救急車が動かない

2021年2月22日

交通事故を目撃した。正確に言うと、事故後の現場を見た。ふと窓から外を見ると、数十メートル離れた交差点のところに救急車が見え、警察がすでに出動している。ヘルメット姿の赤いジャケットの人が倒れている。動かない。しゃがみこむ女性が横にいた。はじめ負傷者の関係者かと思ったが、ぶつかった車を運転していたことが後で分かった。バイクが横に立てられていた。
 
救急車に担ぎ込まれた。ヘルメットのままだ。どうやら情況はあまり明るくない。大丈夫だろうかと心配する。私もずっと窓から見ているわけにはゆかない。用事をしながらも、気になるので窓にくるとまた現場を見てみた。
 
まだ救急車はそのままだった。警察が女性に情況を尋ねているのが分かる。近所の人も、「あっちから車が来て……」と身ぶりでひとに説明している。救急車はじっと止まっている。
 
中で処置をしているのかもしれない。それにしても、先ほどから10分以上経っている。いよいよ心配になってきた。
 
祈り心で、また用事を済ませて、少しして外を見ると、まだ救急車はそこから動いていない。おかしい。もう30分くらいは過ぎている。次に窓の外を見ると、救急車の姿はようやくその場に見えなかった。
 
医療従事者の妻に後でこの話をすると、すぐさま答えてくれた。「どこの病院も、受け容れられないのよ。救急車があちこち問い合わせても、どこも。最近はだいたいそんな感じ」
 
なるほど。新型コロナウイルスの感染拡大の中で、病院側が断るのだ。救急車は搬送先を見つけることがなかなかできず、その場から動けないという事情なのである。
 
発熱者の受け容れも、様々である。喉などの異状で、耳鼻咽喉科に来た患者が、受け付けてもらえない例があったそうだ。発熱はなかったが、警戒されたらしい。いや、耳鼻咽喉科は何を診るのだろうか、とも思われるが、それが現実なのだという。その人は仕方なく内科に出直し、発熱がないというので診てもらえたのだという。
 
私たちの医療現場は、いまこういう具合である。あなたが交通事故に遭っても、病院に着くまでに小一時間ほうっておかれても何もおかしくないのだ。
 
報道は、病床が何%埋まっていて、どれそれ以下になったら緊急事態宣言を解除する云々という数字を出す。それを受けてワイドショーでは、コメンテーターがさも事情通のように説明している。だが、事故や犯罪に遭ったときに病院で手当してもらえないという現実を心配する声は、テレビでは聞かれないし、殆ど話題にならないのである。
 
こういう世の中にしたのは誰であろうか。なにも私は、感染した人のせいにしているわけではない。気の毒な方はたくさんいる。だが、「油断していた」「後悔している」という声があるのも事実だ。しかしそれは、自分だけの問題ではない。各地で事故に遭った人の命を左右する事態を生み出しているのだ。
 
2020年春、最初に福岡に緊急事態宣言が出された時のことを思い起こす。子どもたちは学校に行けず、その親たちも働きに行けないなどの事情が一度に舞い込み、てんてこまいだった。それでも子どもたちは耐えて、家にじっとしていた。学生も同様であった。子どもたちは健気に、親や世の中のいいつけを守って辛い毎日を送っていた。
 
しかし、緊急事態宣言の後も、街を出歩いている大人がいた。いや、出て悪いと言っているのではない。人のいない街の様子や入ったお店の様子を無邪気に連日掲載し続けていた。そういう人がいることも、どこかで仕方がないと私は思ってはいる。自粛警察をするつもりはない。ただ、この人が、曲がりなりにも「牧師」という肩書きをもつ人であるために、どうしてそのような無神経なことができるのか、たまらない気持ちになった。
 
もちろん名前も出さず、誰のことなのか探れるような情報にも触れずに、子どもたちのためにもこうした記事はやめて戴きたいという意見を私はSNSに記した。コメントではなく、一般記事として出したので、誰のことを言っているかなど、普通に見れば分かるものではなかった。内容は、その人が街を歩こうと、店に行こうと、それをどうのというものではなかった。ただ、学生や子どももそのSNSの記事は見ることができるものであったことを説明して、一般社会へ向けてのものとしての苦情を申し立てたのだ。
 
すると、無言でその人は私をブロックした。
 
牧師という肩書きをもつ人がしているのだから、してもよいのだ、と人々が、特に信徒が思うことへの想像力はなかったのだろうか。たとえ中身がどうであろうと、牧師という肩書きをもつ人は、信徒にとり、ひとつの価値基準になりうる存在であるとの自覚はなかったのだろうか。学習塾であれ、教師という立場であれば、子どもたちにとり模範でなければならない。赤信号で渡るわけにはゆかないのだ。信用を失うことをすると、首が飛ぶ。新聞沙汰になった同業者がいたが、ネットでは、報道されなかった塾の名前まで噂になっていた。こういうことを、信用第一の企業は、最も嫌うのである。個人の自由がどうのなどと言っている場合ではない。ひとが苦労して築き上げた会社を潰す自由は、私たちにあるとは言えない。
 
キリスト教は、罪という意識をもつところから信仰が始まるとされている。あの最初の頃、若者たちや子どもたちは実に健気だった。若い世代には症状が出ないらしいという話はあったが、だからこそ、気づかない間に感染させる可能性があるという認識はすでにあった。だから、両親や祖父母の命を奪うようなことになりかねない、という意識を以て行動している若者が多かった。これは確かに罪の意識であろうと私は信じる。
 
緊急事態宣言の中での行動について、政治家が何人も、非難されている。その内容はいちいち挙げない。政治家がしていることならやってよいことなのだ、という風潮をつくってはならない。そう気づいた当事者の中には、議員を辞職までし始めた。厳しいようだが、そういうものなのだろうと思う。
 
バイクから放り出されたあの人は、どうなったのだろうか。私は知る由もない。ただ、私たちがその人を病院になかなか行けなくしたのは確かだ。その「私たち」の中に、「私」ももちろん入っている。いや、「私こそ」がそうなのかもしれない。いつもまず、そこから考えはじめるようにしている。
 
感染症とは別の病人や怪我人から病院を遠ざけて、苦しめているのは、やはり「私たち」なのである。そういうところから出発することには、賛同しては戴けないだろうか。私たちが今日にも事故に遭ったとき、治療を受けることができるために。そして、あまつさえこうした医療従事者を差別する言動をとるということは、ますますそれを加速させるということだと痛感すべきなのである。「医療崩壊」とは、新型コロナウイルス感染症の患者が増えるだけのことではない。感染症とは関係なく、病気や怪我を診てもらえなくなる、ということだという点を、認識することができるように、報道も広報も、努めなければならないと切に思う。



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