【メッセージ】スタートライン

2021年1月3日

(マタイ3:13-17)

しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(マタイ3:15)
 
新しい年を迎えました。新しい年。それは何でしょう。どうしてこの日から新年が始まるのでしょうか。実はこれ、分かりやすい根拠がないようなのです。春分や秋分には明確な基準があります。暦も陰暦であれば、月との位置関係からの意味をもちますから、何かしらの説明が可能です。太陽暦でも、立春などは、小学生にも十分理解可能な説明ができるかと思います。けれどもこの一年の始まりについては、少なくとも、天文学的な根拠に基づいて決められているのではいないのだそうです。
 
昔の人は天体の運行になど疎かったんだろうね、なにしろ科学が発展していないから。そんなふうに考えてはいけません。大変精密な観測と計算がなされており、星座も古代ギリシア、惑星も十分その動きを把握していました。そもそも暦をつくるということ自体が、天体の動きによって定めるものであったわけです。東方の博士たちのエピソードも、その「占星術」とは天体観測に基づくもの、いまでいえば確かに天文学者の仕事をしていたのですから、けっしてこうした古代の文化を軽んじてはなりません。
 
ともかく、同じ元日ということは、太陽の周囲を公転する地球が、その日とほぼ同じ位置に戻ってきたということであり、何かしらまた1から数え直すということが、理に適っているというのは確かです。四季であるかどうかはさておき、気候の変化をもたらす季節がまた同じように循環することを知るというのは、人間にとり悪くありません。作物もそうやって、また同じように収穫できるのでしょうから。
 
こうして、また同じリズムで時が刻まれるということを人間は意識する。そのために、スターに戻るひとつの基準が必要でした。それがあれば、とにかく何があろうとまたリスタートできるわけです。
 
リスタートと言えば、かつて、ビデオゲームの流行に眉をひそめた大人たちがたくさんいました。子どもたちが、コンピュータのゲームのバーチャルな世界をリアルな世界にもちこんで、命についても簡単にリセットできるように思い込んでいる、とマスコミがセンセーショナルに報じたのです。えてして報道というものは、目立つことをよしとすることがあり、小さなことをも全体の出来事のように大きく映し出すことで注目を受けます。もちろん、子どもたちが皆、生き物を殺してもまた復活する、と思うようになったわけではありません。ただ、アンケートにそう答える子どもがいたのは確かです。アンケートの訊き方にもよるのでではないかと思いますが。

学校で事件が続いて起こるようなこともあり、命の教育が叫ばれるようになりました。なによりも命が大切、と子どもたちに教えることは必須となり、その成果はきっとあるだろうと思います。しかし、それが大人の建前であることや、何を以て命と呼ぶのかなど、追及すればたくさんの問題がそこに隠れていることは間違いありません。でもいまはその道には進まずに、そろそろ聖書の世界に潜り込んでいきましょう。
 
さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16)
 
この男は、財産を捨てよと言われて、悲しげにイエスの許を去っていきます。なんとも感慨深いエピソードですが、この話は、三つの共観福音書にはすべて収められています。ただそこには、このように「永遠の命」を求めたという話はこのひとつしかありません。むしろ「永遠の命」と聞けば、私たちはどうしてもヨハネによる福音書を思い起こすのではないでしょうか。
 
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
 
小聖書とも称される、福音のエッセンスであるようなこの言葉は、ぜひ頭に置いてください。聖書の言葉で覚えるのは、これだけでもよいですから。
 
キリスト者はこの言葉のイメージがあまりに強いので、「永遠の命」と言えばヨハネによる福音書だ、とまで思います。しかし事実、ヨハネによる福音書と、ヨハネの第一の手紙とだけで、新約聖書の「永遠の命」という言葉の半分をもっていますので、そのイメージは、やはりヨハネのせいのようです。新約聖書の中の「永遠の命」には、偏りがあります。
 
マタイによる福音書を今日は開きましたが、そこでは、洗礼者ヨハネという人物が出て来ます。ややこしいのですが、ヨハネという名はありがちな名で、先ほどから言っている福音書にもヨハネと付けられているのがあり、手紙には三つもあり、第一・第二・第三と呼び分けられています。さらに、ヨハネの黙示録と呼ばれるものまであって、おどろきます。これらは伝統的には、同一の人物が書いたとする理解が多かったのですが、近代の文献学の研究では、それは難しいと言われています。それどころか、同じ福音書や黙示録は、最初に執筆した人物と、編集して書き加えた人物と二人いるのだ、とする研究者もいます。
 
この著者たちであるヨハネとは別に、イエスの宣教の初期において、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物がよく登場します。しかも重要な役どころで、ルカによる福音書では、そのヨハネの誕生についても不思議な出来事があったということが、詳しく書かれています。イエスの親類であり、半年ばかり先に生まれた子なのですが、このヨハネが、救い主メシアがくるのだというメッセージを世に放ち、多くの人がその心構えをもてるように準備したというのです。
 
