ミスの体験

2021年2月26日

小中学生のテスト監督をしていると、テストに対する姿勢というものを教えられる。自分がテストを受ける側だったあのころは、ほかの人がどうかなど知る由もなく、自分はこうする、しか知らなかったからだ。
 
早く解答欄を埋め終わって裏返し、余裕を見せるかのように文具をいじり続ける子。頭の回転は速いのだろうが、見直しをまともにはやらない。面倒くさいのかもしれない。それは分かる。こうして私が綴る文章でも、読み返して推敲しようという気持ちになかなかなれないからだ。しかしそうなると、誤字脱字や意味不明な文、また誤解される書き方などをそのまま残してアップすることになる。いや、全く見直さないわけではないし、修正することはあるのだが、それが面倒くさいと思う気持ちは確かにあることを否定できないということだ。
 
かと思えば、一心不乱に終了時刻まで、見直しに励む子もいる。中には視線を殆どそこから離さない子もいる。「これでもか」というほどに、自分の答案を完成させようと努めているのである。私はどちらかというとそれに近かったし、それで良かったと思っている。テスト時間は、試合時間だ。最後まで気を抜かずに走り回るフィールドでありたい。そしてこの時間いっぱい見直しをする子というのは、成績が良い場合が圧倒的に多い。というより、有名校に合格するように集められた成績上位の子たちのクラスでは、全員が最後まで答案完成に勤しむのであり、まただからこそ、成績が良いのだろうとも思われる。これを私は「見直しの才能」と呼んでいる。努力により身につけるべきものではあるだろうが、成績上位の子たちは、本来的にこの見直しの姿勢をもっている。それが成績アップを生み、それがまた見直しに精を出させるという具合なのではないかと思われる。
 
電車の運転士は、駅でのチェックポイントについて、一つひとつ大きな声を出して確認している。が、声だけではない。一つひとつのチェックポイントを指さしているのである。指さし確認というものだと思うが、これはもちろんポーズだけのものではない。大丈夫、と目を向けるのでは、実は見落としや気づかぬトラブルが起こりうるものである。指さし確認により、一つひとつのポイントに、ひとは「意識」を向ける。意識に刻むようにして、チェック項目をクリアしていくのである。
 
それは、電車においては、絶対にミスはしてはならないからだ。人々の命を預かっている場合には、間違いは許されない。ついうっかりしていました、というわけにはゆかないのである。もちろんそれは、私たちの普段の自動車運転においても同じである。しかし、どこかやはり慣れっこになってしまうのが人間である。その油断が、事故を引き起こす。馬鹿な私は、そうやって事故を起こしたものだった。
 
子どもの間は、間違いが許される時期である。人間は間違うということを学ぶ経験が必要である。最初から万全でいる必要はない。しかし、何らかの形で、ミスを防止する方法について体得していくことが求められる。
 
大人になると、そうはいかない。どんな仕事でもそういうものなのだろうが、ひとの命を左右する医療従事者には、このプレッシャーがたまらないだろうと思う。それでも、感染力の強い新型コロナウイルスは、しばしば病院にてクラスターを発生させる。なんともおぞましいものだ。
 
ただ、寡聞にして、歯科においてクラスターが発生したという話を聞かない。これは、歯科という領域では、ふだんから、徹底した衛生管理が完成しているせいではないか、と関係者が教えてくれた。これはコロナ禍云々とは関係なく、すべての診療において、何らかの感染の危険の強い場面が成立しているのが、歯科というところである。この普段からの徹底した衛生管理が、新型コロナウイルスの場合にも有効に役立っている、ということではないのだろうか、というのである。
 
ミスが許されない場面があるとはいえ、ミスをしてしまうことはある。その時には、その痛みを噛みしめながら、そのミスをまた経験に数えていくしかない。そうしてミスをしないようになっていくことも、ひとつの学習である。そうして、責任というものが果たされていくものであるだろう。
 
もちろん、ミスが許されるからといって、甘えてはならないことは言うまでもない。教会は、赦しがモットーの場所であり、そういう教えを説いている。私から見れば、赦し合うことは大切であるものの、逆に自分の失敗を相手に「赦せ」と迫る、あるいは、相手が自分を赦すのは当然だろう、と考えているようなフシがある。心当たりがなければ幸いだが、心当たりがないというのが、実は一番危ないことであるのかもしれない。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります