コロナ禍における教会と信徒

2021年1月23日

コロナ禍の中での教会について、もっと考えなければなるまい。非難し合うのではなくて、どうすればよいのか、何が適切であるのか、案を提供し合い、行動してみなければなるまい。
 
教会には様々な立場や情況の人が集まっていた。信仰の共同体とそれは呼ばれ、「信仰は一つ」などと聖書にあるけれども、その信仰も様々である。教会や教団により様々であると共に、その一人ひとりもまた、様々に信仰が異なると見なすべきであろう。
 
2020年春のときも厳しかったが、感染の可能性からすると、2020年末から2021年にかけてのこの時期は、比較にならないほど深刻である。教会に集まることが相当な、現実的なリスクとなって目の前に立ちはだかっている。
 
礼拝はリモートて配信される。だが、年配の方に操作が難しい場合が多いし、そもそも機材がないという場合もある。オンライン前提で事を進めると、それから溢れる人を追い散らしてしまうことになる。本来、オンラインのできない人を標準に考えていくべきだったのだ。
 
事実、オンラインにライブで入ってきている人数は、さして多くない。教会側とすれば、これで信仰から離れていく信徒を懸念することになる。それは大問題だ。
 
信徒の側からすれば、やはりリモートだと面白くないというのもあるだろう。ライブの礼拝と同じには、やはりなりにくかろう。しかも、それ以前に問題がある。つまり、そもそも礼拝というものに関心があまりなかった、そういう会員が少なからずいたのではないか、という問題である。
 
信仰は人様々だと先に述べた。そう、教会にそれまで何故来ていたかということについて、意識の差があったことが、ここではっきりするケースがありうるのである。
 
個人的に、神とつながっていれば、基本的にどこにいても礼拝はできる。確かに仲間と会えないというのは、愉快なことではないが、その場、その時に礼拝をすることは可能である。何より、神との関係が変わるというわけではない。
 
しかし、教会がサークル活動のようなものだと受け止めていた人がいたとすれば、会えないということは辛いものでしかない。聖書のお話を聞く分は附録であり、まあそれも心が洗われるから聞いて損はないし、ためになるとは思っていても、せいぜいお付き合い程度に説教を聞いていて、それが終わった後、そこそこ善人たちと信頼おける交わりができ、そこで自分に何かできることをするとほめられたり感謝されたりするというのは、人間として心地よいものであろう。
 
中には、こうして付随的に学んでいる聖書のことを、自分は何でも分かるようになったぞ、と誇るようになる人もいる。これは厄介だ。信仰はないが、へたに知識が増すことにより、「自分はすごいことを知っている」「自分の考えは正しい」との一辺倒になっていくのだ。
 
それは極端な話であるが、ともかく気の合う仲間と定期的に出会えて、世間の嫌なことを少しでも忘れる時として日曜日を過ごしていたようなタイプの人だと、このリモート礼拝というものは意味がないことになるし、そもそも教会につながる意味が消え失せてしまうという可能性がある。きっと辛いことだろう。
 
牧師や関係者は、こうした人たちをつなぎ止めようと労することになるのだろうか。それは厄介であろう。神不在のつながりというものを、聖書は想定していないのである。  
こうして考えてみると、パウロであれ他の記者であれ、新約聖書の書簡というものが、急に切実に感じられることがあるようにも思われてくる。パウロがコリント教会に怒っているのも、信仰問題などと関係なく、楽しい仲良し倶楽部で運営しているような話に耐えられなかったからかもしれないし、ヤコブが貧者への差別的待遇に憤っているのも、人間の基準で運営されていたからかもしれない。同じ信仰をもっていると思い込んだ人間同士の中で違いが露わになると、仲間割れということになってしまうのも、当たり前と言えば当たり前である。
 
ただでさえ、キリスト教会は、信徒が減り、働き人がいなくなり、子どもたちの声も聞かれなくなってきていた。伝道しようにも、閉塞感ばかりが漂うというのが、この何十年かの有様であったとも言える。それがさらに、コロナ禍により危機に陥ってきて、組織が成り立たなくなりかねない情況になってきているのかもしれない。教会自体が淘汰されるのか、信徒が振り分けられていくようになるのか、そんな危機感も漂う昨今である。
 
いやはや、悲観的なことばかり言ってしまった。自分のことは棚に上げて、ひとを裁くようなことを言っているように聞こえたかもしれない。自分がその例外であるとは微塵も考えていないのだが、確かに教会という組織が変容していくのは否めないだろう。企業のように、利益を上げることがその活動のベースにあるわけではないのが救いではあるが、少なくとも、従来の基準ではもう立ち行かないようになってきていることは間違いないようだ。
 
これまでとは別の基準や方法が求められることになるだろう。毎年の総会でも、「これまでと同じように」という話でなんとなく翌年も続かせようとしていたことが、もはやできなくなる。
 
だから、聖書の基準に戻ることを考える必要が、これほど求められる時もないだろうと考える。そして、聖書への信頼が、コロナ禍を乗りこえる知恵と力になるのだということを、オープンにしていくことが望ましいだろうと考える。医療の現場で働くキリスト者もいるが、たとえそこにいなくても、医療従事者を支え、社会を支えることへの発言と行動は、可能なはずである。不安な心へ希望をもたらすのが、キリスト教会ではなかっただろうか。教会が慌てふためいて、保身目的ばかりにばたばたしている場合ではない。
 
聖書の言葉が救いの言葉、命の言葉であるのなら、ここでこそ、輝くのではないだろうか。キリストの弟子として、私たちの働きが、用いられるのではないだろうか。ここに救いがある、ここに愛がある、といつも言っていたではないか。今こそ、教会とその信仰が、聖書を通じて、拡大する時ではないのだろうか。奇しくもパウロは、「疫病のような人間」だと、呼ばれていたではないか。ウイルスの拡大は避けたいが、神の救いは拡大できるはずではないか。



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