【メッセージ】心の傷を癒すということ

2021年1月17日

(マタイ5:17-20)

すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(マタイ5:18)
 
「きゅうやくせいしょ」を漢字で書くとき「旧訳」と書く人がいます。キーボードから漢字変換をする時代になると、この間違いが確実に増えました。試しに検索してみると、あるわあるわ、ミッション系のM学院大学図書館サイトまでやらかしています。たぶん私もどこかでやっていることでしょう。
 
「訳」したのではなくて、「約束・契約」の「約」ですね。神と人との契約が聖書全編にわたりテーマとなっているのですが、それに新旧があるということで、旧約聖書と新約聖書があることになります。
 
しかし、この「旧」はもちろん「古い」意味を表します。キリスト教側からすれば、イエス・キリストを描いた新約聖書がメインになるという考え方をしますから、古い過ぎ去ったものとして、旧約聖書を見る、ということが分からないでもありません。けれども、その旧約聖書だけを聖典としている宗教があります。ユダヤ教です。一般的な名称として「旧約聖書」という名前が定着してしまうと、ユダヤ教は古い、という価値観をもたせてしまうのではないか。こうした観点から、近年これをキリスト教側からも「ヘブライ語聖書」というような言い方にしようという動きが見られます。が、長い間言い習わされた言葉の変更はなかなかできないようでもあります。ここからも、新約聖書との比較対照を旨とするため、「旧約」という表現を使うことにします。決して「古い」のでよくない、という意味をこめているつもりはないことを、予め弁解しておきます。
 
キリスト教は、まさに「キリスト」が主役ですから、新約聖書だけでよい、という考え方もあるでしょう。確かに、結婚式での引き出物でも「新約聖書」だけなのが多いのではないでしょうか。しかし、旧約聖書もセットになって教会の礼拝では必要とされますし、旧約聖書だけからの説教というのも当然あります。
 
新約聖書は、最初から「聖書」としていまのような聖典扱いをされていた訳ではありませんでした。いま新約聖書に収められている文書の中では、パウロ書簡が最初に書かれていたと言いますから、パウロの手紙がまず広く読まれて、キリストの救いのことが知れ渡っていったのであろうと思われます。パウロ亡き後、キリストの名の下に集まる共同体は、キリストの生涯と教えについてのばらばらの文献をまとめにかかり、福音書という、史上初の文学形態の作品が完成します。このとき、パウロにしても、福音書記者にしても、宣言しなければならなかったことは、このイエスこそ、ユダヤ人が、イスラエルの歴史の中できっと現れると待ち望んでいた救い主キリスト、彼らの言葉で言えば「メシア」なのだ、という信仰でした。つまり、キリストとその教えが信じる対象であるという根拠は、イスラエルの歴史の中に求める必要があったわけで、それ故にそれが記されている旧約聖書は、イエスがキリストであるための前提とされたのです。イエスがキリストであるためには、旧約聖書が必要不可欠だったということになります。
 
新約聖書を開くと、最初に福音書が並びます。その冒頭の頁は、初心者を遠ざけるためにあるのではないかと思われるほどの、意味不明なカタカナの羅列。小説だったらもうこの時点でアウトです。誰も先を読んでくれません。なにもわざわざこのような始まりのマタイによる福音書を、四つの福音書のうち、最初に置かなくてもいいのに、と思いませんか。私も思います。けれども、マタイによるものが、おそらく新約聖書のトップを飾るに最適だったと考えられたのです。それは、四つのうちでマタイが、ごりごりのユダヤ教寄りだったからです。
 
旧約聖書の引用は、マタイによる福音書は60回ほどもあると言われます。つまり旧約聖書を知らないとそこに書いてある意味が分からないということで、ユダヤ人を対象に記された作品であることが明確です。神が預言者を通してその登場を約束した、救い主メシアがここに現れたのだ、ということを、なんとか説得したいのです。これらの文書が、いまのような「新約聖書」としてまとめられた背景には、正統的でないとされたグループが文書をまとめ始めたために、対抗してなされた、という事情があるようです。また、どの文書を神の言葉としてまとめるか、という点についても長い間論議がなされ、結論が出たのが4世紀末頃だと言われています。このための会議が幾度もあったとされ、こうしていわば人間の話し合いによって新約聖書が編集されたことに注目し、聖書は神の言葉ではなく人間が作ったものだ、という意見もありますが、この点だけでそのように言ってしまうのは、表面的に過ぎると私は考えます。しかしいまはそのような考えを説明する場ではありません。この聖書の言葉が、私たちにとり命をもたらすかどうか、そこが中心になるべき時です。
 
