YOASOBIとMr.Children

2021年1月7日

一週間前、紅白歌合戦を見ていた。近年はこれを見ながら、ある作業をすることを習慣としている。若い人の歌も、しばらく前と比べて、けっこう知っていると言えるようになった。あるいは、むしろ好きだ。
 
2020年は個人的に、ヨルシカにまず関心をもったが、マスコミにはYOASOBIがメジャー扱いされて広まったように見える。紅白歌合戦にまで出場して。「夜に駆ける」を歌った。若い世代の心に響くのは、そのサウンドもだが、やはり歌詞だろう。小説を題材にした詞に、テンポの速いサウンドをのせる。ライトノベルと呼んでよいのかどうか分からないが、若い世代の感性を豊かに反映したものなのだろう。私もかつてそんなふうに感じていたのだろうと思わせるものもあって、悪くない。
 
紅白歌合戦には、十数年ぶりだというが、Mr.Childrenも出場していた。新型コロナウイルスに喘ぐ人々に向けてのメッセージだという語りと共に、「生きることを切実に感じながら歌います」と言い、しっとりと「Documentary film」歌った。「夜に駆ける」と同じように、どこか閉鎖的な「僕」の心を描いていた。自分の心に素直に、君を思いつつ自分を見つめているという図式としては、決して遠くはないところを歌っているように思えたのだが、どうも何かが違うという気がして仕方がなかった。
 
ミスチルの桜井さんは、すでに50歳。いい大人であるのだが、若い感性を失わなわずに若い世代の共感をも得る力をもっている。それでいて、やはり大人と言えば大人だ。何が違うんだろうと少し考えた。理屈は言えないし、うまくも言えないのだが、ミスチルのほうでは、自分の心を描いているとはいえ、どこかそこに普遍性を見出そうとしている姿勢、少なくとも、そんな自分を客観視しているような眼差しがどこかにあるように感じられると思った。それに対してYOASOBIのほうでは、ひたすら自分の主観だけを歌い上げているような気がした。
 
それが中っているかどうかは分からない。また、自分の主観世界を描ききることが悪いなどとも少しも思わない。もし中っているとしても、それで良し悪しを求めようなどという気持ちはさらさらない。若さは、自分の思いがどうか、それがどう実現されるか、また自分の価値がどうなのか、自分を何を求めているのか、そんなことの答えが見つからないままに、がむしゃらに突っ走ったり、もがいたりすることがある。私がそうだったから、きっと今の若い人たちも、そういう経験をする時があるのだろうと思うだけだが、もちろん時代背景が違うし、環境の違いが、感性をすっかり別種のものにしてしまっているようにも思われる。結局のところ、何を言い当てるということもなく、私はいまただ、私の感じた、二つのアーチストの差異のようなものについて、何故そう感じるのだろう、と自分の感性を掴みきれないでもやもやしているだけなのかもしれない。
 
もちろん、自分に正直であることが悪いとは思わない。だが、自分を客観視する眼差しをもしも全くもっていなかったとしたら、少し危うい時があることを私は懸念する。自分だけの正義も、若くてエネルギッシュでよいことがあるけれど、大人という権威をもつようになってなお、自分が正義であり続けたとしたら、危険であることもある。
 
キリスト教会に来てそこを居場所とする人のうち、一定以上の割合の人が、何かしら心閉ざしたり、心的な病めいたものを抱えていたりいることは、否めないだろうと思う。そして、自分が正義となっていくようなグルーヴ(溝・ノリ)を含み有っているように思えてならないのだ。自分も間違いなくそうだったことがある。否、今がそうでないという保証もない。
 
しかし私のことは棚に上げても、キリスト教会が、概して自らを客観視できていないということは、おそらく適切な批判となりうるだろうと思えてならないのだ。少しばかり悲しいことだが。



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