【メッセージ】あなたはアーチスト

2021年1月10日

(マタイ4:1-17)

そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:11)
 
「聖書の言葉はすべて正しい」とする考え方があります。強い信仰だと思います。けれども、実際それには賛否両論あります。信じていない人からすれば、当然そんなふうには思えません。また、そのように言うことは危険だ、という声があるかもしれません。キリスト教を信じている人の中にも、そのように言い切ることは無理だというように、条件付きでのみ認めるという人もたくさんいるでしょう。他方、「誤りがない」ということも、その通りだと主張するグループがあるのも事実です。
 
こうした主張は、その言葉の一つひとつの語の意味が何を指しているかにより、対立することがしばしばあるため、いまここでどちらが正しいなどという話をするつもりは全くありません。そもそもこの「聖書」というものが何を指しているかさえ、明らかではないのです。翻訳の聖書でもよいのか、いろいろ翻訳で違う言葉もあるがどうなのか、たとえ原典だとしても、無数の写本しか私たちは知らないので、そのどれもがそうなのか、などと考え始めると、収拾がつかなくなるはずです。
 
そして「神の言葉」というのはどういうことなのか、それも曖昧です。ただ、いずれにしても、「聖書は神の言葉」ということを、科学的な命題のように扱って処理しようとすることが適切であるようには思えません。
 
だから、聖書のこの言葉の意味はこうである、と述べたその瞬間、その意味の説明は、述べたその人を通して現れたものであるわけで、その説明には「人間」がプラスされていることになります。
 
いったい、聖書そのものというような概念が成立するのかどうか。ひとつの物としての聖書がオリジナルとして推定されるとする研究者もいます。その原典なるものを考えて、そこに神の言葉を見ようとする方法もあるでしょう。恐らくそこへ心を向けて、解釈者は、原文について文法的知識を駆使し、語学や他の文献資料その他の知識を総動員して、聖書を解釈する道を紹介してくれます。このギリシア語の時制はどうだ、単数か複数かで意味が違う、などと驚異的な知識を並べることで、その解釈が正しいことを説得しにかかるのです。
 
その姿勢に感服します。そして、その姿勢こそまさに、「聖書は神の言葉であり、すべて正しい」ということの実証であるように思えてならなくなります。このような研究者こそ、神の言葉への信仰が半端ないものだと感動するのです。
 
けれども、私はその意味では、そこまでの聖書信仰をもつことができません。いえ、誤解なさらないように。聖書を信じていない、と言っているのではないのです。聖書には2万以上の写本があると言われますが、そのどれが正しいとか誤っているとかいうことを決める必要もなく、従って一定の形の文献資料だけが神の言葉であるというような見方をしたくないと考えているのです。分かりやすくいうと、書かれたものとしての新約聖書の形において神の言葉が定まるのではなくて、そこから読み手がいるところに、読み手との関係の中にその都度そこに生じるものとして、神の言葉が生きるのではないか、そしてその読み手を生かすのではないか、というようなことを考えているのが私の聖書観です。
 
さて、今日はここから、賛美というものに注目します。イエスと弟子たちは賛美の歌を歌いながら歩いたそうですし、牢に入れられた使徒たちも、賛美の歌で互いを励ましたような記事が聖書には残っています。私たちの礼拝の中でも、賛美の歌が歌われるのが普通です。「普通」という理由は、ろう教会の一部では、賛美がないということもあると聞くからです。礼拝はそもそも、神から人へ、という方向のプログラムと、人から神へ、という方法のプログラムとが交互に置かれることで、神と人との間の交わりがなされるという営みでありますが、賛美は人から神へ向けての呼びかけでありほめたたえるひとときであると見ることができるでしょう。
 
この賛美、いわゆる歌という形でなされ、人の感情をも豊かに交えてなされるようになっています。プロテスタントの創始者と言われるルターは、音楽の才能があり、新しく賛美をつくるということへの道を拓いたとともに、それまで詠唱者だけが歌い会衆はそれを聞くだけという形での礼拝から、会衆皆が歌うというように変えていったと言われています。ルターと並び称されるカルヴァンのほうは、聖書の詩編の言葉を歌うほかは認めなかったといいますから、ルターの音楽性というものが、いまの私たちに大きな影響を与えていることが分かります。
 
私たちは賛美歌を楽譜として所有しています。当たり前のようですが、この譜面での記録というのは、画期的なものでした。グレゴリオ聖歌の譜面が見つかり、それを私たちは再現することができるのはうれしいことでした。旧約聖書の詩編は間違いなくこうした聖歌集でしたが、残念ながらその譜面がなく、もちろん録音がなされている訳ではありませんので、どんな曲にどんな歌い方であったのか、伝え知ることができません。ダビデがどんな歌を歌っていたのか、タイムマシンがあればぜひ聴いてみたいと願うのですが、それは無理です。
 
