【メッセージ】十字架を背負う者

2021年2月21日

(マタイ16:13-28)

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24)
 
「このときから太郎は、殺人犯の子としての十字架を背負って生きなければならなくなった。」v  
こんなフレーズが、小説やドラマでありそうです。自ら望んだことではない。しかし逃れられない運命に襲われてしまた。重い苦難をこれからずっと担って生きていかなければならない。世間で言う、「十字架を背負う」という言葉は、そんなふうな意味で使われるのだと思います。この「十字架」は、もちろん新約聖書のイエス・キリストが磔にされた死刑台をイメージしての語だろうと思われます。
 
イエスは、自ら十字架を背負っていくのだ、死ににいくのだ、というような科白が、福音書には幾度も記録されています。果たして、自分から勇ましく十字架にかかって死んでやるのだ、みたいなことで、人間の救いを果たすために斬り込んで行ったのか、と疑う人もいます。それではまるで舞台俳優、ひいては偽善者ではないか、と。
 
それもひとつの、その人の捉え方でしょう。もし先程の、世間的な意味で用いられる「十字架を背負う」という言葉を参考にしてよいならば、自ら求めはしない運命を担ったという意味で、確かにイエスは勇敢にさあ背負うぞ、と望んだことにはならないでしょう。けれども、この「十字架を背負う」はそれでもなおその運命の中に自ら飛び込んでいく、あるいはそれを受けて立つようにして生きていく姿も含まれているように考えられます。それならは、イエスが福音書にも記されたような覚悟を懐いていたからといって、矛盾するようなこともないと思われます。
 
共観福音書には、イエスが弱さを見せていように感じさせる記述もありますが、ヨハネによる福音書だと、復活のイエスを前提とした、スーパースター的なイエス像がふんだんに描かれているように見えます。イエスの中に両面があったと見ることに、私は吝かではありません。人の弱さも知り、神の、ある意味で愚かにも見える強さも備えたイエスの姿を見つめていたいと考えます。
 
いま「十字架を背負う」という言葉が、世間でも知られているという例を見ました。聖書の言葉の中には、ほかにも、日常語として使われているものがあります。英語なら非常にたくさんありますが、日本語にもあります。「狭き門」や「目からウロコ(が落ちる)」などはよく人口に膾炙していると思います。
 
特にこの「狭き門」は、マタイによる福音書の、いわゆる「山上の説教」の中に登場します。
 
7:13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
7:14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
 
アンドレ・ジッドの小説のタイトルの訳語に、文語訳の「狭き門」がそのまま用いられたことからか、有名になったのかもしれません。恋心がありながら神への道を選び命を失う女性アリサの姿は、福音書にある「狭き門」の意味と全く同じというわけではありませんが、十分にその精神を受け継いだ、美しいストーリーだと言えるでしょう。
 
けれども、日本社会で使われているこの「狭き門」は、全く意味が違います。常套句としては、「受験生6倍の競争率という狭き門に挑むことになります」という報道が典型的でしょう。みんながその大学の門を目がけて押し寄せるから、入るのが窮屈で狭い、というふうに捉えたのでしょう。命に通じる門は狭く、見いだす者が少ない、という福音書の言葉とはむしろ正反対であると言わざるをえません。
 
思い出すのは「他力本願」という言葉です。少し以前の本や文書では、これを「自分では何もしないで人任せにする」という意味でよく用いていました。しかし、これに対しては、浄土真宗が、意味があまりにも違いすぎる、誤っている、と抗議をし、声明を出すなど、誤解をなくすように努めた経緯がありました。それで次第に、この言葉はこうした無責任なふうな意味では、用いられなくなりました。教団としては、教義の中心に位置するともいえる大切な教えの言葉を、全然違う意味で広められては困る、という切実さから出た行動なのでしょうが、適切だったと思われます。「人任せ」のような言葉がちゃんとあるのに、わざわさ宗教の教義の用語を用いる必要はないわけです。
 
「狭き門」の誤用については、私は個人的にずっと抗議していますが、キリスト教界がこれについて全く無頓着に振る舞っているのはどうしたわけでしょう。適切な意味を知ってもらうチャンスだとも思えるのですが、何故しないのでしょうか。正しい意味を知らないくせに、などと、世間を見下しているからでしょうか。
 
