【メッセージ】気づかない鈍感な奴であっても

2021年3月14日

(マタイ25:31-46)

はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。(マタイ25:45)
 
ひとの気持ちが分からない人間でした。などというと、いまは分かると思っているのか、と非難されそうです。そうです、いまも難しいです。けれども、かつてよりは、いくらかましになっていると思います。ひとの気持ちに気づかない鈍感な奴でした。
 
世の中には悲しい事件があります。特に子どもが犠牲になると、いたたまれない気持ちになります。報道系の番組でも、地元や関係者の間ではさかんに報じて取材合戦となりますが、私の見聞では、新聞の見出しに多い言葉が、このようなものです。
 
「この子を助けることはできなかったのか」
 
そう問うことが悪いとは申しませんが、その矛先をどこに向けているのか、という点には気をつけておきたいと思うのです。読者がこの見出しで、共通して頭に思い浮かべる対象があるような情況で使ってほしくはない、と。警察の対応がまずかった事件なら、「助けることができなかった」ことの主語は警察ということになります。その主語は、たとえば学校の教師であったり、事故を起こした当事者であったり、あるいはまた、見て見ぬふりをしたかもしれない街の人々であったり、その事件において誰か責任があると思われるものがあったら、そこを責める口調に聞こえてしまうのです。
 
そこへ、新聞社自身にその助ける可能性があったのに、できなかった、というような論調で書かれてある記事があると、私は共感を覚えます。悲しい事件について、社会の誰もが何か責任を覚えるような世の中であってほしいと願います。それは自分も関わっている、という思いで考えたいと思うのです。
 
JR西日本で大きな事故がありました。16年前のことでした。JR西日本は最初、誰かが置き石をしたという情報がある、というところから発表していましたが、そうではないことが間もなく分かりました。過密ダイヤと遅延の責任を運転士にかぶせる体質が発覚し、たいそうな非難を浴びることとなりました。ワイドショーは、街角の人々にこれをどう思うか、などインタビューして世間が皆JRに憤っている様子を画にしようと努めていましたが、その中に年配の紳士が、こんなことを叫んでいたのを忘れることができません。
 
「こんな社会がおかしい。私たちがたるんでいるから、こんなことが起こってしまった」
 
正確に覚えているわけではないので、主旨だけ伝えたつもりです。つまり、その紳士は、自分たち皆が責任を負うべきだ、というようなことをマイクにぶつけていたのです。私もそのような考えをもっていたので、たいへん共感を覚えました。ただ、スタジオの司会者やコメンテーターは、その声には何の反応も示さず、JRが悪いということばかり、結局言い続けていたことに、がっかりしたのを覚えています。
 
どう思われますか。「列車の遅れをお知らせします。××分発△△行き急行は、1分遅れで運転しています」というアナウンスが、駅で流れます。1分でも遅れたら、そしてその知らせがなかったら、客が怒ったり、不満をぶつけたりするからです。特に乗換がかかっているときには、そのわずかな遅れが、その人にとっての大きな遅れになりかねませんから、JRも過敏になるのでしょうが、遅れを許さない乗客、そして私たち社会が、列車の暴走を招く遠因になっていると考えてはいけないでしょうか。ほかにも、背景に立っている私たちが、事件の環境に影響を与えるということを、私はしばしば考えるのですが、そんなふうに多くの人が考えてくれたら、社会は何か変わるところがある、と常々思っているわけです。もちろん、そう思わない人を非難するつもりは全くありませんが。  

「誰かが、この子を助けることはできなかったのか」
 
その「誰か」の中に、私もまた、いる。きっと、いる。私はその子を助けるために、何もすることができなかった。できなかったのは、当事者の知人や関係者ばかりではないのです。彼らに、おまえのせいだ、と傍観者たちが指さして非難をぶつけることは、よくないと思うのです。
 
他方、私はこの「この子を助けることはできなかったのか」という問いには、もうひとつ気づかない真理が隠れていると考えています。それは、確かにその事件の子は悲惨であり可哀相であることには違いないが、全国各地で、そのようなことが起こるかもしれない情況があったにも拘わらず、それを食い止めていた、名も無き人々の地道な努力が多々存在する、ということです。登校を見守る地元敬老会の方々の目と手があるからこそ、多くの交通事故や犯罪が防止されていることは確かでしょう。警察があるからこそ、また保健所や児童相談所が各地で相談に乗ったり指導をしたりしているからこそ、守られた命がたくさんあったはずです。
 