要するに、マタイによる福音書が、イエスが旧約聖書の権化であるということを非常に強く主張し、指し示すものだった、これが新約聖書の目的として最も大切なことだった、これをまず押さえておきたいということです。
 
さて、ようやく聖書に目を移します。マタイはこのいわゆる山上の説教で、イエスの教えの概観を伝えていますが、このイエスの発言の受け取り方について、大切な原則を挙げているのが、本日開かれた箇所です。
 
5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
 
「律法」というのは、旧約聖書のモーセの律法のことを基本的に指すのでしょうし、「預言者」というのは、預言の書の数々をいうのでしょうが、これらはいま私たちが考える「旧約聖書」のことだと理解してもらうのが最も適切だろうと思います。
 
これを廃止するのではなく、完成するのがイエスなのだ、と私たちは受け止めなければならないことになります。マタイの福音書は、イエスを信じる、あるいは信じようとするユダヤ人のために書かれたのだとすれば、この言葉は、「旧約聖書はもう要らないと考えるユダヤ人キリスト者がいた」という背景があったことを窺わせます。イエスが現れて新たな救いの時代になったからには、もう旧約聖書は関係がない、という考えが勢力を増していたと推測されます。それは、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」(19)とあるので、もう旧約聖書にある律法を守る必要は何もない、という自由主義的な思想が、教会共同体で小さからぬグループに育っていたと推測されるということです。
 
現代の私たちにも耳の痛い部分ではないでしょうか。私たちは、旧約聖書の律法は、もう過去のことであって、キリスト者はそれを守る必要はないのだ、という理解を一般にしています。その上で、聖書を信じ、聖書を生き方の基準にしようと思っています。いくらユダヤ人相手に語る文書であるとは分かっていても、その聖書が、旧約聖書を無視してはならない、と真正面からぶつけてくるのです。逃げようがありません。
 
確かに、細かな食物規定や衛生規定など、そして何よりささげものや神殿建設の詳細な命令を、いま私たちがその通りにするなどということは、考えられません。それは、二千年前の教会共同体にとってもそうだったことでしょう。事実、ユダヤ教自身でさえ、神殿のある地域から出ていかなければならなくなってからは、律法のような礼拝規定から離れ、いまのキリスト教会の礼拝がモデルとしたような、シナゴーグという会堂における祈りや説教という礼拝スタイルをとるように、すでにその時になっていたのです。律法を律法の規定通りに行うなど、どだい無理な話となっていたのです。
 
しかしマタイは、小さな掟を一つでも破ったら、神の国で小さくなってしまうぞと脅していることになります。まあ神の国から追い出されず、隅っこにでも置いてもらえるか、と安心することができるかもしれませんが、掟を守れという、その言葉の主眼をちゃと受け取らなければならないことは確かです。
 
マタイは、旧約聖書を棄てるな、と言っています。旧約聖書あってこそのキリスト教なのだぞ、と私たちにも告げていることになります。
 
5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
 
有名な「一点一画」は、「一つのイオタまたは一つのケライア」というのが原語の表現です。論議はありますが、「点と線」のような意味だと考えてよいと思われるため、「一点一画」というのは見事な訳だと思います。「永字八法」というように、漢字には8つの書法があるというのに対し、ヘブライ文字だと点と線だけ書ければ問題なく書けるため、この「一点一画」により、書かれた聖書のすべてがこめられていることが分かるということになります。
 
逆にいうと、ユダヤ文化では、一点一画を蔑ろにせず注意深く記すため、旧約聖書の写本には、めったに間違いがないと言われています。死海写本という、二千年前の聖書が戦後発見されましたが、驚くほど、何百年も後の聖書とそれと一致していることが分かったのです。一点一画を疎かにしない精神は、このイエスの、一点一画もという注意深さと重なって響いてくるような気がします。
 
マタイは、聖書の文字の一点一画も消え去りはしないと言い、他方この天地はやがて消え失せることになる、とも言いました。聖書はいつか完成する、つまり実現するのだとしますが、他の存在は廃れてしまうと告げています。
 