楽譜ができてから、音楽を歴史に残すことができるようになりました。私たちの手許に賛美歌の楽譜があることで、いつでもどこでも皆で声を合わせて歌うことができるようになりました。
 
けれども、この楽譜の通りに、私たちは歌っているでしょうか。
 
歌が完璧にその音に合っているかどうかは難しいなぁ、と答える人もいるでしょう。カラオケの採点のように、音の高低や長さが正確であることが求められても、特別な人でなければなかなかそうは歌えないよな、と笑う声が聞こえてきそうです。
 
いえ、そういう問題ではないのです。断言しますが、私たちは楽譜の通りには歌っていません。奏楽者も、楽譜の通りには演奏していません。
 
そんなバカな、とお思いでしょうか。前奏から歌の部分に入るとき、一瞬の「ため」が入らないでしょうか。わずかな間があって、そこで呼吸を整えてから、歌の部分に入りませんか。その他、フレーズの合間に、ごくわずかな間ではありますが、「ため」を置いて次の箇所を歌い始めるのが普通だと思うのです。
 
『よくわかる最新音楽の仕組みと科学』(岩宮眞一郎・秀和システム)によると、「実際にプロフェッショナルなミュージシャンの演奏を分析すると、ピッチやタイミングが楽譜から相当ずれている例もたくさんあります」(p178)といい、「コンピュータで律儀に楽譜通りに演奏した音楽と、プロフェッショナルなミュージシャンの演奏を聴き比べると」全く違うと教えてくれます。そして「演奏家が意図して楽譜からずらして音楽的に演奏することは、古くから知られており、【芸術的逸脱】と呼ばれてきました」と説明をしています。そしてテンポに「ゆらぎ」があり、それは「演奏者が意図したもので、この曲に対する解釈を演奏に表現した結果として生じたものです」(p179)と、譜面通りでない微妙なずれが、感動する音楽には欠かせないと教えています。
 
奏楽者がいない教会のために「ヒム・プレイヤー」なるものがありました。今でもあるのでしょうか。以前の世代のコンピュータの出す無機質な音で、讃美歌の譜面の音が全部収められているもので、それをならすと一緒に讃美歌が正しい音程で歌えるというものです。しかし、これは実に歌いにくいものでした。プログラムされている音もピッチも、譜面通り正確なのです。しかし、歌いにくいのです。
 
近年は、DTM(Desk Top Music)が盛んで、演奏ばかりか、ボーラロイドに歌わせることもひとつの芸術の域に届くような勢いですが、かつてはこの「ゆらぎ」がなく、味気なさを隠せないものがありましたが、最近はピッチのずらしなども調整して、より人間味のある演奏ができるようになってきているようです。しかしそのずれそのものを譜面とすることは、私たち人間に見せるものとしては相応しくないと思われます。つまり、私たちは、きっちりとした機械的な譜面を目の前に置いておきながら、歌うとき、演奏するときには、それを適宜ずらし、ゆらぎをもちつつ、曲を楽しんでいるのです。それが、人間の音楽の姿です。
 
注意すべきことですが、芸術的逸脱というのは、あくまでも楽譜をベースにしています。作曲者の指定した楽譜を無視して、全然違う音やリズムを刻むことは、ただの「逸脱」であり、もはやその曲ではなくなってしまうとすべきです。しかしジャズになると、このゆらぎがどこまで逸脱するか知れません。わずかなコードの指定があるだけど、あとは奏者のアドリブに任せるという手法もあるからです。そこまでいかなくても、楽譜の中に「ad lib」とあったら、演奏者のセンスやその場の雰囲気に合わせて、自由に演奏を許可するということになっており、偶然の要素を盛り込んだり、演奏者の感性に委ねたりということを以て、音楽を完成しようとする作曲者の意図を見ることができます。実に、音楽は、作曲者の定めた形と、現場の演奏者の感性とによる合作であり、どちらもが必要な要素となっていると言えそうです。
 
ただ楽譜がそこにあるだけでは、人は感動することができません。NHKの朝ドラ「エール」では、主人公が作曲した楽譜を担当者や作曲家に見せると、それをつらつらと眺めつつ、これはダメだとか、これはいいですよとか、直ちに返答するシーンが幾度もありました。音楽の分かる人はそうなのかもしれません。しかし一般的に言って、楽譜がそこにあってもひとは感動するものではありません。演奏者がその楽譜を演奏して、音にしてそれを聴いてこそひとは感動します。音楽ができあがります。その演奏というのは、すべてが即興で思いつきで、なんの基盤もなくなされたとすると、それほどの感動は与えられないでしょう。一定の曲、一定の譜面があり、それに則り、なおかつその譜面通りではない人間味があるところに、心が動かされるということがあるのだと思います。
 
