どう読むか、ヨブ記

2021年1月29日

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」(『アンナ・カレーニナ』トルストイ/岩波文庫)
 
衝撃的な結末へ向けてひとりの女性の生涯を描く作品の冒頭は、この有名な言葉で始まる。不幸な人の話を聞くことで、辛くなる者もいれば、カタルシスを覚える者もいる。芸術体験も、ひとさまざまとなる。
 
旧約聖書にヨブ記というものがある。不思議な書だ。人間として申し分のない善人ヨブに、これでもかとばかりに不幸が押し寄せる。それは、サタンが神に対して、いくら義人とて、不幸な目に遭えば神を呪いなすぜと言ったことから、言うなれば神の賭が始まったようなドラマであった。
 
絵に描いたような不幸に苛まれたヨブは、それでも神を呪うことはしない。そこへヨブの友人たちが見舞いに来る。一週間座り込んだ末、この事態を考え抜いた友人たちは、ヨブに何か隠した罪があるだろうと迫るなどする。そうでなければ、ヨブに不幸が立て続けに起こる理由がない、と思ったのだ。
 
私たちもまた、不幸な出来事、理不尽な災難に対して、何かしら説明をしようとするものである。バチが当たった、という軽いものから、先祖に曰くのある祟りであるといった、重い何らかの理由づけまで、原因を考える。理由なしに物事が起こることについて、人間はどうにも我慢ならないらしい。
 
私たちの場合、その説明が完全な真理である必要はないものと思われる。何かしら説明がついて、その筋道を自己満足のようにでも、自ら納得できればよいのである。独断や思いこみであったとしても、それらしい説明ができれば、もやもやする必要がなくなるからだ。そして、この心理を突いたものとして、霊感商法というものが成り立っていた。近頃は流行らないが、キリスト教のようなふりをする、政治的組織は巧みにこうして人的資源と資金とを増やしていった。
 
ヨブ記の理解は、必ずしも統一されてはいない。ヨブ記というテクスト自体、議論の対象となる。いかにも、の大団円でよかったのか。いや、それが大団円であるならば、最初に死んだヨブの子どもたちは何だったのか。食いつこうと思えば、いくらでもツッコミ所がある。そもそもこのサタンとは何ものなのか、神はヨブの疑問に答えたと言えるのか、その神の強引な圧力にただヨブが屈したのは何故か、そんな内容的な問いかけはいくらでもできるだろうし、語義が正確に把握できないままに訳されているところが少なからずあるというのならば、果たして私たちが理解しているその言葉で捉えてよいのかどうかすら、分からない。
 
ひとは、それぞれに、ヨブ記と出会うしかないのではないか。ヨブ記はこういう意味ですよ、と何かしらの権威に説明されて、はぁそうですか、と理解するような書ではないのだ。それはそもそも聖書全般がそうである。聖書を客観的に調べたり説明したりしてくれる方々には本当に頭が下がる。しかし、そうした学的な場面でない読み方として、ヨブ記を通して神と出会う経験をもつのでなければならないと私は思う。
 
そうでない人が障害者と一括りに呼ぶその人々は、実は、否当たり前のことだが、一人ひとり、みな違う。ヨブ記と向き合う読者は、ヨブ記の神と、どんな出会い方をするだろうか。どんな出会い方でも、たぶんよいのだ。そして、他の人の出会い方について、共感したり反発したり、様々あってよいのだ。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と気にする必要はないだろうと私は捉える。「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と主は告げるからだ。一人ひとりの「証し」が異なるように、ヨブ記の中に立つ私たち一人ひとりもまた、見え方や感じ方が異なっていると思うのだ。
 
それぞれの痛みがあり、それぞれの苦しみがある。それぞれの悲しみがあり、それぞれの慰めがある。それぞれの不幸があるけれども、幸福への入口はひとつである。人間の社会の故に生きづらさがあるのだとしても、神との関わりの中では紛れもなく生かされているはずだ。
 
人間社会での不幸のひとつに、このように生きる関係の中にあるはずの教会において、生きづらさを覚える人が少なからずいるということがある。教会もまた、肉なる人間の集まりだから、互いに愚かなままに拙いことをやりあっていることも多々ある。そんなとき、しばしば私たちはただ人間ばかりしか見ていないことが多い。今、この目で主を仰ぎ見るようでありたいと心から思う。



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