今日は1月17日。私には忘れることのできない日です。私は京都にいました。寝ていました。が、カタカタカタカタ……との小刻みな揺れで目が覚めました。分かります。地震です。「くる……」と、起き上がった状態で床を手で踏ん張り、すぐ見えるところで寝ている子どもたちのほうに目を向けました。小さい子を庇う姿勢をとりました。
 
すると、ドーンという音が来て、下から突き上げられました。それまで経験したことのない動きでした。本棚から、本とビデオテープが降ってきました。高い位置にあった立方体形のテレビに警戒しました。これがもし飛んできたら命が危ない。幸い、それは降ってきませんでした。
 
まだ6時前でした。真っ暗でした。何度か揺れに身を任せるしかないままでしたが、鉄筋の建物そのものは壊れることがなく、安心しました。すぐにテレビのスイッチを入れますと、さすがNHK、情況を伝える報道が始まりました。各地の震度が発表されました。今日は震度5。当時は5強・5弱という区別はまだなく、この地震の後で細かく分けられました。恐らく強にあたるだろうと思います。兵庫県南部が震央であろうことは分かりましたが、神戸からの情報が入ってこない、とテレビでデータの空白が見られました。震度の情報としては、6は確実に地図にあっただろうと思います。もしかすると、その時点で7という数字があったかどうか、そこは記憶にありません。
 
私は嫌な予感がしました。神戸が壊滅している可能性がある。そこからはテレビを点けっぱなしでしたが、情報の入らない神戸にいたNHK記者の電話が生々しく聞こえました。灯りが消えていることと、火災らしいものが見られるとのことでした。
 
翌日、日本中のテレビは、朝から止むことなく、神戸の火災のありさまと、倒れたビルや線路などの映像を伝え続けました。
 
阪神淡路大震災。当初は、兵庫県南部地震と呼ばれ、いまも正式名称はそれですが、関東大震災に比すべき大震災となった、地震による災害が、この時始まりました。
 
大好きだった神戸の街。妻とも幾度訪れたか。メリケン波止場やポートピアランド、カベナンター書店やにしむら珈琲、いろいろな風景が頭を過ぎります。ようやく1年後、半壊のような状態で営業した三宮そごうに出向き、いくらかでもお金を落としてから福岡に戻ることになったのですが、それまで直接行くことはできませんでした。わずかではありますが、義捐金という形で、赤ちゃんのオムツ代に役立てばと送りました。
 
阪神淡路大震災について知ることを話せば、終わりがありません。職場からも支援に走る仲間がいたのですが、京都の教会の牧師も何度か出向きました。同じ群れの教会が神戸にもあって、その牧師がボランティアの陣頭指揮をとり、後に『神さまが司令官』というレポートを発行しています。教会では、当時の「聖歌」も使っていたので、よく397番「とおきくにや」を賛美しました。関東大震災直後、宣教師マーティンによって生まれた賛美です。「揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり」とのフレーズが、心を締めつけます。
 
キリスト者も、悲惨と絶望の中に置かれたかと思います。しかしまた、十字架を見上げる信仰も与えられたとも聞きます。福音歌手・森祐理さんは、この地震で弟を喪いました。すでに歌う仕事にありましたが、この哀しみを、震災にうちひしがれた人々に希望を届ける歌へと変えて活動します。この運動は、その後世界各地の地震の現場でも行われ続け、幾度も訪れた台湾の外交部(外務省)から2019年に勲章を受けています。ラジオでは、夜の9:30というラジオのゴールデンタイムとも言うべき時刻で30分間、神戸のラジオ関西で2014年から「モリユリのこころのメロディ」という番組を続けています。聖書を開き、イエスさまと繰り返し、福音を告げ、ゲストには信徒や牧師を呼び、人々に癒しと慰めを与え続けているのは、殆ど奇蹟のようなものではないかと私は思っています。一度私の送った長いメールを、番組で数分間読んで戴いたこともあります。先日1月14日の放送は、この震災を振り返る、実にしみじみと良い内容の番組となっていたと思います。ウェブサイトを通じて、どの地域からでも聴くことが可能です。どうぞ触れてみてください。
 
震災がこの番組の大きな契機でした。「揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり」という言葉に、森祐理さんのこの番組とその活動が、いつも重なって見えてくるのです。
 