如何せん、何事もなかった、ということはニュースにならないのでありますが、だからといって何事もなかった背後に努力や労苦がなかったということはないことでしょう。その働きによって、何事もなかった、という結果があることについては、認識しようがないわけです。でも、確実にそれはあるはずなのです。無数の貢献が、計り知れぬ愛の業が、世界には隠されているのです。
 
こうした貢献をした人々も、自分が大きな仕事をしたとは思わないでしょう。ガードマンは、泥棒を追いかけて捕まえるようなことをしなければ、仕事をしなかった、などということにはなりませんが、しかし本人は、いわば派手なことを何もしないで、日々過ごしている思いでいるかもしれません。特別なことをしているわけではない、そんな意識で、大きな仕事をしているというのは、素晴らしいことであると私は考えています。私は、そんな「見えないものを見る」ことを楽しみにしているのです。
 
実は、その言葉が、自殺を防いでいた。実は、そこをパトロールしていたことが、子どもを犯罪から守った。そんなことが、ひとの目には見えないままに、この世界には溢れているものと思います。しかし、それをしていた当の本人は、自分が何かをしたという意識がありません。別に何もしていませんが、としか答えないことでしょう。
 
それに対して、「自分はおまえのためにこれだけのことをしてやったんだ」という気持ちが、自分から離れない、そんなことはないでしょうか。夫婦の間でも、そんな思いが渦巻いていると、そのうちぎくしゃくしたものに気づくようになりますが、気づいたときには遅い、などという怖いこともありえます。親子の間でも、親がこんなにしてやったのだ、という思いを本音の部分でもっていたとしたら、何かの時にそれを表に出て、修復のつかないひび割れを残すことにもなりかねません。いずれにしても、関係がうまくいっていないということを、その気持ちは表しているようにも思えます。
 
自分が相手のために労苦したことは、大きな犠牲を払ってやったのだぞと錯覚しやすいし、ひとが苦労して自分のためにしてくれたことは、小さいことのようにしか思えないし、へたをすると気づきさえしない。これが人間の通常の感覚です。いえ、それが悪いなどということが言いたいのではなくて、それが人間の当たり前だということです。
 
三浦綾子さんの本は、いま読まれているでしょうか。教師をしていた自分が、子どもたちを戦争へ駆り立てたことを戦後悔やみ、その中で重い病を背負い、キリストと出会った方。懸賞小説の賞を受け、その後数々のキリスト教精神に貫かれた小説やエッセイなどを書き続けました。プロテスタント作家として最も活躍された方の一人です。そして私もまた、三浦綾子さんの小説から、キリストのもとへ導かれていきました。
 
三浦綾子さんの『孤独のとなり』という随筆集に、次のような一節があります。
 
同じことをしながら、自分自身のしたことなら許すことができ、自分以外の者のしたことなら許すことができない。これがわたしたち人間の、誰もが持つところの真実の姿なのである。相手によって、わたしたちの物差しは適当に変わるのである。
 
同じ善いことを、自分がひとにしたときにはそれは大きく感じられ、ひとが自分にしたときには小さく感じてしまうということはありませんか。逆に、同じことを自分がひとにしても小さなことですが、ひとが自分にしたならば、大きな悪だと騒ぎ立てる、それもまた人間の性であるように思われます。「相手によって、わたしたちの物差しは適当に変わる」という、三浦綾子さんの鋭く厳しい指摘、心に留めておきたいものです。
 
こういうわけで、自己評価というものほど、難しいものはありません。
 
ようやくマタイによる福音書の本文に目を向けましょう。しかし、もはやこれを今から細かく読み込んでいこうというつもりはありません。対比により描かれたこの幻のようなストーリーは、理解するのに基本的に難しさはありません。そして、グサリと胸を突き刺すものがあります。
 
イエスが、終末あるいはこの世の終わりに神が精算するという時に関する話をしています。神の審きがいまからなされようと、人間たちが神の前に集められます。そして人間は、きれいにふたつのグループに選り分けられます。栄光の座には王がいます。
 
片側には、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と祝福の言葉を投げかけます。それは、「わたし」が困っていたときに助けてくれたからだ、という理由によります。その人々は、そんなことをした覚えがない、と驚きます。すると王は、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と説明しました。
 