今日開かれた箇所の直前の、マタイによる福音書の3章前半では、このヨハネがデビューしてからのことが記録されています。メシアの準備、つまり「主の道を整え」(3:3)る者であり、「荒れ野で叫ぶ者」(3:3)であるとして、イザヤ書の引用によってマタイは紹介します。人々は、神の国がいよいよ来るということを信じ、ヨハネの許に集まってきます。そして罪を告白し、洗礼を受けたという様子が伝えられています。
 
入団した野球の投手が、「プロの洗礼を浴びる」のように世の中で使われることがあります。「狭き門」にしろ、これにしろ、あまりに正反対の意味に用いられる聖書の用語については、ちゃんと抗議をして、そのような使い方をしないように世に働きかける必要があると私は考えます。それは決して威張るためではなく、それにより正しい意味について知ってもらうチャンスだと思うからです。事実そのようにして、近年「他力本願」という言葉は慣用句から消えました。浄土真宗が強く抗議したからです。
 
さて、その洗礼、経験者はなにしろ体験したことですからよく分かるのですが、一般的には深い意味は分かっていないように見受けられます。信者となるための儀式、というくらいの了解ではないでしょうか。ではその洗礼というのは何なのでしょうか。福音書では、このヨハネの登場によって初めて、この語が登場するようになります。まさに、「洗礼者」ヨハネと呼ばれる由です。
 
すると、旧約聖書では、洗礼はあったのでかどうか、気になります。それがどうも、旧約聖書では、このヨハネのような意味をもつ洗礼という意識なかったように見えます。もちろん、汚れた体を清めるために水に身を浸すという考えはありました。身体を清潔にするという意味もあったでしょうし、宗教的な意味合いから水に浸かったり、水で洗ったりすることはあったし、律法として定められていた項目もありました。
 
それを、このヨハネが、私たちいまのキリスト者が考えるような洗礼という形をもたらした、そのように見えるのです。この洗礼という言葉を、宗派によっては「バプテスマ」という語を使うべきと考え、聖書にもそのようにルビを振っているということがあります。「洗礼」だと、まさに字のままに「洗う儀式」のように見えるかもしれませんが、元の語が表すことは、その程度のものではありません。実に、水に浸けるというこの言葉は、露骨に言うと「溺死させる」というふうに使われるそのニュアンスを宿しているのだそうです。
 
洗礼者ヨハネが洗礼を施したというのは、人々に向けて、「一度死ね」と言っていることになります。そのために、予め、あるいはこれと同時に「悔改めよ」(3:2)と言うわけです。
 
3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている
 
そう言えば、洗礼者ヨハネの第一声として聖書が証言しているのは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)というようなことでした。ここでいう「天の国」とは「神の国」という意味で、さらに言えば「神が支配すること」で、いよいよ救い主が来てイスラエルを、人を救うことが実現するのだ、という迫りを訴え、その準備として、「悔い改めよ」と言っていることになります。ヨハネは、まず悔改めの号令から世に向かったのです。いったい、悔い改めとは何でしょうか。
 
「悔い改め」は、言葉としては世間でも聞かれている言葉のひとつだろうとは思いますが、「洗礼」とともに、適切な意味が認知されているようには見えません。後悔するという程度ではありません。私たち人間が、自分の生き方を完全に反対方向に、180度向きを変えなければならない、ということ意味します。これまでの生き方をすべて変えよ、というのです。そのためには、「一度死ね」とヨハネが言っていることになります。そしてヨハネの元に集まってきた人々は、まことにその通りだ、とヨハネに従ったのです。
 
集まってきた人々の中には、いろいろな人がいました。「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」(3:7)とも言います。ヨハネは彼らにはずいぶんと手厳しい言葉をぶつけました。いえ、もう罵倒したと言ってもよいくらいで、特にマタイはきつい当たり方をしています。マタイは律法を尊重するタイプですが、ユダヤの律法を真の意味で理解し、生かそうとしたのはイエスであったと堅く信じています。そこで、イエスと対立し、イエスを死に追いやった張本人であるような、「ファリサイ派やサドカイ派の人々」は、偽の律法理解を自慢したり、強要したりしていたために、許せない気持ちがあったのだろうと思います。
 
洗礼者ヨハネが迎え、また受け容れたのは、社会的な弱者や、罪人と呼ばれ爪弾きにされていたような人々、少なくとも神の言葉の前に項垂れ悔い改めの態度を示す、庶民が多かったのではないでしょうか。こうした人々が、「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3:6)のです。
 