それから、昨年ドラマにもなった、安克昌(あんかつまさ)さんの『心の傷を癒すということ』(作品者)という本ですが、強くお薦めしたい本のひとつです。このドラマ化に関する情報も含めて、2020年1月17日付で、新たに「増補版」してまた出版されています。但し、いまは本の紹介をする場面ではありませんから、その中身をここでお話しするつもりはありません。精神医として、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」という言葉を全国に知らしめたことはお伝えしておきましょう。また、被災者に「寄り添う」というように、キリスト教会が気軽に口にすることを戒めたいと思ってはおりますが、その「寄り添う」ことを現場で深く考え実行し、提言したのが、ほかならぬこの安克昌さんでした。このようにして、この後、災害をはじめとした心の傷の治療において、絶大な貢献を果たした人だと言えるでしょう。ただ、ドラマでも描かれていましたが、震災後5年余りで、癌のために39歳で亡くなったことは、残念で仕方がありません。
 
その『心の傷を癒すということ』の中で、安克昌さんがPTSDのことを学んだという本のことが書かれていました。ラファエルの『災害の襲うとき』(みすず書房です。オーストラリアの精神医学者の本です。
 
さて、聖書に戻りますが、旧約聖書の一点一画も消え去らないと言いましたが、キリスト教とは関係がなくても、このような災害に対する人々の悲しみやそれへの対処、助け合いということについては、教会も深く学ばなければなりません。聖書を振りかざして、自分が特別なんだみたいな発言も、ネット社会には頻繁に見られることを残念に思います。自分が新たに知ったこと、自分だけが得た情報が素晴らしいと思うのは結構ですが、そのとたんにそれを知らない人を蔑むような精神状態に、人間は陥りやすいものです。聖書を信じたところで、人間が偉くなったわけではないのです。
 
新約聖書の世界を知った者が、とたんに旧約聖書を蔑んだり、時代遅れだとか、意味がないとか思ったりしたような事実が、きっと過去にあったと思います。マタイはそれへの強烈な戒めも、ここにこめたのだと想像します。だからこそ、旧約聖書は廃れない、とここに述べ、イエス・キリストが旧約聖書を完成したのだ、と説いたのだと思うのです。
 
5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない
 
律法学者やファリサイ派の人々を、極端に悪く言い放ったのもマタイです。しかし、彼らの義しさもこのように認めていると思われます。彼らの知る義を軽視してはならない。それは旧約聖書なのだから。現代の教会も、この余の学術や知恵といったものに、十分な尊敬を払うべきことを、いま一度噛みしめたいものだと思います。特にこのような災害に見舞われた中で、人の心を助けようとするときには、なおさらです。むしろ教会が世の中から学びつつ、教えられつつ、なおかつ「揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり」と、十字架を見上げて歩むこと、またそのように歩めることを伝え、受け容れた人に対しては共に歩こうと支え合うようでありたいと思うのです。
 
災害は、地震だけではありません。コロナ禍と呼ばれる現状は、まさに「禍」であり、災害のひとつです。まさにその病により苦しむ方々、経済的に破綻した方々、また病人や社会を支える務めに忙殺される方々、なすべきことができずに呆然と立ち尽くした方々、皆、辛い災害の中で苦しんでいます。心が不安に支配されています。
 
教会に、何ができるのでしょうか。礼拝ができないとか、誰それの考えが間違っているとか、自分たちだけ、あるいは自分だけの正義を主張することに心を奪われてしまっていないでしょうか。むしろ、このような禍の中であるからこそ、迫害のときにも貧困のときにも生きぬいてきた信仰をもつ教会という存在が、希望を掲げていく存在として、輝くことができるのだと、神に期待されているのではないでしょうか。教会が十字架を掲げて、ここが教会だよと世間に証ししているのだとしたら、まさに「なお十字架は輝けり」と、神の言葉を完成する業への、同労者となりたいものではありませんか。そう、気をつけましょう。「教会」というのは、建物のことではないし、組織のことでもありません。「教会」とはキリストの名のもとに集う人のことであり、私たち一人ひとり、あなたであり、私であるのです。あなたに、私に、神が期待をかけているということを、感じとろうではありませんか。聖書から、その声を聞こうではありませんか。聖書の文字は、一点一画たりとも、消え去ることは、ないのですから。



※ この震災の日が、ちょうど日曜日の礼拝の日にあたりました。なにも、説教で取り上げてくれとは申しませんが、祈りの片隅にでも、置いてほしかった。いまも辛い方々が大勢いる、大きな災害であり、朝から報道も絶え間なくなされていたのに、教会の中では、すっかり風化しているか、あるいは、全くの他人事というようにしか思われていないことがあるのだと、悲しく思いました。


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