他方の側には、「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と呪いをかけます。それは、「わたし」が困っていたときに助けてくれなかったからだ、というのです。その人々は、そんな無視したような覚えはない、と弁明しますが、王は、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と説明するのです。
 
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。
 
これで一連のストーリーは結ばれます。この話は、福祉活動や社会奉仕などの勧めにもよく持ち出されることがあるのですが、「最も小さい者」という言葉が、弱い立場の人々、いじめられているような立場の人々のことを意味すると理解され、私たちは、キリスト教精神が歴史の中で続けてきた、よい働きの側面をここに確かに感じることができるかと思います。権力の下で苦痛を味わっている、弱い人々の身に寄り添う、というような言葉がいまも飛び交うところからしても、この精神はとても大切にしなければならないものであることは間違いありません。
 
しかしこの話は、どこか後味が悪いというか、さしもの能天気な私も、どうしても自分が後者のグループにいるような気がするばかりです。「してしまった過ち」を責められることは、ある程度仕方がないかと自覚できます。しかし、「しなかったこと」を責められるというのは、辛いものがあります。好き合った二人の間でも、「あなたは私にこれこれをしてくれなかった」という思いは、重く残る場合がありまして、後々「あのときしてくれなかった」という不満が実際に出てしまうと、二人の関係を危うくさせることがあります。熟年離婚とか定年離婚とか、マスコミは目立つ名前をつけますが、当事者はたまりません。いったい、言わなくても抱えているだけでもよろしくないのですが、この「してくれなかった」という思いは、取り返しがつかないものであることも加わって、確かに厳しいものだと思います。
 
そのためでしょうか、私などは、このイエスの話の中の、「しなかった」故に呪われた人々に、同情してしまいます。なにせ「しなかった」ことで「永遠の罰」へと振り分けられてしまったのです。そこまで厳しくされなければならなかったのでしょうか。そこまで言われなければならないのでしょうか。
 
では、そうならないように、「最も小さい者」に何かをしなければなるまい。キリスト教会は、時にその義務からか、あるいはかつて小さい者を傷つけ殺し迫害してきた歴史の罪滅ぼしでもするつもりなのか、しばしば「小さい者」の味方につこうとします。悪いことではありません。福祉制度を開始したり、推進したり、世の中のためにきっとよい働きをしてきたことだろうと思います。けれども、この話をここから始めることは控えます。私たちはいま、とりあえず聖書に向き合っています。
 
果たしてその「最も小さい者」の気持ちが、私たちにどう分かるのでしょうか。コロナ禍において、収入を、仕事をなくしてしまった人の気持ちが、どう分かるのでしょうか。感染症で大切な人を失った人の気持ちが、どう分かるのでしょうか。命の危ない人のところに、駆けつけられない人が、時間と戦うようにして苦しんでいることを、どのように知ることができるのでしょうか。
 
いえ、もしかすると、自分自身が「最も小さい者」であるかもしれません。自分が何か大きい者なのだ、と前提的に思い込んでいること自体が、傲慢なのかもしれません。私にひとがしてくれていることにもっと気づかなければならない、とも思わされます。自分がどんなに恵まれているか、助けられているか、生活の中の隅々で感じることができるはずです。あたりまえのように、着替えの服にアイロンが掛けられていたり、畳まれていたりする。あたりまえでしょうか。そんなことはありません。ひとの手が、自分のために時間と手間を使ってしてくれているのです。
 
男性が、週に二度のゴミ出しを、外に運んで行く。それで自分は家事に協力している。そんなふうに誇ることがあるのだとか。家事をしていると言えるようにするには、各部屋のゴミと台所のゴミを全部集めてから、ゴミ袋を引っ張り出してきてその中に詰め込むことから始めなければなりません。ゴミ箱に代わりのポリ袋を入れるというところも当然やりますね。セットされて詰められた大袋を表に出すなんぞ、何の仕事にもなりはしません。
 