人々の間からは、待ち望んでいたメシアはこのヨハネではないか、という声が多々起こったことでしょう。実に変わった風体で、また真実に神のことを教えている。人々の心を悔い改めさせ、神を迎える準備をしている。まさにメシアの姿に相応しい存在ではなかろうか、というわです。しかしヨハネ自身は、自分がメシアだとは考えていませんでした。
 
3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
 
マタイは、このヨハネが救い主ではないのだ、その後に登場するイエスこそそれである、ということを、読者に明確に印象づけるのです。
 
普通、この場面ではどうしても、イエスがどんな思いであったのか、イエスのこれからはどうなるのか、そんなことへと関心が集まります。私はどこか天の邪鬼でもありますのと、それから私が今回ここから聞いたことをお伝えするために、少しばかり制限をかけさせて戴きます。それは、このヨハネの目でこの場面を見る、ということです。
 
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
 
さあ、目の前に、イエスが現れました。ヨハネはすでに分かっていました。自分は、悔い改め事業を一部担当するものの、そのすべてではありません。このプロジェクトを完成するのは、別のお方です。そのエキスパートが、いま目の前に現れたわけです。しかも、このぺいぺいの自分に、洗礼を受けさせてくれ、と言った模様です。
 
いやいや、それは違うでしょ。ヨハネはとんでもない、と断ります。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と抵抗しました。それは、イエスに思いとどまらせようとしたということが、マタイの筆から分かります。
 
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
 
今は? とりあえず今はするなということ? では、後では止めてよいの? それはなんだか違うような気がします。
 
これが相応しいのだよ。イエスの言うことは、なんだか難しくて、よく分かりません。しかし、ヨハネはこれに対して「イエスの言われるとおりにした」(3:15)のでした。そう言えば弟子のペテロも、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカ5:5)と言って、イエスの無茶な言葉に従った記録がありました。収税人マタイに「わたしに従いなさい」(マタイ9:9)と呼びかけ、すぐに従ったという記事もありますし、ペトロなども「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われて、網を捨ててイエスに従っています。なかなか立派な信仰というか、ちょっと危ないというか、しかしイエスの言葉の権威やその力を強く感じさせる出来事ではありました。
 
それでここでも、ヨハネはイエスの言われるとおりにしたのですが、それはイエスに従うというようなことではなく、なんとイエスに洗礼を授けるのでした。つまりイエスに対して「一度死ね」と突きつける使命を受けたのでした。
 
尊敬する偉い人から、自分を殴れなどと命令されたら、できるでしょうか。では殴ったら、尊敬していることを否定することになるのでしょうか。人間同士ではひじょうに難しい問題だと思います。しかしここはイエスです。そのイエスの命じることに従うことこそが、イエスを崇めるということになる、その素直な選択を、ヨハネは採ったということになります。
 
この後イエスは、開かれた天からの祝福を受け、神の霊が鳩のように折田だの、愛する子という声がしただの、視覚的聴覚的に、神秘的な現象があったのだとマタイは記します。神学的には興味深いところでしょうし、福音書全体や、イエスという存在について知るためには大切な探究となるのでしょうが、今日はその道に入り込みません。もったいないですが。
 
ここで訳出していない原語があることに気づきました。「すると見よ」という言葉が、二つあるのに訳出していないのです。これはしばしばこの翻訳がとる態度なのですが、原文で「すると見よ」というのは、明らかにここに注目せよというサインですから、これを見落とすのはもったいないことです。ここにあるのは、「すると見よ、天が開かれた」というような部分と、「すると見よ、天からの声」というようなところです。前者の視覚的な事柄については、それを見たのはイエスだということが分かります。けれども、後者の聴覚的なものについては、誰が聞いたということは書いてありません。
 
私が困るのは、このときヨハネは、この現象を、見たのだろうか、聞いたのだろうか、ということがはっきりしないことです。ヨハネはこの現象の横で、何かを認識したのでしょうか。
 
「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」(3:11)と考えていたヨハネが、なんとイエスに「死ね」とばかりに洗礼を授けました。こともあろうに、イエスにそれをした。頼まれたとはいえ、とんでもないことをした意識があったかと思います。なにせ自分には、その方の足元にも及ばない、何の値打ちもない自分が、しでかしたわけです。
 
この後、イエスの現象を見たのか聞いたのか、定かではありません。ヨハネはこの舞台から消えてしまうのです。
 
ではこの「すると見よ」は、誰に対しての言葉なのでしょうか。誰に、注意を喚起したのでしょうか。ヨハネに対してではなさそうです。イエスに対してでしょうか。それは難しいでしょう。そう、明らかにこれは、読者に向けて「見よ」と注意を促しているのです。読者に、このイエスこそ、待望のメシアなのだ、律法の完成者なのだということは、すでにクリスマス・ストーリーからずっと告げていたはずですが、この洗礼の場面において、「見よ」と著者マタイが主張したのです。この方こそメシアにほかならない。いまからその歩みが始まるのだ、スタートなのだ、と。
 
