病と聖書

2021年2月18日

風病(ふびょう)という病気があった、と平安時代の絵巻物にあるそうだ。体が始終震え、口が歪み、手足の麻痺が見られるという。どうやらいまの「風邪」ではないようだ。医療研究者立川昭二氏の見立てによると、「脳卒中」ではないかという。病気を起こす悪い風にあたったのだ、と見られていたらしい。
 
それが、江戸時代になると「中風」とも呼ばれるようになる。「中」は「あたる」と読む。「命中」や太陽の「南中」などでおなじみである。風に中ることで起こる病気だというのである。ちなみに、この人の解説によると、「にわかに」の「卒」の字がついて「卒中」ときたのであるという。
 
但し、江戸時代になると、これはもはや外からの風によるのではなく、内側から生じるものと理解されていたらしい。しかし症状としては、先に挙げたようなものとなり、時に「よいよい」などとも呼ばれた。これは私も聞いた言葉である。
 
漢方では、外から来る病気は風(ふう)、寒(かん)、熱(ねつ)、湿(しつ)などの「邪気」が体に取り憑いてひきおこすものと考えられていた。風の邪気からくるので「風邪」と書くのだが、これは本来病気の原因であったものであったという。
 
こうなると、この「風」とは何か、ということになる。それは姿が見えない。何か悪いものを運んできて、人を襲う。「風は百病の長」というのは、「酒は百薬の長」ほど有名ではないが、知られる言葉なのだそうだ。
 
もうピンと来ている方もいるはずだ。
 
主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。(サムエル上16:14)
 
サウルの場合は、精神的な病であると推測される。だが新約聖書ではどうだろう。
 
夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。(マタイ8:16)
 
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。(マタイ12:22)
 
必ずしも、精神的なものばかりではないことが分かる。人は、原因が定かでない病気については、悪霊のせいだとしたのではないかと思われる。何かしら原因や理由を求めるのは人間の性である。何か原因が理解できたならば、病気自体は治らなくても、精神的に安心できるのである。
 
そもそも病気の原因が判明してきたのは、西洋医学でも歴史的にさほど古い時代のことではない。パスツールが細菌の存在を明確にしたのは19世紀末であり、それまでは小さな生物すらどこからか湧いて出てくると信じられていたのである。ワクチンという考え方もパスツールに由来する。このような新しさの故に、明治期の日本人も、感染症の研究で世界的な業績をあげた北里柴三郎のような人物が現れることになる。
 
聖書の時代に「悪霊」とあるからと言って、未開文明だとか、科学の発達しない時代の迷信だ、などと言うことはできない、と私は考える。私たちも百年ほど前までは何も変わらなかったのだ。それどころか、新型コロナウイルスの感染拡大の中で飛んだ様々なデマには、容易に多くの知識人が引っかかっている。知事も妙なことを発表していたし、キリスト教のオピニオンリーダーも、平気でデマを拡散していた(いまもその修正やお詫びのようなものは出していない)。
 
それよりはむしろ「悪霊」と書いた聖書のほうが、よほど的を射ているようにすら見える。それは最初に挙げた「風」とつながることは、読まれた方はお感じになったことだろう。私たちの外から、あるいはどうかすると内から、「風」はやってくる。それに中ると病になる。「悪霊」もまた、外からくる、あるいは内に入ることで、その人を病に陥れる。つまりは神から引き離すということまで言い及ぶべきであろう。
 
聖書の文化では、「霊」と「風」が同じ語で表されていることは有名である。どちらかだけに訳しづらい箇所もある。中国人の捉え方もまた、自然神学的と呼ばれてもよいが、理に適ったものであったと言うべきではないかと思う。
 
世界を捉える言葉が変わったのである。かつての「悪霊」や「風」が、いまの科学ではどうかすると物質還元的には、脳内物質の影響であるとされるし、精神医学では心理学的な用語で説明されるかもしれない。しかしいまの研究成果が絶対不変の真理であるという保証はない。かつて「霊」「風」と呼ばれていたその事柄そのものは、いまも引き継がれていると見ることができるし、また見て然るべきではないだろうか。つまり、聖書に記録されている病の捉え方や、それに対するアプローチは、いまも何らかの形で活かされてよいのではないかと思うのである。
 
聖書は、いまのフィルターで見通すと、荒唐無稽な話や、ありえないような奇蹟の話で満ちている。だが、それらがただのお伽噺であるという理解は、いただけない。それは些か現代人には分かりにくい形となったかもしれないが、いまの人の心をも救う出来事となりうるのであり、また現になっている。一日に数万人という単位で、世界中のどこかでこの神の言葉を信じる人が増えている。それが実際、神の言葉の働きの、紛れもない証明になっている。
 
新型コロナウイルス感染症に苛まれるのが、この科学時代の人間の程度である。
 
コロナ禍と言われて一年。感染症の増加人数には私たちは連日目を注ぐが、死者の増加にはあまり目を留めないような報道や見識が目立つようになっていないだろうか。かつてのペストの記録を見るに、やはり死者の増加やその取扱いには、人は次第に無感覚になり、気に留めなくなっていく様子が明白である。ロンドンでも、毎日数千人の死者が出るために、今風に言うならばトラックに遺体を積んで、深い穴にいっせいに放り込んで埋めるということが繰り返されている。私たちは、最初に感染死した著名人には驚きその死の取扱いを悼んだが、その頃に比べて死者は格段に増えているというのに、だんだん無感覚になっていやしないだろうか。病院はそのために逼迫の度合いを一層に増し、葬儀場も感染症対策に圧迫されつつあるところが出てきている。だが政府と庶民は、ワクチン、ワクチンとばかり吠えている。ロンドンでも、こうすれば予防できる、という情報に、人々は振り回されつつ、慌てふためいている。但し、デフォーの記録によると、金を持つ人は、貧民に対して次々と施しをなして、貧しい人が生活できるようによく動いていたそうである。どれほどの痛みを、私たちはもって世界の中で生きているだろうか。私たちは17世紀のロンドンにも及ばないのかもしれない。



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