ブロック考

2021年1月27日

幼い頃、ダイヤブロックが楽しかった。これを与えてくれた両親に感謝したい。思考や創造(想像)の力を養う、よい遊びだった。私が親となったら、子どもには、そのとき入手しやすかったレゴのほうを揃えたが、子どもたちも、豊かな創造性を育む背景となったのではないかと思っている。
 
いや、その「ブロック」ではない。今回のテーマは、インターネットにまつわる「ブロック」である。
 
ブラウザに、サイトのブロック機能がついているかと思う。これは重要なもので、危険を伴うサイトが予め分かっている場合、あるいは何かの機会に危ういものに迷い込んだり、そういうものが表示されたりしたときに、そのサイトを今後ブラウザが表示しないように登録しておくのである。そもそもアンチウィルスのソフトウェアは、そのメーカーに報告されたサイトについて、ソフト搭載のパソコンが表示しないように防御するというようなこともあるので助かっている。
 
他方、もっとこちらの意図でブロックをするということもある。SNS関係は、無造作に情報が入ってくるけれども、特定の人物やアカウントに対して、こちらに入って来ないようにブロックしてしまうことが、簡単にできるようになっている。自分と意見の違う人の投稿を見たくないばかりに、ブロックするという使い方が一般的であろう。ブロックされたことに気づきにくいやり方もあるし、明らかにブロックされたことが伝わりやすいものもあるようだ。概して、ブロックされたというのは、不愉快なものである。もちろん、それなりに相手を攻撃したが故にブロックされたのならば、仕方がない面もあるだろうが、どうして自分がブロックされなければならないか分からないような事態もあるだろう。
 
私も、SNSを利用している以上、ブロックをかけるということをしたことがある。たとえば、主観ではあるが、悪質と判断したもの。危険性を伴うと思われたもの。世界的に問題のある宗教活動をしているとされるグループが、組織的に迫ってきて、フレンドリーな関係を次々と求めてくるということがあった。さして気にせずに受け容れることもありうることではあるのだが、逆にこちらの名を利用されるようなことになるのも迷惑だと思い、概ねブロックをかけるようにしている。あるいは、フレンドリーな関係の申し出を拒否する。
 
また、こちらの居所や活動について、知られたくないという相手も、正直、いる。その経緯については説明しないが、世の中には、やはり危険な事態というのはあるもので、こちらの動向を追いかけられるのは不愉快であることは、あるものだ。
 
もうひとつ、頻繁に攻撃的発言をしかけてくる人も、ネット社会にはいるので、これも御免被りたい。私は批判されることについては、とくに感情的に憤るようなことはしたくないと考えている。しかし、理不尽な理屈をぶつけ続けたり、非常識と判断せざるをえないようなあり方で攻撃をし続けられると、いくら説明しても聞いてもらえないし、自分の言い分だけを、公開された場に一方的に並べられるとなると、他の閲覧者にも悪影響を与えかねない。
 
こうした場合があるのはあるけれども、私は殆どブロックをしかけることはしたくないと考えている。何か批判をされたからブロックする、ということだけは、特にするのは嫌だと考えている。
 
しかし世間では、実に気軽にブロックするように見受けられる。「牧師」と名のつく人にも、少し意見を言えば「うるさい」とばかりにブロックしてくる人たちがいたことには、少しばかり驚いた。その人たちには、この文章も見る機会がないはずだから、その非をここで問うても意味がないことになろう。
 
さて、聖書をどう読むか、これは様々な次元で問われることだろうが、そもそも聖書とは、清い美しい教えなのではない。そこに渦巻くのは、人間のどす黒い罪のカタログだ。そもそも「聖」という概念が、「分離」を基本としており、「特別扱い」と説明しても遠くないとすれば、人間を超越した神が、人間というどうしようもない存在を、そうした悪と苦しみのところから切り離していく営みをこそ、聖書は描き、また企図しているのだ、というふうに見なしてもよいのではないかと思われる。
 
そして、間違いなく自分もその中の登場人物のひとりだ、という自覚が、要求されていると言ってよい。自分だけは例外だ、などと、勝手に自分が自分を特別扱いするようなことこそ、聖書が、最悪の罪だとする範疇の行為であるのだろう。
 
神が求めているのは、どうしようもない自分を弁える姿勢であり、そのために、これでもかというほどに、人間の無様な記録を突きつけてくる。聖書を通じて、ここにおまえがいるだろう、と迫ってくる。つまり、聖書というのは、実に耳の痛い言葉ばかりなのだ。
 
聖書という本に載った記事は、はっきり言うと、絶対にブロックしたくなるような言葉だらけなのである。事実、歴代の王は預言者たちの言葉に背を向けることが多かったし、預言者の言葉を次々と焚きつけに使った王もいる。古くは、モーセの言葉にイスラエルの民は耳を貸さなかった様子も描かれている。度々、神の言葉に反するとこのように罰されるぞ、と分かりやすく脅されていても、それでも逆らうという、信じられないような人間の無様さがまた書き付けられる。いやはや、それが自分の姿だ、と読者は反吐が出そうになる。自分自身に対する反吐が。
 
こうして聖書というものを見ると、ネット社会で、実にお気軽にブロックする人は、聖書を読むタイプではない可能性が高いことが分かる(これは確実に当てはまる人がいる)。たとえば、聖書をその真の意味で聖書として読めていないのであろうと推測できる。自分に都合の悪いことはシャットアウトする。たえそれが適切な批判であっても、「うるさい」と、聞かなくて済むように操作する。だから、神の言葉も、自分に対してのものとしては受け取っていないことになる。これは誰か他人の、世間の奴らの悪を責めているのであって、俺はそうではない、と。
 
もしかすると私が、安易にブロックすることがないのは、こうした事情を感じていたからではないか、と気づかされるものである。



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