いったいここまで、何を話してきたのでしょう。せっかく開かれた聖書については全く何も触れることなく、一方的に話し続けるなど、説教の風上にも置けません。今日は、有名な「荒野の誘惑」の箇所を読みました。洗礼者ヨハネより洗礼を受けて、イエスはいよいよ宣教に出ることになるのですが、その前に、ひとり荒野でいわば修行をします。これは恰も、ブッダが悟りを開く前に、苦行林で数年間耐えたということに比することもできるかようですが、ブッダの場合はそれの全否定により新たなステップに立ったのでした。イエスは、ある意味でこの荒野で見事に悪魔を撃退します。人間が陥りやすい誘惑を全部引き受けて、それを乗り越えたイエスによって、福音宣教が完全な形で始まることを予感させます。
 
四十日の断食ができるのかどうか、またその後に空腹を覚えるなど尋常ではないと思うかもしれませんが、四十というのがひとつの完全な苦難を越えるためのひとつの象徴になっていますので、このイエスはもうどんな悪魔の誘惑にも屈しない存在へと完成していったことを感じさせます。
 
悪魔が登場します。「誘惑する者」(3)といい「サタン」(10)ともいいますが、全部同じ相手を指しています。悪魔は、イエスに三つの角度から試します。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と、手を変え品を変え、イエスを陥れようとします。初めの二つでは「神の子なら」とにじり寄りますが、イエスは旧約聖書の言葉で撃退します。三つ目もそうですが、悪魔はより端的に、自分を拝めば世のすべてを与えよう、と、人間ならば簡単に落ちそうな誘いをもちかけてきます。イエスはどれも、聖書を適切に引用することで、神の力により悪魔の誘いにのらずに済みました。悪魔はこれでイエスを離れ去ったといいます。
 
イエスはこの後、ガリラヤのカファルナウムを拠点として、宣教活動を始めます。異邦人とも呼ばれたガリラヤでしたが、圧政と非難の中で苦しみを覚えていたこの地の民は、光を見ることになるとマタイは言いたいかのようです。洗礼者ヨハネのように、悔改めを求め、神の支配がもうここまで来ているのだと叫び、福音宣教が始まります。
 
今日は特に、悪魔の誘惑の二つ目に注目してみようと思います。
 
4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
 
これはほかの誘惑とは決定的に違うところがあります。それは、悪魔が、聖書の言葉を引用して誘惑しているという点です。第一の誘惑は、「空腹を凌ぐため」という目的によるものでした。第三の誘惑は、「この世の栄華を手にする」欲望をくすぐるものでした。しかしこの第二の誘惑は、飛び降りるという、凡そ誰もがしたがらないようなことをするように悪魔はイエスを誘うのです。普通ならば、飛び降りるなどする人はいません。求めもしません。しかし、悪魔は言うのです。「聖書に書いてあるじゃないか」と。
 
これは詩編91:11-12の引用だと考えられます。
 
91:11 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
91:12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
 
訳語の違いは、ギリシア語訳聖書の関係であるはずです。若干のアレンジはありますが、ギリシア語訳から引用したとして特に問題はないものとします。しかしとにかく、旧約聖書、当時は聖書と呼ばれていたすべての神の言葉の文書を悪魔はイエスに囁き、神の言葉がこう言っているではないか、と持ちかけるのです。
 
いまの私たちならば、撃退する方法も知っています。聖書に書いてあるとはいえ、その解釈の問題ではないか。聖書にあるからと言って、即座にその通りに行動せよというのはナンセンスだ、と。しかし、たとえば中世ヨーロッパの農民などには、聖書にこう書いてある、と言えば、人々は震え上がってそれに従うしかなかったことでしょう。領主や僧侶に逆らうなどできなかったと思います。けれども今の世なら、信じない者には、聖書に書いてあるよと話しても、「それがどうした」で終わるかもしれません。しかし神の子イエスにとっては、聖書の言葉、神の言葉に従わないことは、ありえないことと考えられました。悪魔はそこを突いたのです。
 
これはまた、ある意味で神の子だと称されている、私たちキリスト者にとっても、共通の問題となりえます。「聖書にはこう書いてある」、このように詰め寄られたときに、それを否定するような真似が、できるのかどうか。
 
悪い心をもった教職者が、このようにして信徒をたぶらかす――ありえないことではありません。性的虐待やそうした犯罪が、事実スキャンダルとして発覚した例が多数あります。隠れている事件はその何百倍あるか知れません。想像できます。聖書の言葉を何か使って、縛りにかかっている、その犯行現場。
 