こうしたことを考えると、「お題目」も慣用句として用いるべきではないし、近頃NHKの人気番組で繰り返されている「唯我独尊」も、よくクレームがこないものだと案じています。言葉に対する感覚や想像力が瀕死状態なのは、インターネット上で無意識のままにぶつけられている誹謗中傷も、同じような事情の中にあると思われて仕方がありません。
 
「十字架を背負う」にしても、世間で十分に捉えられているわけではありません。この言葉を入口として、ほんとうにイエスの十字架の姿と出会う道が拓かれるならば、それなりに用いられても口やかましくは言いたくないのですが、それほどに信仰の核心にある言葉である以上、キリスト者である私たち自身が、それを的確に受け止めているかどうか、それは問わなけれはなりません。今日はそこに目と心を留めたいと願います。
 
イエスはここで「弟子たちに」話をしています。そして自分のことを、人々はどう見ているか、と事実を尋ねました。人々はどう思っているか、ではありません。何と言っているか、です。これは、人々の噂のことではありますが、当然、弟子たち自身がどうなのか、尋ねることになるはずです。イエスとは誰か。核心を突く問いです。最初は、人々はどう言っているか。そして、あなたはどう思うか。
 
ヨハネだエリヤだ、エレミヤのように預言者めいた存在だと言われていることを伝えた後、イエスから、「それでは、あなたがたは」と来たのを待ち受けて、ペトロが答えます。弟子たちのうちでも、なんといってもペトロが目立つようになっています。それは後の教会の代表者だからに違いありませんが、マタイはペトロの中に、教会の信徒の見習うべき点をきちんと描きます。
 
「あなたはメシア、生ける神の子です」、ペトロはそう答えます。メシアはキリストのことで、これはユダヤ文化の中においての情況であることを鑑みて、新共同訳以来「メシア」と訳すようにしたといいます。ややこしいのですが、新約聖書は、描かれている人々の話したであろう言葉とは違うギリシア語で記されました。言うなれば、日本人の会話が英訳されているようなものです。その英語で「Christ」と表現されていたのを、「救世主」と訳したかのように、元の呼び名で訳し直しているわけです。
 
果たして本当に、ペトロとこのような会話がなされたのでしょうか。疑おうとすれば疑うことができます。つまり、マタイの教会における信仰告白はこのようにするのだ、とでもいうように、ペトロの口を通じて模範解答が用意されていたのだ、と見ることも可能なのです。どうぞ、どちらにでもご理解ください。どちらが正しくてどちらが誤っている、などと決めることはできないと私は考えます。
 
イエスは、これに対して次のような点を一気に語ります。ということは、教会の中でも、この告白に対する一定の評価があったということも意味しているものと見なします。
 
・言わせたのは神
・教会を建て上げよう
・神の国のための鍵を授ける
・イエスがメシアだとは話すな
 
この一つひとつについてコメントをすることは控えます。それぞれに興味深い問題を含みますから、ぜひ関心をお持ちの問題については、考えたり調べたりしてみてください。
 
これに続いて、イエスは自身が十字架とは言っていませんが、苦難の末殺されて、3日目に復活することを弟子たちに明かします。このとたん、ペトロが、とんでもない、とイエスを諫めます。人前でなく、二人だけの場所をつくって指摘するあたり、ペトロもこれはかなり拙いことだと感じたかのようです。
 
日本では特に、立場が上の人の失言を、正面切って指摘することはできないと考えられています。せいぜい、後でこっそり、拙いですよ、と言うこともありますが、それさえも憚られます。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会において、委員長の失言を現場では誰も指摘することができなかったというのは、そのことをはっきりと示しています。
 
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とペトロが諫めたのに対して、イエスは振り向いて、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言います。イエスを心配して悲しい運命を否定したペトロに対して、イエスはなんと厳しい叱責を浴びせたのでしょう。弟子に向けて「サタン」と呼ばわるのは、よほどのことです。神の計画からすれば、これは起こるべくして起こるものであり、「そんなこと」はあってよいどころか、あらねばならぬことであるとするのです。
 
そして今度は弟子たち皆に向けて述べます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 
こうして、自分の十字架を背負うという言葉が向けられました。「弟子たちに」言った言葉でした。ここで「十字架」が登場します。これは、すでに10章でも登場した内容でした。地上に平和をもたらすために自分は来たのではない、と言ったことに続いて告げます。
 
