしら居心地の良さが感じられなかったら、リピーターなどいなかったに違いない。ひととして、交流させてもらった。福岡に戻れば自分の家がある私たちが、どんなふうに接したらよいのだろうという引け目のようなものもあったが、信頼されたことは、やはり嬉しかった。
 
コロナ禍の中で、物理的距離が、人と人との間に必要とされる環境となった。これを「社会的」と称することは適切でないという意見が一般的になってきた。それは差別的な印象を与える言葉だからだ。「物理的」距離は仕方がない。しかしこれに対する「心理的」距離は、必ずしも大きく取らねばならないという必然性はないだろう。案外、本来的に、この「心理的」距離のほうが、人と人との間には大きく隔たりを感じさせるものであったはずだ。それは、人への信頼がもてないということを意味する。へたに信用すると、騙されるからだ。私は、神との間にその信頼関係を与えられていると思っている。だからこそまた、こうして暖かく三年余り、信頼関係のもとで被災者と接することが許されていた。実にありがたかった。こちらのほうが、きっと多くのものを受けたのだ。
 
物理的でない、心理的な距離は、祈りの中で、いまなお保たれているものと考えている。東日本大震災から10年という話題ばかりが世の中に響いていたが、地震や洪水などの被災者は、たくさんたくさんいる。物理的にも距離がなくなればよいと思うが、見えないけれど心理的な距離は、すぐ近くなのだ、と言えるものでありたいと願う。



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