ある医療従事者の視点をヒントに考えたこと

2021年2月24日

新型コロナウイルスのワクチン接種が始まった。まず医療従事者からである。頭が下がる。ワクチンの効果と副反応などの安全性を確認するためには、膨大な量と期間をかけて治験が必要である。今回、それが大幅に削減されている。これほどの短期間でワクチンが一般に接種されるということは、常識的に考えられないのだ。それで、医療従事者がその人体実験になっているというのが実情である。医療従事者は、感染者の治療と対応にあたるとともに、感染拡大防止のためのワクチンの実験台となっているのである。
 
これは、ダビデがヘト人ウリヤを戦場の最前線にわざと置いたのと同じではないか。私たちは、あのいけすかないダビデ王と同じことをしているのだ。手洗いやうがいなどをいいかげんにして感染拡大を招いた私たちが、自分たちの失敗を取り戻すために、医療従事者を犠牲にしようとしている構図がここにあると見てはいけないだろうか。
 
医療従事者は、自分自身を治験に明け渡し、健康観察を義務づけられる。閣僚は命令を下すだけである。戦場に兵士を送り、大本営側が防空壕に隠れて逃げ場を確保しているような姿と重なってくる。兵士の覚悟たるや、まさに命懸けである。
 
医療従事者は、この一年、十分覚悟をしてきた。生活を犠牲にし、世間からの差別を受け、口先だけの感謝を受け、祟りを恐れるあまり菅原道真を神に祀り上げたかのように、神のように扱っているようにも見える。そしてついに、ワクチンの実験台となり、さらに今後は通常業務に加えて、ワクチンの集団接種にも駆り出される。身を犠牲にする奉仕をこれ以上どこまでいくとも分からぬままに強いられることになる。
 
それでも医療従事者は、自分の選んだ医療という道であるが故に、一人ひとりが矢面に立つことを自らに言い聞かせて頑張っている。「風に立つライオン」という、さだまさしの作品があるが、あの映画で医療に殉じた医師は、決して特別なヒーローなのではなく、いまや世界中の医療従事者そのものの姿を映し出しているかのようである。
 
もちろん、飲食店や観光事業をはじめ、仕事がなくなる人も、辛い。アルバイトがなくなった学生が途方に暮れている。家を追い出された人もいる。どれが最も大変であるかというような比較を呑気にしている場合ではない。が、医療従事者が倒れたら、もう誰もこの病気から救う者がなくなってしまうことを忘れて戴きたくない。祈ってほしい。
 
その祈りは、実行を伴うべきだと考える。一人ひとりが、うがいや手洗いを徹底することだ。手洗いの仕方も、テレビでレポーターなどがきちんと正しく見せて、悪い見本を提供してほしくない。掌をちょちょいとこするのは消毒になっていない。爪先だ。病院に来る人を見ると爪先の汚れている人が非常に多いという。事実、これまでインフルエンザに感染した人の手の指は、かなりの確率で、爪が長かった、と医療従事者は証言している。雑菌やウイルスがはびこるのは爪と皮膚の間がなんといっても一番多い。ここを消毒しなくて、なんの手洗いであろうか。水でもよいのだ。洗うべき箇所を洗うならば、効果があるはずだ。子どもの爪も非常に汚れているという。親が意識して清潔にさせなければならない。
 
ワクチンを打ったから、手洗いも簡略に、と思う人が必ず出てくる。ワクチン信仰だ。ワクチンの効果は、話では、インフルエンザが半分程度であるのよりは高いと言われるが、当然百パーセントには全く届くはずがない。油断した者からの拡大は、全員が油断しない情況よりは十分悪化するする懸念がある。ワクチンはひとつの保険である。感染を防ぐ保証をするものではない。
 
有資格者の医療従事者が職場に復帰している例もあるという。すばらしい支えである。敢えて最前線に出ようとするその勇気を称えたい。が、銃後の私たちがすべきことを果たさねばならないと言いたいのである。戦争に喩えることは、相応しくないかもしれない。ウイルスは必ずしも「敵」ではない。むしろ人間の方が、他の多くの生物にとり「敵」である。ウイルスと生物とは一緒にしてはならないかもしれないが、何も戦うべき相手ではないとするなら、これを戦争と見ると、政治や権力が人心を操作しようとする流れに乗ってしまうことになりかねないし、そうした者たちの思う壺であると言えるかもしれない。だから、そうならないようにと釘を刺した上での、理解のための「喩え」であったことをご理解戴きたい。
 
なお、精神医療の意義をこの機会に強調しておくことも必要であろう。こうしたストレスなどという悠長なレベルではない害悪の情況に追い込まれている医療従事者たちの、メンタリティを支えるために、背後で精神医学関係が大きな働きをしている。これは阪神淡路大震災のときに注目されたことだが、医療従事者を支える精神医療関係者がきわめて大きな仕事をしていたのである。それはこのコロナ禍においても同様である。医師や看護師の精神状態をケアしている精神医療関係者が、報道などに全く見えてこないけれども、奮闘している。社会を支える医療従事者たちを支えているのである。ここにも感謝の念をもつ次第である。
 
それから、新規感染者数にばかり報道をはじめ世間の目は留まるが、ここにも問題がある。もちろん、重症者数も報道されている。そして、緊急事態宣言解除の目安として、病床使用率が注目されている。しかしこれが多少低くなったところで、医療従事者の困難が減るということはない。もちろん満杯に近くなれば破綻するという恐怖はあるが、これが半数を切ったところで、免罪符を欲しい一般市民が、それで緊急事態を脱したと気が緩むならば、また同じことが起こる、あるいはもっと酷い情況になりかねないのである。
 
そして、報道はされているが殆ど注目されていないのが、死亡者数である。新規感染者数の減少をうれしく見ている世間であるが、死亡者数はどんどん増えているのである。しかし死者へはあまり目が向かない。かつてペストがヨーロッパを襲ったときも、人がどんどん死んでいくのはもう当たり前になって、誰も気にしなくなったような経緯が記録されている。トラックで遺体を運び、穴に土砂のように埋める光景が、ごく自然なものとして受け止められているのである。死を忌避する心理があるのは否めないが、コロナ禍において現状は、死亡者数の増加が大きな問題であることを、もっと強調しなければならないと考える。
 
一人ひとりが、衛生の基本を大切にすること。そもそも手洗いとうがいは、わが家では何十年と当たり前のように実行してきたことである。マスクも、冬場はたいていつけていた。私は喉を守るためでもあったが、インフルエンザ流行期にはそのためにもつけていた。そのころと今とで違うことがあるとすれば、つい最近のことだが、外から帰宅したら玄関で除菌スプレーを服全体にかけることくらいである。いや、調理前などにアルコールを使うようになったのも、去年からだろうか。しかし、基本はずっと基本である。さらに基本に磨きをかけようとは考えているが、事実この冬にインフルエンザの流行が見られないというのは、世間で衛生観念がかなり行きとどいている証拠だと言えるであろう。この基本が、医療従事者と社会を守ることになるのだ。そして、あなたが事故に遭ったときに、救急車が搬送先がなくて立ち往生しなくて済むようになる、第一歩なのである。数字に出てこない、急病や事故での重症者や死亡者は、恐らく増加しているのではないかと推測できる。



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