ワクチン信仰

2021年1月25日

新型コロナウイルスのワクチンが期待されている。詐欺まで発生しているが、それよりなお、政治や経済がワクチンを中心に回っているようなふうにも見えることが気になる。否、一人ひとりの意識が、ワクチンを絶対視していくように流されていないか、そこを私は最も懸念している。
 
ワクチンという考え方が実現したのは、18世紀の終わりである。イギリスのジェンナーが、天然痘に何故か感染しない人がいるとの情報から、その人がウシの病気、牛痘に感染していることをつきとめ、見出した感染予防法である。しかし、他の病気にもこの方法が有効であることはしばらく分からないでいた。人類は少しずつ、危険を冒しながら、様々な感染症に対するワクチンの知識と技術を得てきたのである。
 
外部からの攻撃に対して、一度は人体はある意味で負けたとしても、その敵に対応する抗体をつくりだす。これが、二度目の敵の侵入に対して免疫となり、病気の進行を留めるのだ。最近は「はたらく細胞」シリーズで、コミックスやアニメでもこうした知識が楽しく学べるようになったのがうれしい。人体の中で細胞が「はたらく」姿に、私などはアニメを見ていて泣けてきてたまらない。
 
さて、このワクチンであるが、当然、個体差がありうる。それは、その人間により働きに差異があるはずであるのと、敵なる菌やウイルスについても、変異種には効かないことが考えられるということである。インフルエンザの予防接種が、予想した型に応じて毎年種類を決めている故に、予想が外れると有効だと言えなくなるのがその例であるが、新型コロナウイルスについても、努力してつくったワクチンが、変異種に対してどうなるのか、分からないというのが実情ではないかと思われる。そして、当人の細胞性免疫の状態が様々である故に、一定の基準でつくられたワクチンが、その人に耐えられない攻撃をもたらすというケースも原理的に考えられるはずである。リスクの可能性はありうるというのが実情である。もちろん、全体としては大きな抑制力になっているとは言えるのだろうけれども。
 
もちろん、医療従事者や、高齢者、また特定の病気や体質をもつ人が、新型コロナウイルスに対する防御として、今回世界で供給の始まった幾つかのワクチンが役立つことを願っている。困難な方々に優先して、施されるとよいと思う。
 
しかし、どうもまたおかしな雰囲気があるのも事実である。ワクチンは万能ではない、という発言を封じるような空気が見られるのだ。万能ではない、というのは、上述のように、当たり前のことである。ワクチンは神ではない。だが、そんなけしからんことを言うな、言う奴はバカだ、という声があるのを私は見た。発言そのものを禁ずるつもりはないが、こうした強い圧力が世間を支配していくよくない雰囲気は、弁えておくべきものと考える。
 
つまり、広まっているのは「ワクチン信仰」なのである。
 
こうした信仰は怖い。そしてキリスト教会も、歴史の中で、これをやっていた。自分が信仰するのは自由だが、ひとに信仰を強要する。そして、信仰しない者を殺していく、あるいは糾弾する。人間は、古来相も変わらず、こうしたことをやってきたのであり、今の人間がそれから自由になっているようにも見えないという現実を見るのである。
 
また、ワクチンさえあればもう大丈夫、というのも問題である。これは厚生労働省自身、警告している。有効性と安全性にも、注意を促しているし、「ただし、ワクチンで感染が防げるかどうかは、この段階では分からない。(ワクチンの効果により発症しないが、感染してウイルスを持っている、という可能性も)」という指摘もある(「ワクチンの有効性・安全性と副反応のとらえ方について」)。つまり、ワクチンは発症を防ぐものの、キャリアとなることを否定することが難しいというわけで、ワクチンでもう自分は大丈夫だよ、と他人にウイルスをばらまくリスクを考慮しているのである。そうなると、「自分さえよければ」の発想で害悪を拡大することにもなりうるであろう。
 
ワクチンへの「信頼」をもつことが悪いとは思えない。だが、それがエスカレートしたという意味での「信仰」になると問題が出てくる。弱い立場の人々、できればワクチンを、大量接種可能な先進国のみならず、経済的な力をもたないような国々のお年寄りや子どもたちなどに、行き渡るようになってほしいし、人間が謙虚な心で、開発者や現場で働く方々に十分なリスペクトを払い支援するという動きが常にあってほしいと願う。
 
人間は「偶像」を好む。イスラエルの歴史が、絶えず「偶像」との闘いであったことを知る者は、いまの私たちがそれから免れているなどとは考えないはずだ。もしかするとワクチンを「偶像」にしてしまっていないか、冷静にお考え戴きたい。


※なお、医療従事者に先行接種、というのが思いやりの声のように聞こえているとしたら、それも問題である。十分な臨床期間を経ずしての見込み発進となった今回のワクチンについては、十分な安全性が確認されているとは言えない。つまり先行接種は、臨床実験の一部であるというのが医学界の常識である。希望制となっているようではあるが、事実上医療機関単位での強要となるのが実情であり、こうした、いかにも政治がきちんと対応しているというようなポーズが、単純に「善いこと」であるかのように見えることには、もっと警戒しなければならない。


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