感染から礼拝へ

2021年1月19日

成人式に関して、若者の動きが大きかった。本人がどこかでウイルスを保持していた、しかし症状は出ない、そうした若者が移動した。そして集まった。久しぶりの再会に気を許し、マスクを外しての接触や、食事を共にしたことがあったと思われる。これがウイルスを広めた一因となった。そして、帰省したその若者が家族を訪ねていたら、その家族にウイルスを伝えた。そこからまた……。
 
福岡でも、新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。緊急事態宣言は、望まないのに受けたというような形になっているが、そのような若者の出入りが多かった福岡では、むしろ宣言が遅かったのかもしれない。民間の医院での検査も、明らかに陽性患者の出現頻度が増している。
 
感染者を責めるつもりはないが、感染者自身が考えてもらわないと、そして誰もが感染者になりうるのだということを一層考えないと、社会はすっかり変わってしまうことになる。いや、変わってよいのだ、というのもひとつの案だが、いろいろな意味で命が危ないのは事実である。
 
ウイルスは「感染する」と言う。「移る」とも言う。移動することからすると「伝わる」とも言ってよいだろうと思う。もちろん「伝える」のには意志が必要だが、「伝わる」ためには必ずしも「伝える」のでなくてもよいと考えてみよう。
 
教会は、キリスト教や聖書を「伝える」ことをひとつの目的としている共同体である。疫病と信仰とを同列に扱うのは顰蹙を買うかもしれないが、「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります」とテルティロが総督フェリクスに、パウロはこういう奴だと訴えている。キリスト教を拡大した最大の功労者が「疫病」と言われているくらいだから、ここはひとつ辛抱して戴こう。
 
キリスト教会は、去年の緊急事態宣言の時にも対応に苦慮した。しかし、リモートでのオンライン礼拝というあり方を模索したことで凌いだところが多かった。それは礼拝なのか、という問いも起こった。確かに、かつてオンラインでの法事を始めた先進的な寺院は、世間から不可思議な目で見られたし、教会も恐らく多くが、なんだそれは、と嗤っていたのではないかと思われる。それが、礼拝を同様にいま教会が普通にやっているのだから、やはりひとつ省みる必要があるだろう。同性愛者などに対して、いま味方だというような顔をしいるキリスト教会があるが、彼らを虐げてきたのはキリスト教自身であるということは、せめて弁えていた方がよい。
 
果たして礼拝とは何か。それが問われているのは確かである。しかし、教会は「福音」と称する、「良い知らせ」を届けるのもまた、大きな使命であることには違いない。このコロナ禍の中で、「福音を伝える」ということは、どうなっているだろうか。
 
「教会へ来てください」が言えなくなった。そこで、「オンラインを覗いてみてください」と言うことになる。だが、果たして見てくれるのだろうか。むしろ、すでに信者と言える人が、「他の教会の礼拝を見る機会ができた」と喜んでいる話はよく聞くくらいで、教会に関わるような声はあまり聞かれない。いろいろあるかもしれないが。
 
キリスト教系の学校が、教会の礼拝参加レポートを義務づけていることがあった。そこで、学生が教会に来るということがこれまであったが、新型コロナウイルスの感染拡大の中で、それがこの一年、ぱったりと途絶えた。ネット礼拝のレポートなるものがあるかどうかは知らないが、"教会に来ました"の印鑑かサインがもらえないからには、実施はなかなか難しいのではないかと想像する。ということは、教会に新規に訪れる、あるいは礼拝に参加する、そうした動きが、より少なくなっているということになるだろう。
 
同時に、教会側も、信徒の保持に奔走するのが精一杯で、いわゆる「伝道」というところに、全く手が回っていない、というのが実情ではないだろうか。もちろん、「教会」という名で十把一絡げに扱うつもりはないので、「うちはちがう」といったところも多々あるだろう。気に障ったらご容赦願いたい。
 
しかし、このような有様になった世の中だからこそ、キリスト教の教えや聖書の言葉は、伝わって然るべきものではないのだろうか。命懸けで信仰した1世紀の先輩たちの置かれた情況は、こんなものでは(という言い方は失礼な表現であることを承知の上で敢えて使う)なかったはずだ。その命すれすれの生活をしていた中でこそ、伝わった命の言葉は、いまも命を与える言葉として伝わり得るものだと信じているならば、福音書なり書簡なりに描かれたかつての神の働きは、いまも実現する、そう宣言できるのが、教会という存在ではないだろうか。
 
孫引きだが、キリスト教礼拝事典には、「礼拝」についてこのように書いてあるという。「キリスト教礼拝とは、『イエス・キリストを中心として行われる、神と神の民の公かつ共同の、出会いと交わりの出来事』である。」 私たちは、否、私は、この出会いと交わりを果たしているだろうか。それが現実になされる、出来事となっているだろうか。物理的に距離を置いたら、それはできない、と諦めろという結論を出す必要はない。
 
祈るのだ。疫病退散と祈って悪いとは言わないが、本質はそこではない。神と向き合う自分の霊が、祈るのだ。真理をもって礼拝する時は、かつてあったのだが、それは今もあるはずだ。「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:23)



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