マルコの叙述を、マタイは引き継いでいます。少し長いですが、マルコによる福音書の初めからこの場面までをお読みしましょう。
 
1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
 
とりあえず二つ確認しておきます。ひとつは、こちらのヨハネは、マタイのように遠慮したりためらったりすることなく、直ちに洗礼を与えています。それからもうひとつは、天が裂けたり声がしたりしたとき、「すると見よ」という語は全く見られない、ということです。
 
このようなマルコの書いたものは、マタイの執筆のときにすでにあったと言われています。そしてマタイはこのマルコの書いたものに満足せず、自分のアレンジを加え、ときに新しい資料を用い、ときにマルコを加筆修正しながら、自分の教会に必要な福音書を形成していきました。マタイは、より律法や預言の成就としてのメシア像を、読者に突きつける役割を使命としたようです。
 
すると、マルコに付け加えたり変更したりしたマタイの記事について、マタイの責任だとして批判したり追及したりしないで、当時のマタイの教会の伝統の中にあった様子と、その信徒に対して、神の言葉を理解させ、また時に突きつけるものを、この新しい福音書の中に設置しようとしたのだというふうに捉えてみたいと思います。
 
どうやら、マルコの福音書のヨハネは、ためらいもなしにイエスに洗礼を施しています。しかしマタイの福音書のヨハネは、ためらっています。マタイはヨハネに、ためらわれたのです。ヨハネの心情を慮ったのです。
 
自分にはイエスに何か匹敵するような値打ちなどない。洗礼は自分がイエスから受けるというのならまだしも、その逆などありえない。この気持ちは、私たちも共感できると思います。しかし、私たちであれば、謙遜しながらも、どこか自分を誇るような心理が隠れているのが普通です。ヨハネにはそれはなかったはずです。
 
マタイは、ヨハネに感情を抱かせました。そして、「見よ」という読者への促しをもたらしました。感情をもつのは、普通の人間である読者がそうだからです。「見よ」と促したのは、その読者に注意させるためです。私たちは、ヨハネの立場に少しばかり身を置いてみることによって、ふだん見逃しているかもしれない視点を与えられました。マタイにおいて、私たち読者が、強く問われているのです。この物語はあなたへの問いかけなのだ、と呼びかけ、招かれているのです。
 
すると最後に、置いておいた謎に触れる機会ができました。「今は、止めないでほしい」(3:15)とのイエスの回答です。ヨハネが感情を入れて、ためらったその時に、イエスは、「今」という語を入れました。これは何だったのでしょう。
 
「今」は「過去」や「未来」と対比されがちです。つまり、過去から未来へ向けて流れる時間の中で比較できるような形での「今」のことのように、私は最初考えてみました。けれども、私に突きつけられてきたマタイの筆致に遭遇して、私は、そのような「後で」との対比のためにこの「今」があるのではないように思えてきました。この「今」は、まさに「今」なのです。読者がマタイから、あるいは神から、突きつけられたこの挑戦を受けたその「今」なのです。時間的にいつだとか比較していつだとかいうことではなく、神の言葉を受けたその特別な時、神との関係が生まれた時のことです。特別な瞬間、出来事が起こるかけがえのない時です。あなたは、ここから何を聞きましたか。そして、聞いた「今」、どうしますか。
 
そこでさらにまた、問わないではいられません。どうしてその「今」が、この洗礼の記事にとって必要だったのでしょう。それは、イエスが宣教をここから始めることになるからです。この後イエスは悪魔の誘惑を受けると、実際に人々の中に入り、宣教を始めます。この洗礼は、イエスの活動のスタートでした。まさにこの「今」を以て、イエスの人としての歩みが始まります。この「今」に相応しいこと、スタートのために必要なぴったりのこととして、洗礼というものを置く、としたのです。それはちょうど、イエスに従っていく私たちキリスト者が、その弟子としての歩みを始めるのが、洗礼であるのと同様です。私たちは過去の自分に死に、それに別れを告げて、洗礼を以て新たな人生を始めるのです。始めることができるのです。
 
新しい年を数える人間世界のカレンダーは、人間が決めた区切りであり、恣意的な計画に基づくものであるかもしれません。しかし、とにかくスタートラインに今立って、過去を振り払い、希望と共に歩み始めることが許されました。2020年の悪夢のような世界は、まだ解決されたわけではありません。医療従事者を中心に、生命を懸けて過酷な情況に置かれた人たちがいます。経済的に崩壊する訊きの中にいる人たちがいます。信仰の上でも困難を覚えているキリスト者たちもきっといることでしょう。でも、それでも、曲がりなりにも、ここからスタートできます。今という相応しい時を感じて、スタートラインに立たせてもらっているのです。さあ、ここからです。



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