いま「おめでとう」は言えない

2021年1月1日

いまこのときも、感染症に苦しむ方々がいて、その影響で診療や手術に影響を受けたために苦しむ他の疾病の方々がいる。
 
そして、本来休暇もありえたような、医療従事者が、休みなく懸命の治療と看護を続けている。家に帰れない立場の方もいるし、帰れても、外にさえ出ない生活を続けているということは、あまり認識されていない。そのうえ家族などとともに差別と偏見を浴びている。これを「懸命」と表さずして、何を懸命と呼ぶのだろうか。
 
おめでとう、とその方々に言えるときまで、その言葉は封印したい。そもそも年神に由来する言葉であるように受け止めているのと、歯止めなく膨れ上がる感染者増加と重症者・死者の増加のニュースに、新しい年にどう希望を懐いてよいのか分からない中で、「仲間たち」の労苦の姿が頭から離れないためだ。
 
経済的に絶望している方々のことも、そうだ。マルクスの「資本論」が1月の「100分de名著」で紹介されるが、その指摘を根底として、さらなる狂いが、多くの人々の生活を打ちのめしている。「生活」が「LIFE」だとすれば、それは「人生」であり「生命」でもある。
 
もちろん医療従事者という名称以外にも、介護や福祉関係の勤務の方々、その他のエッセンシャルワーカー、公務の方々のことも含めて気にしているが、とくに感染の現場に身を晒している医療従事者の方々とその家族や関係者のために、祈る。
 
言えるようになったら、その方々に届くようにまず、「おめでとう」という言葉を使いたい。



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