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
 
これは重ねて16章でも告げられますから、教会の一定の理解のために重要な内容であったかと思われます。
 
16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
 
こうした箇所こで「命」と訳されている言葉は「プシュケー」です。永遠の命をイメージさせることの強い「ゾーエー」ではありません。ギリシア語としては元来「魂」を意味する語であり、二元論的に言えば、「肉」と対照的なものを指しますが、新約聖書では肉体と霊魂との分離を最初から考えないため、この生きている体をも含めた霊的存在としての人間を指すことが殆どです。そのため、「命」を救いたいことと「命」を失うということとで、言葉の上での区別はありません。同じ語で表現しながら、微妙にその概念を変更しているとすべきでしょう。つまり、永遠の命のためには、キリストのためにこの肉体的な生命を失ったとしても大丈夫だ、というのです。
 
私たちに、十字架を背負うことを勧めたのは、この命を救うためでした。イエスが十字架で命を落としますが、その向こうに、永遠の命がある、という流れを作りたかったのではないかと推測しますが、あいにくどちらの「命」も「プシュケー」でした。
 
この後イエスは、黙示録にあるかのような終末の幻をわずかに思い描き、弟子たちに伝えます。これもマタイの教会の考えたこと、後の時代に納得したイエスの教えの記録であるのかもしれません。しかし、今回はそれを解釈しようとするのではなく、ここから私たちが十字架を背負うことに立ち上がることを目的としています。そこで、もう一度「十字架を背負う」というところに戻りましょう。
 
16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
 
イエスについて行きたいと思うのでなければ、この服従は要求されていません。だからとりあえず、「ついて行けへんわぁ」と怯むキリスト教徒は心配するには及びません。
 
この十字架というのは、最初に一般的な表現の中で挙げたように、自分の背負った運命ではありますが、故なくして濡れ衣として負うものではないでしょう。当然自分が負わねばならないものです。それはわざわざ「自分の」と付けられている点、ただの運命でもありません。誰のせいでもない、自分の故に背負うものだ、と理解したいところです。ほかならぬ自分の故に自分が背負うことになった十字架。私たちはいったい、このことをどれくらい真摯に感じているでしょうか。「イエスが私の罪のために死んでくださった」と言うことの意味を私は否定しませんが、ほんとうに自分がその死の罰を受ける者だということを、どこまで感じているかどうか、そこを問いたいと思います。「ほんとうはここまで私は悪くないんだけどね」という本音を持っているとすれば、それは残念ながらもはやキリスト者ではない、とまで言いたいと思います。あまりにも軽薄であり、無責任だからです。私はとにかく裁かれて当たり前の者なのだ、というところに徹底して立つことがなければ、聖書を読んでも、単なるお話に過ぎないのです。
 
それでも、ここに罠があります。この理解すら、ひとつの教義になってしまい、そのように口では答える、ということを私たちはしてしまうことができるからです。どんなに真摯に考えたとしても、最後はお決まりの文句を唱えて、それで終わり。唱えることで安心する、というふうになりがちなのです。それは、「主の祈り」を教会の礼拝で毎週唱えていると、ただの暗記項目になってしまい、惰性で言っておしまい、というふうになる可能性があることと同じです。聖餐式もそう。すべてやがて形式だけのものとなってしまいがちなのです。
 
私たちは一人ひとり、「自分の十字架を背負う」ことについて捉えてよいのです。但し、紛れもなく、借り物ではない自分自身の捉え方です。この意味はこうである、という束縛からは逃れてよいのです。知識として、こういう意味である、としてしまったとき、「自分の十字架」ではなくなってしまいます。私たちは、ただ腕組みをしてそれを眺めているだけだという、対象物に過ぎないものとして、十字架も、自分から離れたものとなってしまう危険性があるのです。
 
そうです。問いかけます。私も問われます。十字架を、他人事として見ていないだろうか。誰かが災害に遭う。犯罪の被害者となる。不運な事故に遭う。感染症の拡大のために仕事を失う、あるいは経済的に苦境に陥る。医療従事者が差別された末に、中途半端な口先だけの尊敬を受ける。誰かが苦しんでいる。でも、自分じゃない。
 
いや、自分も苦しんでいる。それも本当だろうと思います。けれども、苦しんでいる人は、別の人だとしか思えない。キリストの十字架はその人にも力になりうるものだ、と本当に信じているのかどうか、私は問われます。そして、私自身、この十字架を背負うことで、キリストの救いを与えられているのかどうか、問い直さなければならないと考えます。
 
