問題解決の道

2021年3月12日

進学塾でも、面白い授業を展開している。いま社会で話題になっていることを考える授業である。評論的な新聞記事のようなものを題材として、その要旨を理解すると共に、それについてのコメント(小論文)を書いて発表し合うのである。小学校上級生で可能としているから、学年もいろいろだが、四年生も活発に意見を述べる。このような訓練は実によいと思うし、また現実の問題を知るという点でも有意義な体験を重ねることができる。私は基本的にこのような学習は好きだ。
 
教材は、時事問題を編集したテキストが期間をおいて届く。最近ではやはり新型コロナウイルスに関する話題が多い。しかし、そればかりではない。世界の食糧問題を扱ったときのことである。
 
それは、論文仕立てではなく、メモの上で話し合う課題であった。「給食で嫌いなものを残すことは是か非か」というような内容で(小学生向けの表現がもちろんとられている)、まず立場をはっきりさせて、その理由を述べるという形式であった。
 
最初の子が、認める意見を言った。嫌いなものは人間にはあるものだから、それを無理強いするのはよくない、という理由だった。他の子も意見を言った。体質的に食べられないというのでなければ、食べるべきだ、というものだった。世界では食べられない子どもたちもいるから、無駄のないように食べなければならない、と言う子もいた。きっと、親や教師から、そのように教えられているのだろうと推測された。教室の雰囲気は、概ね、だ嫌いという理由であるならば、残すべきではない、という方向に傾いた。
 
進行役の教師として、どちらが正しくてどちらが間違っている、というような判断を下すことはできない。また、事実これはどちらだけが正しいというふうに結論づけられる性質のものではない。だからこその議論なのである。
 
四年生の子が手を挙げた。「賛成か反対かという結論ではなく、どちらでもあると思っています。嫌いでたまらないこともあるだろうから、その分を、誰かほかに好きな人に分けてあげるというふうにすると、無駄も出ないし、嫌な思いもしないですむと思います。」
 
ディベートとしては、折衷案は好ましくないのかもしれないが、対立した意見を止揚する考えならば、それはそれでよいだろうと私は判断した。無理強いをすることも避けられ、また無駄を生むこともなくなるというこの子の発想の良いところを、皆にも説明した。
 
実際にこのような措置をとると、手間がかかり面倒であろう。クラスのあちこちから、私はこれが嫌いだ、これをどうにかして、と声が出るとなると、実に面倒な手続きが発生することになる。しかし、問題点の両方を解決する視点を考える姿勢は、私の好むところではあった。
 
好む・好まない、の問題ではない。実際社会で起きている問題の多くは、それぞれの立場を尊重して解決していく必要があるのは事実であろう。しかし、世の中ではしばしば、ズバッと強い意見を言うほうが優れているように見えることがある。煮え切らない態度は曖昧で分かりにくく、また面倒なことを招くということで、一方的でも思い切った意見を好む人は少なくない。
 
すると、先般お話しした、キャスティング・ボートの現象が起きやすい。是か非か、その二択しかないように見えたとき、何かが見えなくなり、大切なことを失うことになりかねない。そしてこれは、政治や社会の問題に限らない。私たちは自分の内においても、しばしばこのような対立を有するのであるから。



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