いやはや、失礼なことばかり申し上げました。礼拝の説教としてあまり誉められたものではなかったかもしれません。しかし、現実の犯罪に直結するものではなかったとしても、「聖書にはこう書いてある」というのは、ネットの発言の中には、日々数えきれないほどに見られるものです。それは決まって、自分の言うことが正しい、ということを印象づけたいがためです。
 
どうして、「自分が間違っていた」という告白の中で、「聖書にはこう書いてある」が持ち出されないのでしょうか。「聖書にはこう書いてある」は、自分の正しさを相手に見せつけるためにばかり、用いられているような気がするのは、私の錯覚と偏見なのでしょうか。むしろそうであればよいのですが。
 
自分のために用いる聖書。自分を誇示するために道具として聖書の言葉を利用する。醜いことですが、私は、しばしばそれを目にし、耳にします。こうして聖書を偶像化し、その言葉を自分が正しく解釈している、とするのです。自分の読み方が正しい、ということは、自分こそ正しい、自分が神だ、という態度のように思えてなりません。
 
そのことの危険性を批判することも必要でしょうが、実はそれをぼやくためにここに聖書を開いたわけではありません。聖書の言葉とは何か、それを解釈する私たちは何か、いったい聖書のオリジナルテクストを探ることこそが、神の言葉の真実を求めることなのか、聖書はそのようにして読むものなのか、そこに目を向けたいと思うのです。
 
私たちは先に、賛美の歌に関して、楽譜と演奏家の話をしました。作曲家が譜面にしたためたそのメロディを、実際に音として形にするのがアーチストです。荒野において悪魔は、楽譜をイエスに示しました。楽譜にはこのように書いてあるじゃないか。楽譜通りに演奏しなきゃ。そうもちかけたのです。が、イエスは、その箇所の楽譜は、悪魔の示した楽譜とは別の箇所の演奏箇所の譜面を参考にして、この曲はおまえが言うように演奏するのではないことが、この別の譜面から明らかだ、と説明したのです。イエスは優れたアーチストとして、とにかくここの楽譜にはこう書いてあるじゃないか、の誘いより、優れた演奏を知っていたのです。
 
私たちは、聖書に権威があると信じている者です。それが、「聖書にはこう書いてある」式に、とにかくそこに書いてあるからと言って、その文字通りに辿ることがすべてだ、とすることが適切ではないのだ、といま強く感じている次第です。
 
では、聖書に従わないとでも言うのか。いえ、従うのです。ただ、機械的にその楽譜を再現したプレイヤーではとても歌えたものではないのと同様に、聖書の文字通りのことをするのが、私たちに課せられているわけではない、と考えるのです。歌いやすいように、またより曲想を理解し、人の感情や思いに響くように、「ため」をつくり、ピッチを少し変え、テンポや表情を微妙に変えて、演奏するアーチスト、それが私たちのあるべき姿なのではないかと思います。聖書という楽譜は、このアーチストの理解と演奏技術により、現実の音楽として奏でられます。聖書の言葉は、それを受け止め理解し、現実にしていく私たちの意志と行動、そして人生によって、現実のものとして表されていきます。聖書に書かれたテクストが楽譜であるならば、それを演奏する私たちが、その作曲されたものを現実にしていきます。それは私たちが自由気ままに楽譜を無視して演奏するのではなく、楽譜と演奏とが一体となったときに、初めて音が流れるように、聖書というテクストとそれに従って生きる私たちとが、共に働いて、一体となって、初めて神の言葉が実現するようになる、というありさまを示していることになるのです。
 
私たちは、聖書の言葉を実現するように、ここに呼び出されています。アーチストとして舞台に立ち、光を浴びています。楽譜にあるから楽譜通りに弾きたまえ、と強要されるのではなく、その楽譜を演奏するぞと決意しながら、その楽譜が自分ではどのように演奏できるのかを考え、自分にできるテクニックを用いて、作曲者の意図を尊重しながら、それでいてアーチストは自分らしい演奏をしていく。それがキリスト者の生き方となっていくわけです。
 
あなたの前に、まず楽譜があるか、確かめてください。聖書という楽譜です。あなたは最初はその音を拾うだけで精一杯でしょう。引っかかりながらも、なんとか音を出していこうと練習するのもよいと思います。何度も練習すると、スムーズに音が出せるようになるでしょう。さらに良い音が出せるように練習をしましょう。曲を理解し、曲を適切に表現すべく、自分だけにしかできない演奏をするように、あなたは期待されています。アドリブも許されています。但し、楽譜を勝手に解釈してでたらめな演奏をしてしまうと台なしです。自分がつくりかえた曲に変えてしまってはいけません。神の楽譜である聖書を、あなただけのステージで、演奏してください。さあ、演奏するのは、ほかでもない、あなたなのです。



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