聖書の中には、無数の「罪」が描かれています。「聖」なる書などとんでもないネーミングであり、これは「罪」のリストのようなものです。しかし、それもいつしか単なる知識となってしまう。知っているよ、その話。この人、だめだよね。そうやって、聖書を読んでいても、上滑りしながら、他人事としてしか読まなくなる。長く信徒を続けていると、特にそういう罠に陥ってしまいます。これこそ、まさに「サタン、引き下がれ」と言わねばならない場面です。
 
聖書を聞き慣れている人、先回りしていませんか。今日取り上げられた箇所はこういう話だ、このように説教では語られるのではないか、そこで言おうとしていることは知っているよ、などと、自分の中の考えに染めて、そのフィルターをかけて聞いていませんか。私は聞くことがあります。自分の枠で捉えてしまうのです。また、自分はそれとは違うな、などと批評まで始める始末。困ったものです。
 
でも、聖書の中に降り立って、その場面に確かにいるという聴き方をしたことも、もちろんありました。今日の場面だったら、ペトロになりやすいのでしょうね。でも、ペトロでなくてもいい。そこに居た弟子の一人として、ペトロの勇ましさをもちょっと見かけながら、イエスの質問に、何か当たり障りのないことを答えて、自分から突っ込むことはせずに傍観していたかもしれません。それでも、その場に居合わせたなら、それはそれでいいと思っています。確かにイエスを見ている。イエスの言うことを聞いている。キリストを信じるという思いをもつに至った人ならば、少なくともこの場面の中にいて、キリストの話を聞いている弟子の中の一人であるはずです。
 
私たちは、聖書の世界の出来事の、当事者であるはずです。観客でもなければ、批評家でもありません。イエスを前に緊張している、当事者です。その言葉を聞き漏らすまいと耳と目を向けている者です。イエスがこの弟子たちに向けて話したというのですから、私に向けても話しています。だから、「自分の十字架を背負う」というのが具体的にどんなことになるのか、自分においての意味は、まだよく分からなくてもよいのです。ただ聞いておきましょう。心に刻んでおきましょう。私が勝手に考えたことではなく、イエスが語った言葉として、ストックを忘れないようにしましょう。
 
16:28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。
 
冒頭にある語は「アメーン」です。イエスが大切なことを宣言するときに言う言葉で、キリスト者はこの言葉を受け継いで、祈りの度毎に、また大切な宣言の時に、「アーメン」と口にします。「ここに一緒にいる人々」というのは、イエスの前にいる当事者のことです。物語を外から眺めているような人のことではありません。「ここ」、つまり話の現場に立っている者です。その中のある者は、「決して死なない」という言葉を投げかけてくれました。「人の子がその国と共に来るのを見るまでは」などと言いますが、神の国が実現したときに死ぬのではありません。「決して死を味わわないに決まっている」のです。力強い言葉であり、慰めの言葉です。それは命を得るということであり、自分の命を救いたいと思わなかった者のことです。
 
この素晴らしい結末を迎えるためには、イエスについて行くことが求められています。そのとき「自分を捨てる」ことが必要だと言います。自分が、自分が、という思考のスタートを取り除きます。そして「自分の十字架を背負う」のです。いえ、それは直ちに「イエスに従う」ことへと進展します。十字架を背負うのはどうだこうだと考えあぐねたり、迷ったりしないのです。そのまま直結して、「イエスに従う」ように促されています。「十字架」にばかり目が向きますし、事実ペトロも、イエスがなぶり殺しに遭うことを耳にして、「そんなことがあってはならない」と人間ならば当然のような建前的なことを言いましたが、イエスはちゃんと「三日目に復活することになっている」とはっきり言っていたのでした。私たちが「十字架を背負う」のは辛いことには違いありませんが、三日目にはそれが復活の栄光の中に変わることになります。ほんの三日目です。その時まで、「イエスに従う」ことだけをモットーとして歩んでいく、それがキリスト者に与えられた使命であり、祝福となるというのでした。
 
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 
「十字架を背負う」ことがこの「重荷を負う」こととつながるならば、人口に膾炙したこの箇所も、同じ光の中で味わってみたいものだと思います。「十字架を背負う」ことは、私たちの祝福の道を歩くための、ほんのひとときの間の出来事に違いありません。主イエスがそのように約束しているのです。



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