気持ち

2021年1月15日

精一が「しゃがみこんだ」のはなぜですか。
 
小四の国語の教材での問い。多くの子は、このように答える。「父親がみの虫になっていたから。」その様子を見て、精一はしゃがみこんだのだ。
 
一見、正解であるようにも見える。だがこれは正解にするわけにはゆかない。「なぜか」という「理由」を尋ねる問題である。そこで並べてみる。「父親がみの虫になっていた」→「しゃがみこんだ」、前者が後者の「理由」に、なっているだろうか。なっていない。しゃがみこんだ遠い原因であることは認めるが、しゃがみこむ行動を起こした理由は、ここには何も説明されていない。
 
人間は、なんらかの「気持ち」によって、行動する。それは感情であっても、思想であってもよいが、とにかく行動を起こす「気持ち」を端的な答えとしなければならない。従ってここでは、「父親がみの虫になっているのを見て、ショックを受けたから」といった解答が要求される。「ショック」のあたりは、多少揺らぎがあるだろう。「悲しくなった」が悪いということはない。しかしとにかく、何らかの「気持ち」に言及しないと「理由」にならないのである。
 
受験の国語の訓練を受けると、このようなことは常識として学ばれ、次第に子どもたちは「気持ち」を書くようになる。では最初子どもたちは、どうしてこの「気持ち」を記そうとしないのか。それは、「父親がみの虫になっていた」ならば「しゃがみこむ」のが、当然の成り行きのように、つい自分の中で結びつけてしまっていたからである。だって「当たり前」やん、とでも言いたげに、分かり切った「ショック」などをわざわざ説明する気にならないのである。
 
私たちは、ある事柄Aをすると、結果としてBが伴う、という脈絡を考え、期待することがある。しかし、AがBの「理由」になっていると考えるのは、極めて恣意的な、あるいは希望的観測に基づく場合が多々ある。「教会で良い説教をする」ならば「信じる人が増える」、などと教会で話が出ることがあるが、ここに実は直接的な繋がりはない。これらの間に「気持ち」が考えられていないからである。あるいは、そこに「気持ち」が必要であることを、教会の人間としては「当たり前」だと思い込んでしまっているからである。
 
「教会で良い説教をする」と、それに「感動して」、その結果「信じる人が増える」という脈絡を、教会側の人間は、「当たり前」だとしているから、牧師に「良い説教をしてください」などと無責任な要求をする。しかし、「感動する」かどうかは、「良い説教」で必ず起こるものではない。それは教会サイドからの希望であり、願望ではあっても、必然性を伴うものではない。父親がみの虫になっていても、しゃがみこまず、呆然と立ち尽くしているかもしれないし、みの虫に殴りかかっていくかもしれないのである。
 
それなのに、「信じる人が増えない」が故に(論理的に)「牧師の説教が良くない」という結論を下すような判断を、人はやりがちである。そうして、怒りの感情に支配されるということさえ、起こってしまう。そんな怒りは不条理である。私たちは、自分勝手に筋道を飛躍して、思い込んでしまうことを自覚しなければならない。彼女にプレゼントをしたら、自分を好きになってくれる、という期待をするのは構わないが、プレゼントをしても好きになってくれない、と怒るようなことをしてはならないのだ。
 
希望や願望をもつのは構わない。だが、その実現には、ひとの心という課題がある。ひとの心は、期待したとおりに動くものではないからだ。新約聖書の書簡には、ずいぶんな苦言が吐き出されている。さも理想的な教えがあるかのように見えるときも、それに反した現状があったからだと推測される。キリストの名のもとに集まった人々も、その心がすんなりと良好な結果を導いたということではないだろうと思う。
 
「あたま」でこうなるに違いないとか、こうあるべきだなどという考えが達者な人は少なくないが、「こころ」がまるで分からないという場合は、分断や崩壊を招くことになりかねない。
 
それは、私自身がこのことに気づいていなかったが故にまずいことを繰り返していたので、よく分かる。キリストに出会い、気づくようになった。もちろん、それはまずいことをしなくなった、という意味ではない。繰り返す度合いが減った、という程度である。相変わらずそういう者でしかないのだから、私という存在は、ずいぶんと扱いにくいものなのだろうと思う。
 
さて、あなたはどうだろうか。



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