しかし、元に戻りましょう。自分の小ささを知ることも大切ですが、やはりここでは、「最も小さい者」の一人に対して、するかしないか、が問題です。これは「一人」だけしかいないのでもないし、「一人」だけにすればよい、という意味ではないと私は感じます。英語の不定冠詞「a」は、それに付く名詞がそもそも複数あって、その中の一つを任意に取り出すという考え方が基本にあります。ここでは、「最も小さい者」は、たくさんいるのです。唯一ということではありません。たくさんいる弱い立場の人、あるいは動物かもしれないし、物かもしれませんが、とにかくたくさんあるそうした対象の中から、誰か一人が自分の前に現れうるということを意味しています。また場面が変わり、時が移れば、その複数の中から一人が現れてくることでしょう。そうして、イエスの話の中でも、飢えていたり渇いていたり、旅をしたり裸でいたり、病気でいたり入牢していたりという形で現れたとされているのです。
 
ところが、このようにして、困った人を助けなさい、そんな道徳を教えるために、イエスがこんな手の込んだ教え方をしたとは思えません。私たちが、困った人を助けように、と受け止めることが悪いわけではありませんが、イエスはそれを求めたのではないと考えます。話にはシチュエーションというものがあります。これは、イエスが再びこの世界に姿を見せ、栄光の座に着いたときの話として設定されています。私たちの日常世界ではありません。人間の生活世界ではありません。特殊な、ただ一度きりの、主の日と呼んでもよいような、決定的な、特異な時の話です。そのとき、あなたが出会ったかつての「最も小さい者」が、「わたし」であった、と明かされているわけです。
 
ややカトリック的な捉え方かもしれませんが、出会ったひとのことを「キリスト」として扱うという考え方があります。弱い子どもと接したとき、その子を「キリスト」としてもてなし、接し、親しみます。街角に倒れた病人や瀕死の人々を、マザーテレサは恐らく、「キリスト」として向き合っていたのではないでしょうか。しかしこの態度は、今日開いた審きの箇所に、きちんと説明されているものでした。聖書に基づいた、人との接し方なのでした。
 
なかなかそこまで徹底はできないと思います。自分を牛馬のように使う上司をキリストだとは思えないでしょうし、こちらの話すことに耳を貸さないようないかつい人がキリストに見えることもないでしょう。しかし、主の決定的なその日には、「最も小さい者」をキリストとしてもてなしたかどうかにより、「永遠の罰」か「永遠の命」かに振り分けられてしまうという、ある意味で恐ろしい基準が、ここに提示されています。怒るばかりの上司にも、立場があり、辛いのかもしれません。そのとき部下にしか威張れないその哀れな上司もまた「最も小さい者」となりえます。聖書の話を聞いてくれそうにないその人も、せいぜい刹那的な喜びしか感じず、独り善がりで不安に包まれているだけの、「最も小さい者」であるのかもしれません。見かけや予断で、「最も小さい者」を見分けることなど、できないのです。病人や障害者、福祉の対象となる人ばかりが「最も小さい者」であるというわけではないのです。
 
こうなると、少し楽にならないでしょうか。私たちは「最も小さい者」とは誰か、と考え込む必要がないのです。「隣人とは誰ですか」と、どこかに境界を引こうとした、あのサマリヤ人の譬えを引き出した、律法の専門家が見えなかったのも、この点だと思います。およそ人間であれば、誰であっても、「最も小さい者」として数えられる資格をもっていると捉えることはできないでしょうか。するとまた、「誰が最も小さい者であるか」に気づかない、などということはなくなります。私たちは気づく必要すらないのです。出会う人すべてに「最も小さい者」である可能性を大いにもちながら向き合いましょう。私を救った神、イエス・キリストの父なる神の下、共に地上を這うことしかできない、惨めで罪を含み有つ人間同士です。キリストは、その人にも豊かに働きうるお方ですから、いつどのように、その人にキリストが手を伸ばし、支えているか、私は思案する必要がないのです。
 
その上で、より細やかなニーズ、自分のなすべきこと、そんなことに、気づくようになっていきたいと願います。どうか気づかせてください。。自分のしたこと、されたことではなく、ひとのしたこと、されたことに気づくように。あなたの業に気づくように。この世界は、神の業で満ちています。一つひとつの意味に気づかない、こんな鈍感な奴であっても、その鈍感さは、「いつそのようなことをしましたか」と気づかないでいるほどのものであって結構なのでしょう。ひとの気持ちに気づかない鈍感さは治りませんが、気づかないなりのよいこともあるのだ、と自らを慰めつつ、栄光に輝く主の日がいまであるかもしれない生き方を、その都度選び取っていきたいと願います。



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