言葉の罠とその克服

2021年3月2日

言葉にしてしまうこと。「分節」という語の理解を、そこに重ねてみる。「分節」は元来、言語を考察する上で、発音や意味を区切ることを意味する。しかし、心理的には、ありとあらゆる事象の中から、一部を切り取った形で捉えることと見てもよいだろう。抽象化することにも比せられるが、何を以て抽象とするかどうかに必然性が伴うのではなく、恣意的なものがあるとすれば、むしろ捨象することだと見たほうが適切であるように思われる。
 
言葉にするということは、そのように、言語化できない雑多な事象の中から、あるものを取り出すことであり、それは同時に、取り出さなかったものを排斥してしまうことであるとも考えられる。特定の言葉で、対象のすべてを象徴し本質を把握するような真似は、およそできそうにない。
 
だが、とにかく言葉にするということは、便利である。切り取り、抽き出したものにすぎないにせよ、それにより自らの思惟が進められるし、誰かとのコミュニケーションも可能になる。一定の共通理解がその言葉についてなされること、つまり言葉が共有されることにより、別人が別様に想定しているかもしれないことについても、そして多少の誤解や異なる理解がそこに紛れることは避けられないにしても、それなりに対話をすることができ、あるいは協同して何かをなすことができるということになるだろう。
 
但し、いまも挙げたが、危険は伴う。同じ言葉を双方が提示したとしても、それに対する意味は、互いに別々のものであるかもしれない。言葉にしたときに捨ててしまったもの、あるいはその言葉にもたせた本質的な部分の理解が異なるかもしれない故に、表面上は対話が成り立っているように見えても、考えていることは全く違うということさえ可能になるのだ。
 
また、言葉にしてしまったことで、その事象のすべてを把握してしまったかのように錯覚してしまう危険性もある。上に挙げた、表面と内実との違いについては、その後の対話の進め方によっては、誤解が解けたり、共通理解へと接近したりすることは可能だと言えるが、こちらの錯覚については、自分自身の内部での問題であるために、そもそもその錯覚自体に気づかないということが予想される。そして、気づかないままに本質を把握したつもりで満足し、あるいはその理解を他の誰かを攻撃することのためにも用いることへと突き進んでしまうと、非常に拙いことになる。歪んだ正義がそこに遂行されるからである。
 
たとえ他人に向けなくても、自分の中でこの満足が起こると、その人自身の精神や魂の活動に支障が生じるものであろう。一例として、ここに「原罪」という言葉を試してみる。「原罪」という言葉について、知らないクリスチャンはいないだろう。「知ってる。キリスト教の根本的な教義のひとつだ」「創世記のアダムの出来事のことだ」その他、詳しく説明できる人はいくらでもいるはずだ。しかし、聖書の中にこの「原罪」という言葉そのものは出てこない。事実、ユダヤ教ではキリスト教と同様にはここで「原罪」という考え方を意識していないものだという。だからといってユダヤ教が「罪」を考えないなどということは全くありえないのだから、キリスト教側での常識ともいえる「原罪」という言葉は、いったい聖書のものであるのか、人間が組み立てた話であるのか、簡単には言えないものとなってくる。
 
そして、そのキリスト教の論理にしても、「原罪? 知ってるよ。それはあれだね……」と語る説明は、えてして、まとめの本に書いてあるような、決まり文句であるだろうと思う。一定の定義が決まっていて、私たちは「原罪」の説明を求められたときには、それを繰り返すに過ぎないと思うのである。
 
けれども、創世記のあの原罪の場面を思い起こしてみよう。通り一遍の説明のほかに、耳をすませばもっといろいろなことに気づかされないだろうか。
 
誘惑に弱い人間の――自分の――性質に感じ入る人がいる。自分の目に好ましいと思うことから逃れられなくなるものだ、と噛みしめる人。自分の判断こそが一番正しいのだと思い込むことが自分にあると感じる人。それは自分が神になるようなことではないのだろうか、と省みる人。神とのひとつの掟を疑い破ることは、神との関係を自分が蔑ろにし、あるいは断ち切ることではないかと気づく人。いえいえ、もっともっといろいろ感じる人がいてよいはずだ。一人ひとり、聖書に向かう人が、豊かにこの場面から感じ入ることがあってよいし、私はあらねばならないと考える。それを、知識としての「原罪」という言葉で区切ってしまうこと、抽象してしまうこと、他の感じ方を捨象してしまうこと、それらは、この場面を実に貧しいものに変えてしまうと同時に、自分を当事者と見なすことから完全に遠ざけてしまうことにならないだろうか。私はこれを強く覚える。
 
私たちが対象と称しているものが存在する世界がある。私は、その世界の中の一部として存在しているはずである。しかし、対象のどこかを切り取って言葉にしてしまうとき、その言葉が含み有つ内容に、いつしか自分自身は含まれなくなってしまうことがある。いや、殆どの場合、自分を除外していると言ってもよいくらいである。
 
自分の言明の中に、自分自身が含まれるとなると、しばしばパラドックスが生じる。「私は嘘をついている」という言葉は真実であろうか。「私は言葉を書けない」と書かれたものはどうなるのだろうか。こうして私たちは、言葉として取り出したものは、基本的に自分自身を含まないようなものとして語るものであることを、当然のものとしていく。そしてそこに自分が含まれないでいるという構造にさえ気づかないままに、言葉を連ねていく。つまり、論理を重ねていく。こうして出来上がった思想体系は、自分が操り自分が構築した世界であり、自分のコントロールできるもの、支配する世界となり、つまりは自分が神となる。
 
そこで付け加えられるすべての説明は、自分に都合のよい言葉ばかりである。自分に気づかないものには触れることができないのであるから、すべて自分の中で気持ちよく支配された状態として手なずけてあるものばかりである。
 
聖書は、元来自分にとり絶対他者である神からの言葉として理解されているものであり、またあるべきものなのであるが、ひとはそのうち聖書にいくらか筋の通った説明を施せるようになってくるとき、聖書の言葉を支配している自分という構造に立ってしまっていることに気づかないことになる危険性がある。なまじ聖書という書に権威があるものだから、自分にその権威があり、やがては自分が神となっていくことになる危険性を、この構造は含み有つ。厄介なことに、これに自分自身気づかないために、自分だけが正しいものと思いなしてしまい、他者を裁くようになるのだ。なにせ、自分が神となっているのだから。
 
ひとは言葉を使わざるをえない。言葉なしでのコミュニケーションは難しい。もちろん、手話その他様々な形の「言葉」があるものとしていま話している。そしてこの言葉には、以上のような罠が内在する。これは宿命であろうか。やむを得ないのであろうか。避けられないことなのだろうか。いや、聖書は教えてくれている。「愛」がそれを覆うのだ、と。日本語の「愛」ではない。言葉の「愛」ではない。私たちは、ひととぶつかり、失敗し、悲しみ、後悔し、だが回復し、喜びを共有し、そうして、この「愛」を知るようになるのだ。その希望を贈り、それを信頼することに意味を与えるものとして、聖書はあなたを助けてくれるはずである。



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