詞が先か、曲が先か

2021年2月14日

ヒット曲を生むソングライターには、詞も曲も自分でつくるというケースが少なくない。そのときしばしば、詞が先か、曲が先か、という質問が出たものだった。最近はあまり聞かないような気がする。
 
曲が先、という人が多かったように思う。すると、言葉が軽んじられている、と批判する識者も出てくる。今では名曲とされるような歌でも、以前の本で酷評がなされていた。言葉にはイントネーションというのがあるが、メロディがそれと逆についていると、聞き苦しくてたまらない、などと。
 
さて、私は中学生のときにソングライターを始めた。気持ちとしては、曲が先だった。しかし、積極的に詩を書いた。それは、中学一年生の最初の国語の授業のときに、国語的な目標を考えよという課題がN先生から与えられ、私は、文章をだらだら書くので、短く表現するために詩を書きたい、と発表したことも背景にあった (いままたこうしてだらだら書いているが)。そのため、高校在学中に、詞の数は千を数えた。そのあたりで、満足したのか、創作熱意は萎んでいった。いや、他の理由もあったのだが……。
 
ともかくそういうわけで、なるほど詞が先というソングもあるのだが、結局曲をつけないままの詞というのも数多いので、やはり私はタイプとしては曲が先なのだろうと思う。では、それだと詞を疎かにしていることになるのだろうか。
 
私はそうは思わない。曲に乗る言葉を考えているとき、様々な表現を考え、言葉を選ぶ。そうしているうちに、自分が本当に歌いたかったものが、寝られていくのである。自由に言葉を紡いでいるときよりも、思いついたメロディに制約された形で言葉をつなごうとするときに、いっそう洗練された言葉を見つける旅に出ることになるように思われるのだ。
 
いまその若さゆえの詞を見直すと、語彙力の幼さや、不必要な説明にあたる言葉の重なりなどが感じられ、恥ずかしい思いがするが、そこはそれ、経験を積んでおくと、自分の言葉を自ら批評する眼差しも育まれてくる。悪くなかった活動ではなかったかという感想をもつ。
 
さて、聖書には、150もの歌詞が集められた歌集がある。「詩編」と呼ばれている。長短様々、恐らく曲があったのだろうと言われている。そのとき、果たして詞が先だったのだろうか、曲が先だったのだろうか。
 
録音機器があるわけではない。その曲そのものは失われている。しかしイスラエルの音楽には独特の曲想があると感じる場合、古代イスラエルの詩編も、このような曲ではなかったのだろうか、と想像することができる。
 
この詩編には、ちょっとしたタイトルがついているものがある。しかし私たちのいま思うタイトルとは違い、この詩の歌われている情況は、こういう場面である、というような説明であることが多い。あるいは、多くの詩編の作者とされているダビデの名により「ダビデの詩」というようなタイトルも少なくない。
 
このタイトルに、ちょっと面白いものがある。新共同訳聖書から引用してみる。
 
22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
 v 45:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌。】
 
56:1 【指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。】
 
57:1 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。】
 
58:1 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。】
 
59:1 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。】
 
60:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教え。
 
69:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。ダビデの詩。】
 
80:1 【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。アサフの詩。賛歌。】
 
結局それらが何であるのかよく分からないのだが、どうやら曲が先にある場合がこれらだ、とは思えないだろうか。とくに「ゆり」は人気があるようだ。
 
私がソングライターを始めたとき、まずは替え歌づくりから始めた。既成のヒット曲のメロディに、自分の思う言葉を乗せて、詞はどのようなものなのか、体得していったのだ。だから、確かに私の中では、曲が先にあって、言葉を乗せるという形式で事を初めてしまっていたことになる。これは、曲をつくるのに長けていたというよりも、むしろ逆ではないかというふうに最近思っている。つまり、言葉を選ぶほうにこそ自分の本領があるものだから、曲という制約の中にあっても、自由に言葉を見出すことができるということだったのではないかと思えるのだ。
 
すでにあるものに合わせて創造ができるということは、制約の中でも自分の自由が発現できるということを意味する場合がある。聖書を信仰するなんて、束縛されるのではないか、と最初私は思っていたが、決してそんなことはないぞ、と妙な気づき方をしている昨今である。



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